第14話 "聖徳"太子の真実(前編)
用明天皇の第2皇子 厩戸皇子は、後世において 聖徳太子と呼ばれている。聖徳太子の記録は、生まれた時から喋ることができたとか、壮年になって10人の話を一度に聞き分けた、亡くなった際には「日と月は輝きを失い 天地は崩れた」と記されるなど いささか常人離れしたものが多いが、それ故に 太子はその実在が疑われていた。
しかし 私は、これらは 太子が蘇我氏全盛の立役者 馬子の子であり、
聖徳太子は 神話において "豊葦原中国の支配者"大国主に投影されていると私は愚考しているが、その所以は 彼が天照大神に比定される推古女帝の次世代に当たることによる。大国主の父で 天照大神と
ただ、聖徳太子が 大国主に投影されている根拠が、世代が同じだからということだけでは あまりにも弱すぎる。他に目ぼしい人物がいないのは事実だが、それだけで 確定してしまうのは 流石に
されども、大国主と聖徳太子は ある面でも共通点を有していた。
豊葦原中国の支配者 大国主は、現在の島根県東部にあたる出雲の神である。出雲では タタラ製鉄が盛んであったが、このタタラが "
もっとも、記録の上では タタリをなしたのは大国主そのものではなく、かの神の同体とされる"大物主"だが(第10代 崇神天皇の御代)、大国主を祀る出雲大社で 現に怨霊封じ(2礼4拍手・注連縄逆張り等)をされていることを勘案すると、タタリの源泉が 大国主であることは濃厚。そもそも、"雲が出る"という言葉からして 怨霊の存在を感じさせた。この大国主と大物主の記述にも、時の権力者による史書改変の際 紆余曲折があったことが窺われた。
そして、大国主に投影されたと思しき聖徳太子にも 怨霊化の疑いがあり、その封じ込めが図られたと一説には主張されていた。
奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺(西院伽藍)は、607年 聖徳太子が創建したとされているが(『上宮聖徳法王帝説』など)、その説において、かの寺院の創建目的は 仏法鎮護だけでなく 聖徳太子の怨霊封じと推論。
この場合 当然、創建年への疑問が生ずるが、739年ころ 新たに造営された法隆寺東院伽藍夢殿から 木綿布でぐるぐる巻きに封印された秘仏(救世観音)がフェノロサらによって発見された(1884年)。
この秘仏は 聖徳太子の等身であると伝えられているが、もしそれを表に出せば 天変地異が起こるという伝承が残されており、仏像の背面はくり抜かれ空洞。加えて、後光を表す光背が直接 後頭部に釘で打ち付けられていた。
また、聖徳太子が亡くなって1月以内に埋葬されていることも、彼が怨霊化する懸念をされていた論拠の一つと考えられている。
亡くなってから埋葬されるまでの期間を"
一皇太子に過ぎないにも関わらず、"聖徳"という類稀なる諡を贈られていることも、この議論の
あと、聖徳太子の宮が "斑鳩"だというのも、私は 彼が怨霊として怖れられた傍証だと妄想している。
以上のことから、私はやはり 聖徳太子は怨霊と目されており 豊葦原中国の支配者 大国主の姿と重なるものと胸算している。
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