[5-2]不死の期限


 少しの間、眠っていたらしい。

 いや、眠りの不要な身の上であるから、気絶していたというべきだろうか。


 魔力を高めすぎて過剰火力になった自覚はある。戦火せんか神の加護により炎熱には耐性ある身体だが、立っていた地面はそうでもない。

 だから、朱龍の戦場はいつでも焼け焦げているのだ。

 首の後ろに、滑らかで弾力のある柔らかさを感じた。夢心地で目を開ければ、真上に間近く少女の顔がある。勇ましくつった炎色の両、癖のあるあかい髪。引き結んだ唇がわずかに開かれ、鋭い犬歯が見えた。


「馬鹿デューク」

「……は?」


 ねぎらわれるかと思いきや、とげを含んだ声にののしられた。意味がわからないながらも状況を把握はあくする。恐れ多くも自分は戦火神に膝枕されて、顔を覗き込まれているようだ――と。

 ついでに、発した声が少しかすれてくぐもった音声だということも。

 フィーサスが細い眉をつりあげ、ぐっと顔を近づけてくる。背けようにも彼女の両手で頬を固定されているらしく、頭が動かない。


「デューク、おまえ、初恋は?」

「……は?」

「俺がおまえを見つけてから今日まで一度も彼女いたことなかったし、それ以前なら子供ガキでノーカンだな。で、いま好きなヤツっているのか?」

「……は?」

「おまえマジで女っ気ないもんな……。ま、いいだろ。女神の祝福は口移しキスってのが定番だし」

「………は? ちょ、やめ」


 寄せられる顔を押し戻そうと反射的に挙げた手が視界に入り、デュークは愕然がくぜんとした。最近ようやく見慣れつつあった筋肉質な生身ではなく、黒っぽく干からびた枯れ木のような腕。――つまり、今の自分は魔薬を飲む前の、ということだ。

 人に恐怖心を与える死屍しかばねの顔など、他人に見せたいものではない。それは、長年連れ添った戦火神に対しても同様で。

 しかし今は、顔を覆う布も頭を隠す頭布フードもつけていない状態だ。


 こんな自分に、今からキスをする――、だと?


「馬鹿。俺は女神様だぜ? 外見が何だろうと関係あるかよ」

「……いや、でも、なぜ、……キス?」


 身内以外の女性とするのははじめてだとか、フィーサスの外見が少女みたいで気まずいとかは、些細ささいなことだった。いや、そもそも女神の祝福キスでは数に入らないノーカンかも知れないが。

 長年の付き合いで、この戦女神がそういうたわむれをする気質でないと知っている。いまいち理解できない理由でものすごく気に入られ、執着されているのは確かだが。身体を取り戻した彼女が青年姿の――格別顔がいいわけでもない――自分と肉体的な交わりを楽しみたい、というならともかく。戦火神は、そういうタイプではないのだ。

 原因は不明だが、状況で。それも、一刻の猶予ゆうよもないということで。


 干からびささくれた指で女神の柔肌に触れるのは躊躇ためらわれた。代わりにデュークは地面に右手を着き、上半身をよじって女神の膝枕から逃れる、つもりだった。のだが。

 ぽきん、とあっけない音を立てて、手首が折れた。

 あわてて踏ん張ろうとして、異変に気づく。つま先で地面を蹴る感覚がない。より正確には、つま先そのものがなくなっている。

 視線の先で、少女のつりあがっていた眉が下がり、赤毛に覆われた大きな狼耳がへたりと伏せられた。


が解けつつあるんだよ、……おまえと、俺の。ウィルダウの野郎が何考えてんのかわかんねぇけど、思惑通りに動かされんのも、おまえを失うのも、俺は絶対に嫌だからな」


 頭蓋骨に皮膚ひふが貼りつき干からびた、眼窩がんがが暗くくぼんだ、不気味さをかもすミイラの顔は、表情を作ることができない。今の気持ちを、応答を、返さねばと思うのに、言葉すらも乾いた喉の奥に引っ掛かってしまう。

