第16話 天武と蘇我

 私は、壬申の乱の勝者 天武天皇(第40代)を 蘇我氏と関係する人物だと目算している。

 かの内乱において、紀氏や巨勢氏等の。勝利を収めた大海人皇子は その後、 飛鳥で即位していた。

 蘇我氏は "鳥"を一族の象徴としていた節があるが、天武天皇の亡くなる時の元号を"朱"といい、天武天皇の時代が中心となった文化を"白文化"といった。


 大海人皇子は、天智天皇(第38代)から「お前に位を譲ろうか?」と誘いをかけられた際、事前に「お言葉にお気をつけ下さい」との忠告を受けているが、かの忠告を行った者の名は 臣安麻呂。この時、大海人皇子は 頭を剃って吉野に隠れ、事なきを得た。

 爾後、天智天皇が亡くなり、壬申の乱へと繋がるが、かの争乱は 朝鮮半島の一国 新羅と中国王朝 唐のどちらと同盟を結ぶかの争いであったとも考察されている。

 このうち、前者新羅と天皇家は 欽明天皇(第29代)の時代から宿敵関係にあったが、乱後、天武天皇は 新羅と遣使を交換し、唐との遣り取りを断絶。このような政策が採用されたのは、彼が 従来の天皇家とは異質な血統の持ち主であり、全方位外交を行う一族の出身だったからかもしれない。

 ちなみに、私は 天武朝は"蘇我王朝" だったのではないかと愚慮している。壬申の乱という大乱に勝利を収めることができたのも、先代があったからだったのではないだろうか? 天武天皇を、漢の高祖 劉邦になぞらえる見解が一部で唱えられているが、それだけでなく、天武を漢王朝の者 光武帝(後漢の初代皇帝)にする見解も、確かに存在していた。

 天武天皇は、神話の中で 日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)を 天照大神あまてらすおおみかみに比定していたのではないかと私は当たりをつけているが、ともすれば、そこに 天武にとっての先代がいたのやもしれない。その時代、中国王朝 隋に使節が派遣されているが、そこ『隋書』には男王(アメタリシヒコ)の名が記録されており、また、『国記』『天皇記』といった歴史書が編纂されていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る