第13話 間人
古代史の著名人 聖徳太子(厩戸皇子)の母親の名前は、
穴穂部間人皇女は、諸司巡行中 馬舎の戸口で産気づき 皇子を産んだとされているが、これは 一説にはキリスト教の故事を参考にしたのではないかと考えられている(厩戸という名に関しては 地名説もある)。
だが、私は 話はもっと単純で、これは 彼女と蘇我氏全盛の立役者 馬子との関係を隠喩したものだったのではないかと愚慮していた。人妻と密通する男を一般に"間男"というが、彼女の名は"間人"といった。
穴穂部間人は その後、法隆寺系資料によれば、子である聖徳太子とほぼ同時期に薨去。
太子の妃の1人 橘大郎女が 聖徳太子と穴穂部間人皇女の死を悼んで編んだといわれるのが "天寿国繡帳"である。穴穂部間人皇女は、太子とその妃 膳大郎女も合わせ、大阪にある
聖徳太子の母 穴穂部間人皇女の亡くなった少し後の時代に、彼女と同じく"間人"と呼ばれる皇女が誕生しているが、かの皇女にも密通疑惑が存在している。
かの皇女は 単に"間人皇女"と呼称されているが、このもう一人の間人は 舒明天皇(第34代)と皇極女帝(第35代)との間の娘であり、中大兄皇子や大海人皇子とは同母兄妹。後に、叔父である孝徳天皇(第36代)の皇后となったが、同母兄である中大兄皇子との間で不倫関係が囁かれていた。
この時代、近親間で同じ名を付けることが一概に珍しいとは言えないが、特にこの人物に"間人"の字を当てたのは 不倫が共通していたからだろうと一部では賢察されていた。
なお、一応 念のため、その名が 地名の線も探ってみたが(
あと、この時代 異母兄弟姉妹間の婚姻は
ただ、聖徳太子の母 穴穂部間人皇女が密通していたとしても、それが馬子であったとは必ずしも限らない。法隆寺系資料によると、彼女は 聖徳太子の異母兄 田目皇子との間に一女をもうけていた。このことを指した可能性も考えられないわけではなかった。
されども、やはり古代史の著名人 聖徳太子の出生のくだりや その後の聖人化はあまりに不自然だ。そこに何らかの秘密が隠されていたとしても、大して不可思議ではなかった。
そして、馬子というのは 恐らく蔑称であるが、そこに込めた当て擦りは 私達が気付かないだけで 結構 露骨だったのではないかと私は推察している。
聖徳太子の子とされる人物として山背大兄王が存在するが、彼は日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の後継候補となったものの 即位できず、爾後 蘇我氏の4代目
もっとも、正史『日本書紀』では 聖徳太子と"上宮王家"山背大兄王の関係は記されていないが、彼らは親子ではなかったとしても、馬子を通して関係があったのではないかと私は憶測している。山背大兄は 入鹿に攻撃された際、屋敷に馬の骨を置いて死を偽造。一旦 山に隠れたが、その山を生駒山といった。大方、親子間の暗喩は 他にも、乙巳の変で暗殺された人物(蘇我入鹿)と壬申の乱の勝者(大海人皇子)との間にも用いられていた。
この時代、蘇我氏は 天皇家に娘を送り込み 血の交配を行っていたが、もしかすると それは男女を換えても行われていたのかもしれない。
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