第11話 神話の内実とその変遷

 皇祖神 天照大神の「天岩戸」神話には、日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の御代に起きた日食が投影されていると私は考えている。

 だが、その神話が 正史『日本書紀』編纂を命令した天武天皇(第40代)の在位中に存在したかと言えば、筆者は そんなことはないと思料している。

 私は 天武天皇は 推古女帝の御代を最高神の舞台として想定していたと推測しているが、太陽の欠ける日食は この時代 大変不吉なものと認識されており、晴れの舞台の出来事としては 些か不適格だった。

 そもそも本当に、男帝である天武天皇が、女帝である推古天皇を 最高神として祀りあげていたのか? 天武の次代 持統女帝(第41代)は自らの投影先として女神を掲げているが、そのことから見ても、は 看過すべからざるものであった。

 そこで想像してみた。思うに、天武天皇は 最高神として男神を掲げていたのではないだろうか? 推古女帝が比定される天照大神の別名は"大日孁貴神おおひるめのむちのかみ"といい、その意味するところは 。大方、天武天皇が亡くなり、彼を心良く思っていなかった次代 持統女帝が即位するに及び、その辺りの記述が改変されたのだろう。

 畢竟、太陽神であった男神が持統によって その地位から廃され、その巫女であった女神が その地位に昇格。を、日食… すなわち「天岩戸」という形で表現したのではないだろうか?


 持統女帝は その後、推古女帝から天照大神の位置・地位ポジションを奪っているが、左様な不敬ことができたのは 推古が一応 天皇家であったから 最高神に昇格させたものの、からだろう。

 途中まで、持統は 天武天皇が作った神話の系譜を踏襲せざるを得ず、その中で反天武(反蘇我)を掲げていたことが想定されるが、対立勢力の大物の薨去後、彼女は孫への譲位を敢行。その事績は 皇祖神 天照大神の「天孫降臨」神話に投影されるなど、1人の大物の死後より その重しは外されていた。

 この「天孫降臨」は、もとは「天降臨」だったのではないかと一部では憶測されている。実際、正史『日本書紀』一書の「天孫降臨」は取って付けた感があった。

 しかし、元々、、 天照大神に、、、、、比定されていた、、、、、、、推古、、女帝、、の次代である舒明じょめい天皇(第34代)は 推古の孫世代に当たっており、私はここに、と疑っていた。

 そういえば、紀元600年、正史『日本書紀』に記載のない遣隋使の記録が 中国の歴史書『隋書』倭国伝に残されている。かの史料に記される その使節を派遣した倭王の名は、"阿毎多利思北孤アメタリシヒコ"。日本史上初の女帝 推古天皇の御代に、男王の名が 中国の歴史書に記録されていた。

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