第18話 天武の主張と持統のアンチテーゼ(前編)

 壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)は 王朝交代に成功し、自らが編纂を命じた歴史書内において そのを堂々と掲げていたのではないかと私は胸算している。"天祚一種"、明治以降は 一般に"万世一系"と言われるが、その血の繋がりは あくまで天皇家側の事情であって、簒奪者が慮ることでは通常あり得なかった。

 天武天皇は、真実,第37代 斉明女帝の子であったと私は思料しているが、このことから 彼が天皇家に配慮したことが考えられるかもしれない。しかし、大乱を起こし強大な権力を得るような人物が 自らの出自・父祖ルーツを隠し、否定するような我の弱い 慎ましい性格だとは到底 私には思えない。天武のの身分が低かったから箔をつける必要があったとも検討されるが、私は 彼の一族は一度ひとたび 至尊の座に就いたと愚察していた。

 だとすれば、やはり 天武の権力者が、天武がつくっていた正史の内容を改変したのではないだろうか? 天武の亡くなる直前の正史の記録には、三種の神器の一つ"草薙剣くさなぎのつるぎ"が 天武に祟ったとの記述さえ存在していた。

 では、仮に それが事実だったとして、


 第40代 天武天皇は、だったと私は揣摩憶測している。彼は 時の天皇を弑虐し 登極、歴史書の編纂を命じているが、 と私は予想している。歴史書において、最後を飾るのは 前王朝の最後の王 あるいは新王朝の初代であり、実際 第50代 桓武天皇は 自らが編纂を命じた六国史の二『続日本紀』を己が治世で締め括らせていた。

 天武は又、と私は探究している。天皇家の初代 神武天皇には「神武東征」という征服譚が存在するが、そこには 天武の事績である壬申の乱が投影されていると一説には賢察されていた。

-と、ここで ちょっと引っかかるのが、 ということだ。この時代の歴史書の構成を念頭に置いたとき、語られるのは 主に前王朝の歴史であって 新王朝の祖先についてではあり得なかった。

 天武の想定した史書において、最後を飾るのが 天武だったというのは まぁいいだろう。だが、蘇我氏の人物 天武が前王朝である天皇家の初代に自らを投影させたというのには、流石に私は違和感を覚えた。

 されど、これまで述べてきた全てが間違っていたとも私には思えない。・・おそらくは、何か重大なことを見落とし、討究に組み込んでいなかった…

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