 いつか別れる時がくると考えていても、心の準備は全くできていなかったと思い知る。


 人間であったデュークにとって、死ねない体質というものは間違いなく呪いだった。

 肉体は老化し、衰え、潤いを失ってゆくのに、魂は劣化せず死期が訪れない。大きな得物を振り回すには筋力だけでなく体重も必要だが、文字通り骸骨化してからは大刀を振るうのも難しくなった。

 セルフィードが寄越した魔薬のおかげで仮そめとはいえ肉体を得て、本当に久しぶりに武器そのもので戦うことができたのだ。


 飲食の楽しみ、入浴や睡眠という至福、誰かと築く友情や恋――、そういったものを全部奪われたこの生は、確かに呪われたものなのだろう。不死の呪縛から解放され、命を終え、大地に還ることこそが、人間として自然なあり方だというのに異論はない。

 けれども、自分は――。

 頬に添えられた細い指が、乾いてざらりとした皮膚を愛おしげに撫でている。答えを出せず、眼球のない目で見あげたデュークに、戦女神は優しくささやいた。


「おまえの魂は、今もこれからも俺のものだ。デューク、おまえは俺の守護騎士パラディンだ。今さら拒否なんて認めないぜ」

「……わかった」


 少女の目がゆるく伏せられ、狼の耳がぺたりと下がる。頬から顔の輪郭りんかくをゆっくりなぞられ、軽くあごを持ちあげられた。目を閉じようとして、まぶたの皮膚も動くはずないと思い出す。唇だって、今の自分にはない。隙間の空いた歯がむき出しで口内も乾き切っている、おぞましい形相だ。

 それでも、女神の柔らかい温かさが触れるのはわかった。

 位置と角度を確かめるように数度、ついばまれ、柔らかく湿った舌が乾き切った前歯をそうっと舐めてゆく。獣が慈しむような祝福キス。何ひとつ返せない自分が虚しくなった。


 ――せめて。

 まだ形のある左手を伸ばし、ガサガサの指先で引っ掛けないよう慎重に、女神の頭に触れた。ふわっとした柔らかさに埋もれるしなやかな耳を確かめる。そっと撫でればぴくりと震え、くすぐったそうにパタパタと動く。

 抱きしめたい、という思いが無意識に動かしたのか、折れた右腕が持ちあがっていた。白く突き出る骨を視認し、改めて、自分の期限が迫っていることを自覚する。


 柔らかさも、温度も、ぬるい唾液だえきも、乾き切ったこの身体では返せない。けれど。

 胸の奥に、じんと痛みが宿る。

 心臓は遠い昔に動くのをやめてしまっても、心が死ぬことはなかったように。体温も体液も残っていない身体であろうと、願いや感情が消えることはなかったように。

 きっと、胸にともったこの想いだって、本物に違いないのだ。


 じわじわと身体の芯が熱を帯びる感覚に浸りながら、デュークはしばらくの間、触れあうだけの交わりに心をゆだねたのだった。




  ☆ ★ ☆




 一つ、また一つと、心象風景がばらけてほどけて消えてゆく。真正面で手を握りあっていた半身ファイアも、輪郭がおぼろげになっていた。

 火の粉が舞うように崩れつつある記憶せかいで、フィオと同じ顔をした少年が笑う。


「――うん、今度こそ、……」


 少年が発した言葉の最後も、火の粉に変わって散ってゆく。空になった手のひらをぐっと握りしめ、フィオは頷いた。炎が持つ破壊力、再生を導くエネルギー、怒りも優しさも勇気もとむらいも。何ひとつ、不要な記憶こころなんてないのだと知った。

 世界を焼き尽くしかけた破壊衝動は、ここに――フィオの中に戻ってきた。

 過去は変えられないし、罪は消えない。忘れず、けれどとらわれず、未来にために自分が今できることを果たしてゆこうと決意する。


(切り捨ててごめんなさい。ずっと、孤独ひとりにしてごめんなさい。もう僕は、僕のちからを憎んだりしないから)


 舞い踊る火の粉が光にわり、記憶せかいが開けてゆく。夢から覚めた気分で辺りを見回せば、遠くのほうに座り込んだ状態のデュークが見えた。すぐ近くに炎をまとった巨大狼と、斜めに突き立てられた彼の愛剣。その柄部分に留まっているのは――、


