第2話 壬申の乱

 第38代 天智天皇の崩御後、その跡目を巡って2人のの間で 骨肉の争いが起きたことが正史に記されている。古代史上最大の内乱 壬申の乱(672年)だ。

 この内戦で争ったのは、天智天皇の息子である大友皇子と 天智天皇の弟である大海人皇子。もともと 天智天皇は後継者として大海人皇子を考えていたが、そこは天智も人の親。子である大友皇子が長ずるに従って 我が子が可愛くなり、671年 大友皇子を太政大臣に任命。その死の間際には、弟である大海人皇子を枕元に呼んで「お前に皇位を譲ろうか?」と誘いをかけた。このとき 大海人皇子は その誘いに乗らず 出家し、吉野の山へと隠遁するのだが、この天智天皇の心変わりが 後の大乱につながったと正史には記載されている。吉野に旅立つ大海人皇子の姿を見て、周囲の人々は「虎に翼をつけて野に放すようなものだ」と噂したという。

 天智天皇が亡くなって しばらくして、大友皇子は天智のみささぎを造ると称して人夫を集めた。だが、その手には 鍬ではなく武器が握られていた。そして、このことを大海人皇子に伝えるものがあった。これを聞いた大海人は急遽 吉野を進発。各地で軍隊を集めて、不破の関(現在の関ヶ原付近)などで近江政権の軍と対決、大海人皇子の軍が勝利を収めた。しこうして、大海人皇子が飛鳥の地で即位。天武天皇(第40代)となった。

 余聞だが、この争乱(壬申の乱)は 初代天皇の事跡「神武東征」に投影されていると一説には推測されている。


 ところで、天智天皇の崩御から壬申の乱が起こるまでに半年の皇位の空白期間が存在していた。このことから、大友皇子は即位していたのではないかと古来より囁かれている。平安時代後期の『大鏡』や鎌倉時代初期の『水鏡』、更には徳川光圀が編纂を開始した『大日本史』では かの人物は天皇扱いされており、明治になって 大友皇子は公式に即位が認められた(弘文天皇:第39代)。

 そうして、この辺りの兼ね合いで 天武天皇の本来の素姓が隠されたことが疑われている。

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