第12話' 豊葦原中国の支配者(後編)
だが、"天皇家の聖者"聖徳太子が即位したなら、別に隠し立てする必要がないような気もする。もう一人の大国主 高市皇子が至尊の座に就いたという記録も残されていないのだから、実際には即位していずとも 対外的に国王ということだったか? 室町幕府の3代目 足利義満は 日明貿易を行っていたが、その中で "日本国王"と称していた。
聖徳太子が建てた斑鳩宮は 彼と蘇我馬子との確執により 飛鳥から距離をとったものと 一説には囁かれているが、かの宮は 飛鳥と瀬戸内海の窓口 難波を結ぶ"対外国向きの宮"。この場合、私が 神話の中で想定した聖徳太子の
しかしながら、実は 高市皇子にも即位説が唱えられていた。彼の父 天武天皇(第40代)が亡くなった後(686年)、后である持統女帝(第41代)が即位しているが(690年)、その間に3年の皇位の空白期間が存在していた。
加えて、彼の息子は 長屋親王と呼ばれていたことが近年の発掘調査から分かってきている(1988年)。この時代、"親王"という称号は 天皇の皇子もしくは天皇の兄弟にあてられていた。
そして、平安時代の歴史書『大鏡』には、
「太政大臣になった方は亡くなった後
必ず
しかし、大友皇子は後に帝になられた。
高市皇子の諡号は よく分からない。」
と取りようによっては、彼が即位していると取れる記述が存在している。やっぱり 私は、古代史の著名人 聖徳太子は この地上世界において 王として現実に君臨していたのではないかと胸算している。
じゃあ、仮に それが正しかったとして、何故 聖徳太子の即位は 苦しい言い訳をしてまで隠されなければならなかったのか? 私は、それは 彼が実際は 用明天皇(第31代)の子ではなく、蘇我氏全盛の立役者 蘇我馬子の子だったからじゃないかと想像していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます