第2話 中臣鎌足

 一千年以上にわたり栄華を誇った藤原氏は神別氏族 中臣氏から分かれた氏族であると、正史『日本書紀』は伝えている。藤原氏の氏神を祀る春日かすが大社には 4柱の神が祭祀されているが、その中の1柱は 中臣氏の祖神 天児屋根命であった。

 中臣氏は元来 神事を司っていたが、それ故に仏教受容問題で、排仏派の物部氏とともに崇仏派の蘇我氏と対立。その後、紆余曲折を経て、中臣氏の中から蘇我宗本家を滅亡に追いやる立役者が登場したとされている。その人物こそが、藤原氏の祖 中臣鎌足なかとみのかまたりだった。


 後の"大織冠"こと藤原鎌足は、7世紀初頭 大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)あるいは大和国大原(奈良県明日香村)で誕生したと伝えられている(614年?)。平安時代に成立した歴史書(『大鏡』)には 遠く常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とするものもある。

 父は 中臣氏第一門の祖 中臣御食子みけこ。中臣氏は、鎌足の父の代から三門に分かれていた。余談だが、御食子は第33代 推古女帝の崩御後、その後継として 蘇我蝦夷とともに 田村皇子,後の舒明天皇(第34代)を推挙した人物である。

 鎌足は 御食子の長男として 初め"鎌子"という名で正史に登場するが、その名は 物部尾輿おこしとともに排仏を行った中臣鎌子と同名。字を"仲郎"といい、兄弟関係や母については 不明な点が多かった。

 藤原氏の祖であるにも関わらず、鎌足の前半生は詳しくは分からないが、若い時分 遣隋使帰りの学問僧に儒学を学んだとされている。また、中国の兵法書『六韜りくとう』を暗唱するほど読み込んでいたとも伝わっていた。

 鎌足が活躍したと考えられる期間は、7世紀半ばから彼が亡くなるまでの間(第35代 皇極女帝の末期〜第38代 天智天皇の後期)だが、第37代 斉明女帝期には 鎌足は ほとんど歴史の表舞台に登場せず、鳴りを潜めていた。この時期は ちょうど朝鮮半島情勢が悪化の一途を辿った頃であるが、鎌足はこれと深く関わっていて、活動していたのではないかとの見解も存在していた。

 鎌足は その後、第38代 天智天皇の時代に亡くなっているが(669年)、死に際して 天皇に「生きては軍国に務無し」と述べたと記されている。にもかかわらず、当時の最高冠位であった"大織冠"を授けられ、また"藤原"の姓を賜った。

 ちなみに、織冠を授かったのは 私の知る限り、鎌足と百済王子 余豊璋よほうしょうの2人のみであり、ついでに言えば、この時代 姓を賜るということは 元いた氏族からの独立の意味合いを有していた。

 鎌足の墓は、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある阿武山古墳だと一説には考えられているが、その古墳からは 織冠とみられる冠が発見。そして、被葬者は 腰椎等を骨折していたことも X線写真の分析で分かっている。鎌足は その死の少し前に落馬しており、死の直前には 藤原氏の館に雷が落ちた記録も存在していた(姓を賜る前)。


 藤原氏の始祖 中臣鎌足には 前半生や壮年期に記録の空白期があるなど不明な点も多く、自ら「軍功なし」と述べている。にも関わらず、彼は当時の最高位を授けられ、かつ、新たな姓を賜っていた。その所以として ある政変での類まれなる勲功が想像された。

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