第15話 蘇我鞍作(入鹿)

 蘇我氏の4代目 蘇我鞍作くらつくりは、一般に"逆賊"として広く認識されている。

 彼は、自らの子をと呼ばせ、父 蝦夷と自らの墓を"大陵おおみささぎ""小陵こみささぎ"と称するなど、傍若無人な振る舞いをしていたが、645年 天皇家の乗っ取りを謀ったとして、中大兄皇子,後の天智天皇らによって、親子ともども誅滅された(乙巳の変)。

 近年 発掘された小山田こやまだ古墳は、一説には、鞍作の父 蝦夷えみしの"大陵"かと推測されているが、それが事実だったとすれば、造ってからすぐに破壊された形跡から、その際の暴風エネルギーが いかに凄まじかったかがうかがえた。

 因みに、乙巳の変において、飛鳥板蓋宮で 鞍作が暗殺された後、蘇我氏の館に集まったのが、高向氏と東漢やまとのあや氏である。彼らは、一旦 蝦夷とともに戦う素振りを見せたが、将軍 巨勢徳多こせのとくたの説得によって 蘇我氏の館を退去。翌日、蝦夷は 館に火を放ち自害した。その際、『天皇記』『国記』その他の珍宝が焼けている。


 高向王と宝皇女の間の子である"漢皇子あやのみこ"が 天武天皇の正体であるとの説を私は支持しているが、この高向王を 私は蘇我氏の4代目 蘇我鞍作だと疑っている。

 なお、"高向王=蘇我鞍作"説は 既に存在するが、その中で、"漢皇子=天武天皇"は採られていなかった。また、"蘇我鞍作の子=天武天皇"も 一部で見受けられるが、その説では、高向王のことには触れられていなかった。

 用明天皇の孫 高向王が蘇我鞍作であった場合、鞍作の母,すなわち蘇我氏の3代目 蝦夷の妻は皇女だったのではないかと私は壁越推量している(酢香手姫皇女:用明天皇の娘)。蝦夷の父である蘇我氏の2代目 馬子は 第33代 推古女帝との不義が囁かれており、蝦夷の子である鞍作にも同様の噂が立てられていた。この時期、 と私は憶測している。


 蘇我馬子 — 蝦夷 — 鞍作(入鹿)

  ‖密通?     ‖密通?

 推古女帝     皇極天皇(宝皇女)

  ‖        ‖

 敏達天皇 — ⬜︎ —— 舒明天皇(田村皇子)


 ところで、蝦夷は 第33代 推古女帝の後継者問題が持ち上がった際、自らの一族とは血の繋がりの薄い田村皇子(舒明天皇:第34代)を皇位に推しているが、もしかすると、その一因として、田村皇子の妻 宝皇女と自らの息子 鞍作との関係があったのかもしれない。


 宝皇女と用明天皇の孫 高向王との間の子 漢皇子あやのみこを、究竟 私は だと愚慮している。

 漢皇子は 天武天皇こと大人皇子の正体だと目されているが、私が 漢皇子の父 高向王その人だと検討している蘇我鞍作の別称蔑称入鹿いるかであり、2人の間には関係性があることが窺われた。大方、これは暗喩だったのであろう。 だった。

 このような例として、他に 蘇我氏の2代目 蘇我子と 聖徳太子こと戸皇子の関係があると私は心当てをしている。聖徳太子は 一部で怨霊おんりょうであると狐疑されているが、その所以は 彼が本当は即位したにも関わらず、それが無かったことにされたからだろう。しかして、その理由は 太子が 実は天皇の皇子ではなく、馬子の子だったからではないかと私は恐察していた。当代天皇の黄櫨染御袍こうろぜんごほうを聖徳太子33歳像がお召しになる広隆寺の秘儀は、現在もなお行われている。

 正史『日本書紀』の内容は、時の権力者の都合によって、大きく改変されたことが予想されるが、多分 その代わりに隠喩が残されたのだろう。

 あと、私が 蘇我鞍作(入鹿)と大海人皇子の親子関係を疑う根拠として、があるが、その件については 最後の方で述べる。

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