第12話 豊葦原中国の支配者(前編)

 私は、日本史上初の女帝 推古天皇のが 至尊の座に就いていたのではないかと疑っている。

 神話に当時の天皇家周辺の系譜を投影すると 豊葦原中国の支配者 大国主は その世代に当たっているが、この時代に おそらく存在した2つの対立勢力のうち、"スサノオ-大国主"に比定される人物達が 当時は 本道であり、正史『日本書紀』の編纂命令者 天武天皇は もともと自らのルーツ・正統性として その系統を掲げていたのではないかと私は推測していた。

 では、一体全体 誰がその人物に当てはまるのか? ここで 私の見解を述べさせていただければ、古代史の著名人 聖徳太子がその人物に該当すると私は思料している。その世代には、他に目ぼしい人物は見当たらなかった。歴史から名前を消されたという可能性を考慮しないでもなかったが、存在を完全に抹消することはできなかったのではないかと私は憶測している。


 私が、聖徳太子が登極していると考える理由として 彼の名前がある。もう一つの歴史書 『古事記』において 用明天皇(第31代)の中で、彼にだけ特に"みこ"ではなく"上宮之かみつみやの厩戸豊聡耳命うまやとのとよとみみのみこと"と"みこと"の文字が使用されているが、 。また、正史『日本書紀』は 彼を"法大王""法主王"、他の書物では"聖王""先王""上宮王"と 実に微妙な言い回しで呼んでいた。

 次に、聖徳太子は 蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』という歴史書を編纂したとされていた(620年)。残念ながら、これらは 乙巳の変(645年)の際に 蘇我宗本家とともに焼けてしまい、その後 失われてしまったが、歴史書というものは、中国などにおいてみれば 王朝が交代したときに編纂されていた。

 日本史上初の帝 推古天皇の御代に、王の名が外国の書物の中に記されていること(600年)も無視できない。隋側は、607年に 聖徳太子の派遣した遣隋使も阿毎多利思北孤アメタリシヒコからのものだと認識していた。

 この時代、60年に一度 辛酉しんゆうの年に天命が改まると信じられていたが、特に1260年に一度 大革命が起こると見做されていたのではないかと一説には考えられている。天皇家の初代 神武天皇は紀元前660年の辛酉の年に即位した勘定となるが、601と一部で主張されていた。

 ちなみに、辛酉の年に即位した天皇として 第50代 桓武天皇(781年)、即位しようとして果たせなかった天皇として 第45代 聖武天皇が挙げられる。後者が即位しようとしたのは、正史『日本書紀』撰上の翌年(721年)だった。

 紀元600年に派遣された遣隋使は 日本側の記録には残されていないが、或いは これは、辛酉の年の大革命と関係していたからこそ 抹消されたのやもしれない。


 古代史の著名人 聖徳太子は 天皇になり代わり 色々なまつりごとをしていたとされているが、これは 正史『日本書紀』の編纂者が で、私は 聖徳太子その人が 豊葦原中国の支配者 大国主であり、彼は 大王おおきみだったのではないかと愚考していた。

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