第6話 古を推し量る

 聖徳太子の叔母 豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめのみことは 先帝 崇峻天皇(第32代)暗殺後、重ねて群臣による即位の請願を辞退したが、三度みたびに及んで ようやく承諾、豊浦宮とゆらのみやで 日本史上初の女帝として即位している。その際、 、甥である厩戸皇子を皇太子に任命し、 万機よろずのことを委ねたと一説には考えられている。

 彼女は 馬子と叔父・姪の間柄であったが、れっきとした天皇家の人間であり、彼女の治世における事績のほとんどは 馬子ではなく 皇太子である厩戸皇子のものとされていた。

 彼女は 2人が亡くなった後も生き続けるが、628年に起こった"日食"の5日後に崩御。私は、この日食は 伊勢神宮に祀られる この国の最高神 天照大神の「天岩戸」神話に投影されているのではないかと愚慮している。神話には、当時の状況が少なからず反映されていることが揣摩憶測された。

 正史を読む限りでは、豊御食炊屋姫尊は 自発的に即位する気はなかったかのように思われるが、彼女は 自らと敏達びだつ天皇(第30代)との間の子である竹田皇子を皇位に就けたかったのではないかとの見解もある。その目論見があったからこそ、として即位したというわけだ。群臣に請願されても何度か辞退するというのは 儒教では習わしパターンであり、本当のところは どうであったか分からなかった。

 ところが、この竹田皇子は若くして夭折。 というのは、あくまで中継ぎが必要であったことからの推測に過ぎないが、竹田皇子が 少なくとも 彼の母よりさきに亡くなったことは、彼女が亡くなる時に「竹田皇子と一緒の墓に葬って欲しい」と遺言していることから分かっている。そして代わりに、甥である厩戸皇子を皇太子に据えたことが恐察された。


 厩戸皇子自身が 崇峻天皇崩御後 すぐに即位しなかった理由として、従兄弟竹田皇子と同様 若年だったということが考えられるかもしれない。だが、このとき 彼は数えて19歳。当時としては 微妙だが、それは 女帝も似たようなもの。何より彼は とてつもなく優秀だったとされているのだ。

 余談だが、現在の『皇室典範』で成人とみなされるのは18歳からである(22条)。

 では、何故 聖徳太子こと厩戸皇子は即位できなかったのか? 

 この場合、竹田皇子の存在が 彼の即位の障壁となったことが推定される。竹田皇子の母 豊御食炊屋姫尊と先帝暗殺の黒幕 蘇我馬子の思惑が一致し、日本史上初の女帝が誕生したことが想像された。馬子にしてみれば、女帝のほうが操りやすいということがあったのだろう。彼らがにあったとの噂が真実であったとすれば、尚更だった。

 されども、この噂もどこまで本当のことか分からない。というのは、厩戸皇子の皇太子就任の事情は 彼らの男女の仲を隠匿するために曲筆された可能性が疑われないでもないが、皇太子の薨去後、馬子が「葛城県は私の本居うぶすなであるから賜りたい」と訴えたのを 彼女が拒絶した記述が残されているからだ(624年)。

 加えて、彼女は 亡くなる直前、後継者として 蘇我氏と繋がりの深い人間を指名しなかった。

 まだまだ この時点においては、あくまでも 彼女と馬子は ある程度 行動をともにしたと考えたほうがよさそうだった。

 ただ、この時代を記した正史『日本書紀』の成立の事情を考えると、ことはそう簡単に済むとは思われなかった。

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