第5話 白村江

 6世紀末期、分裂し 混迷していた中国を統一する王朝が誕生した(581年)。ずい王朝だ(統一は589年)。

 隋はもともと"隨"という字が当てられていたが、"しんにょう"が「走る」という字義を持ち、短命で終わることが危惧されたことから名称を変更(一説)。されども、かの王朝は 対外政策の失敗などにより、統一後、約20年ほどで滅亡した(618年)。

 隋朝の後、中国の覇権を握ったのは、世界帝国 とう。唐の王室は 前朝の親戚筋にあたっているが、隋から科挙など諸々の政策を踏襲。対外政策も受け継いだ。


—世界帝国 唐は、最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配下におさめている。その触手は 西方だけでなく 東にも向かい、当時は 中華圏外であった中国東北地方や朝鮮半島にも向けられた。中国東北地方から半島にまたがる国 高句麗こうくりへの遠征は 隋の時代から繰り返し行われていたが 果たせず、唐王朝に引き継がれた。

 唐朝も最初は 前朝と同じく高句麗を攻めあぐねていたが、第3代 高宗の時代 方針転換。高句麗の後背に位置する朝鮮半島南東の国 新羅しらぎと結び、まず高句麗の同盟国 百済くだらを滅ぼした(660年)。百済は 朝鮮半島南西部に位置し、この国とも関わりの深い国であった。

 これを受け、当時の倭国の首脳 斉明女帝(第37代)と その皇太子 中大兄皇子は、百済再興のため 半島への出兵を決定。しかれども この外征軍は、唐・新羅の大軍の前に なす術もなく敗れ去った(白村江の戦い:663年)。

 その後、時の政権は 大国 唐の侵攻を恐れ、西国に水城や大野城などを築き 防衛を固め、都を大陸から少しでも遠い位置ヘ遷し(近江大津京:667年)、人員を割り出すために戸籍の作成も行なっている(庚午年籍こうごねんじゃく:670年)。

・・苛酷な労役や締め付けを課された民衆からは怨嗟の声が続々と上がったという・・・これらの政策に中心的に携わった天智天皇(第38代)には、暗殺説も存在している。

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