第13話 高向王

 第31代 用明天皇の孫 高向王は、祖父は分かれど 父親は分からないという人物だった。中世の書物(『本朝皇胤紹運録』)には、用明天皇の孫ではなく であったとするものもあるが、ほぼ同時代の書物には、その続柄の人物に高向王の名前は見えない。用明天皇の第2皇子である厩戸皇子、すなわち、聖徳太子が有名となったこともあり その周辺の系譜は充実しているが、太子関連の史料において、聖徳太子の兄弟に 高向王の名はなく、聖徳太子の兄弟の子にも高向王なる人物はいなかった。


 高向王と宝皇女(皇極天皇)の間の子である漢皇子は、一説には大海人皇子,後の天武天皇の正体ではないかと疑われている。

 "漢皇子=大海人皇子"説を採る場合、その父 高向王の素姓が問題とされるが、それは大きく2つの系統に枝分かれする。

 1つは 高向王をだと考えるものであり、もう1つは 高向王は本当は皇族ではなく 漢皇子にはくをつけるために というものだ。

 後者の場合、高向王の本当の素姓については、

  ・高向玄理たかむこのくろまろ

  ・高向一族の誰か

  ・新羅人

などが挙げられている。

 新羅人という仮説が唱えられているのは、天武天皇(高向王の子?)が後年 新羅寄りの政策を採っているからだ。

 ただ、私としては、母が天皇だったというだけで、果たして 豪族達がついてくるかな、という気はしている。大乱で 多勢を実質的に率いるには、漢皇子の父 高向王が ある程度の規模の母体を持った豪族じゃないと務まらないのではないか と私は懸念していた。

 ちなみに、高向王が何故 用明天皇の系譜に入れられたかについてだが、概して 彼の本来の氏族が用明天皇と近かったから、もしくは 古代史の著名人 聖徳太子にあやかったから と憶測されている。

 翻って、前者,高向王が皇族だと考えた場合、その素姓は 聖徳太子の兄弟 当麻皇子たいまのみこの子ではないかと一部で囁かれている。

 当麻皇子の子である当麻豊浜たいまのとよはまの位は、天武朝のの中で最も高く、当麻氏は 壬申の乱で 大海人側で活躍したと見られていた。

 この説を 私は大変 興味深く捉えていたが、私自身は、高向王の父は皇族ではなかったと思料している。

 されども、冠位等を鑑みるに、当麻豊浜が天武天皇と全く無関係とは思えない。しこう して 用明天皇の子 当麻皇子の系譜を眺めていて、はたと私の脳裏に閃くものがあった。

 聖徳太子の異母弟 当麻皇子には 母を同じくする同母妹が存在するが、その皇女の名は、酢香手姫皇女(てひめのひめみこ)。 畢竟ひっきょう、用明天皇の孫 高向王とは、だったのではないだろうか? "すか"或いは"すが"というのは、一説によれば 蘇我そが(宗我・宗賀)の別称だった。余聞だが、彼らの本拠地は飛鳥(あ)という。

 古代史の有力豪族 蘇我氏と天皇家の間で、この時期 血の交配が行われているが、ひょっとすると、それは行われていたのかもしれない。

 なお、高向王と漢皇子の名前から、彼らと関係の近い氏族が読み取れるが、だった。


‖——聖徳太子

用明

‖——当麻皇子——当麻豊浜

◯ |

  ∟ 酢香手姫皇女

    ‖——?高向王

     ⬜︎?   ‖——漢皇子(大海人?)

        宝皇女

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る