「あれ? フィーサスさん?」


 思わず声が出た。自分の声に違和感があったが、それより気になるのはデュークたちの様子だ。金髪青目の青年が顔をあげてこちらを見、安堵あんどしたように微笑む。

 フィオが急いで駆け寄れば、彼はゆっくり立ちあがり、衣服についた土くれとすすを払った。


「……フィオ、お疲れ様。上手くいった……ようだな? 大きくなっている」

「ぷっきゅぅぅウィィイ! きゅぴー!」


 デュークの大きな手のひらが、頭をわしわしと撫でてくれた。飛んできた白毛玉フィーサスが嬉しそうに、尻尾でフィオの肩をてしてし叩く。

 言われてみれば、向き合ったときの視点が少し高くなっているような。


「ありがとうございます。たぶん、上手くいきました! でも、フィーサスさん、その姿」

「……ああ。フィーサスは、力を取り戻したとはいえ一時的というか……呪いやらの関連で、節約のために、普段はこの姿でいることにしたんだ」

「ぴきゅ、キュキュ」

「そう、なんです……ね?」


 上手く説明する言葉が浮かばなかったのか、それとも何かを隠そうとしているのか。歯切れの悪い物言いは今始まったことでもないので、突っ込んで聞くべきかフィオは悩み、この場では流すことにした。

 無口なデュークの口を割らせることができるのは黒豹ディスク氏くらいなものだろうし、今はクォームやセスたち、天空の地へ向かった二人など、他の仲間たちとの合流を優先したほうがいいだろうと考える。

 全員が全員、上手くことが運んだとは限らないので、手助けが必要なら力にもなりたい。


「デュークさん、フィーサスさん。僕たち、これからどうしたらいいですか?」

「……ん、そうだな。まずは一旦、砂漠都市サグエラへ戻ろうか。調査隊の無事と神殿の破損状況も気になるが、外界では数日経過した可能性もある。……サグエラの、調査隊の拠点か騎士団駐屯地に行って、現状を把握はあくしよう」

「はい。たぶん僕、サグエラになら、


 デュークが黙って目を見開いた。今フィオの中には、過去と現在の記憶が入り乱れて散らばっている。これをどう説明したらいいかわからないが、いかにも創世竜らしく、この世界のどこへでも望めば移動できる権能ちからが備わったのは、わかった。

 ルーナがいなければ砂竜サンドラには乗れないので、固有領域の結界を解いたら移動手段はおそらく徒歩一択だ。身体的には負担でないにしても、時間を無駄にしたくない。

 自分が竜化しても速度は出ないし、フィーサス絨毯じゅうたんも同じだろう。


「ふキュキィ?」

「……ええとな、フィーサスは危険がないかを心配しているが」

「ぶっつけ本番になっちゃいますが、たぶん、大丈夫です。昔は僕、この能力でいろんなを遊び歩いてました、から」


 同じく界渡かいわたりが得意な銀竜クォームと、数多あまたの異界を見てまわった日々を思いだす。

 あの頃はりゅうも元気だったし、数は少ないが友人と呼べるひとたちもいた。大切な想い出だ、と今なら思えるが、やんちゃだった頃の黒歴史を開示するようでもあり、照れ臭い。

 口元を隠すように手を組み、モジモジしながら視線をさまよわせれば、くすりとデュークに笑われた。


「そうか。それなら、……練習も兼ねて、やってみるといい」

「はい!」


 優しく返された同意に心が浮き立つ。嬉しくなってデュークを見返したフィオは、ふいに言葉にできない違和感を感じ、胸中で首を傾げた。

 サラサラの金髪も、蒼穹そうきゅうのような双眸そうぼうも、よく引き締まった筋肉質な身体も、変化らしいものは見られないし傷や欠損のような惨事も起きてはいない。何も心配することなどないと思うけれど。

 彼の中にかすかに息づくこの魔力けはいは、炎――生命力ではないだろうか。

 とはいえ、自分自身も精霊竜という特殊な存在であるフィオに、それ以上の解析をすることはできなかった。

 


 

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