第17話 歴史書

 日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の御代、聖徳太子と蘇我馬子らの手によって、『天皇記』や『国記』といった歴史書がつくられた(620年)。これらは 編纂されたことが伝わるのみで 現存していないが、その所以は 、ほぼ失われたからだった(645年)。

 このことから、これらの史書が 天皇家より 蘇我氏と深い繋がりがあることが窺えるが、『天皇記』『国記』の編纂を命じた聖徳太子(厩戸うまやど皇子)は 有力な蘇我系皇族であり、蘇我うま子は 蘇我氏全盛の立役者だった。

 余聞だが、私は と踏んでいる。彼らは 特に外交政策に秀でており、以前の敵対国 高句麗や新興の大国 隋とも上手うまく駆け引きするなど、時流に合わせた柔軟な外交を行っていた。


— 中国などにおいて、歴史書は 王朝が交代した際に編纂されている。それが日本において 必ずしも当てはまるとは限らないが、奈良から京(平安京)に遷都した,桓武天皇(第50代)は 歴史書(『続日本紀』)の編纂を命じていた。

 また、時代は下るが、六国史に続く『栄華物語』の正編は 藤原最盛期の人物 藤原道長の時代で終了している。この時代は 遣唐使廃止(894年)後で日本独自色が強いが、 。六国史の一『日本書紀』は 全文 で記されていた。


  六国史の一『日本書紀』(神代〜持統)

      二『続日本紀』(文武〜桓武)

      三『日本後紀』(桓武〜淳和)

      四『続日本後紀』(仁明)

      五『日本文徳天皇実録』(文徳)

      六『日本三代実録』(清和〜光孝)

  『栄華物語』(宇多〜堀河)


 『日本書紀』の編纂命令者 天武天皇(第40代)は、 。その血統(天武系)が断絶した後、が桓武天皇であり、彼によって編纂を命じられた歴史書が六国史の二『続日本紀』だ。このことを鑑みると、『ことが疑える。思うに、推古朝において、聖徳太子と蘇我馬子が編纂させた歴史書も そうだったのではないだろうか? 推古女帝の前代である第32代 崇峻天皇は 実に暗殺され果てていたのだった。

 そしてもし、王朝交代が事実だったとすると、 。史書編纂の意図からすれば、当然であるし、

 それが何故 天智天皇(第38代)の弟として天皇家に組み込まれ 本当の素姓が隠されたかと言えば、天武の次代 持統女帝(第41代)が 正史を改変したからだろう。彼女は 天智天皇の娘であり、壬申の乱の敗者 "正統"大友皇子の姉弟だった。畢竟、? 実際、天皇家の最高神 天照大神には、女傑 持統天皇の事跡が投影されていた。

・・歴史書には 少なからず嘘が入っている。正史は 正しい歴史とは相成らず、時の権力者の正当性を示すための宣伝文書に過ぎなかった…

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