第16話 パーソナルスペースは広めです

 結局かしゅみに合宿のことを切り出したのは翌日だった。それも、かしゅみをいつものシャツに着替えさせてリボンを巻いてやり、母を仕事に送り出した後。話した途端、予想どおりというか、案の定というか、かしゅみはやはり頬を膨らませてむくれた。そしてだんだんとその小さな目に涙を溜めてぐずぐずし始め、程なくしてみーみーと泣き始めた。


「ごめんね、かしゅみ君。でも連れて行くわけにもいかないし……。」

「やだぁ!ついてく!」

「迷子になったりしたら困るし……それに、部員の皆にかしゅみ君見せるのもなんとなく不安っていうか……。」

「こんなにカワイイのに!」

「だからそれ自分で言う?」


 昨日いくつか買ってきたおやつにも見向きもしない。今日のかしゅみは手強い。いつもならお菓子に釣られてなんの話だったか忘れている頃だろうに。


「はるちゃんはかしゅみとまいにちおやつたべてごろごろするのー!」

「もしかしなくても私、侵略済みの人間としてカウントされてるね?」

「かしゅみ、はるちゃんといっしょにいたいよぅ。」

「うん、私もかしゅみくんと一緒にいたい。でも部活の方も行きたいんだ。ごめんね?」


 ぐずるかしゅみを手のひらに載せて指先でいつものように撫でる。眉を下げてすんすんとしているものの、落ち着いてきたらしい。


「お願い聞いてくれる?いい子でお留守番できるかな。」

「……がっしゅくって、あぶなくない?」

「危なくないよ。お泊まりするのもわりと近くだし。」

「かえってきたらいっぱいかまってくれる?」

「ちょっと高いお菓子買っちゃおうか。」

「やくそくだよ?ぜったいだからね?」

「うん。約束。」

「じゃあ、おるすばんしてる。」


 やっとかしゅみは頷いた。普段元気に走り回る姿を見ているおかげでこうしてしおらしく、あまつさえいつもより割り増しで甘えられるとどうしても愛しさが増す。かわいそうで、でも、しょんぼりしているのもかわいい。この得体の知れない侵略者がかわいい。だから、晴奈はつい――本当に何の気なしに、つい、かしゅみの小さな口に軽く唇を寄せた。



「――あ。」


――ボンッ!


 間の抜けたかしゅみの声。ビンのコルクを抜いたような音。そして――部屋に充満する濃密な霧。時が止まったような無音の一瞬を経て、霧が晴奈の眼前に集約する。始めに分かったのはいつの間にかへたり込んでいた自分の手を優しく握る誰かの手の感触。次に、形の良い唇。そして鮮やかで深いエメラルドのような緑色の瞳。垂れ目気味のその目がしっかりと開かれる頃には、艶やかな黒髪の青年の姿がそこに現れていた。


「………………。」

「まさか……君が…………?」

「………………は?」

「…………あー、えっ……と。」


 青年は困ったような顔をしてる。晴奈は頭が追いつかない。しかし、今目の前にいるのは知らない男である。知らない男に至近距離で手を握られている。それを認識した瞬間、晴奈は普段の自分からは想像もできない勢いで手をふりほどいて後ろへと飛び退いた。自分でもどういう動きをしたのか分からないが、なぜか片腕にはかしゅみに渡した徳用チョコレートの袋を抱えて。ついでに眼鏡がズレた。


「……誰!?」

「かしゅみ君です!」

「うそぉ!?」

「う、嘘じゃないよ!今ちょっといろいろあって大きくなっちゃったけど!かしゅみ君ですよ!」


 体がよろける。あの手のひらサイズのもちもちぷにぷに不思議生命体が?なぜ?頭の中が疑問符で埋め尽くされる。――白いシャツとミントグリーンのストール。黒いスラックス。垂れ目でツリ眉。アシンメトリーに整えられた黒髪。言われてみれば確かに目の前の青年とかしゅみに共通点はある。しかし、当然ながらかしゅみはこんなに大きくなかった。そこでただ一つ、たった一つだけ現状晴奈の中でハッキリしていることがある。それは――


「小さい方がかわいかった……!」

「……!そ、そんな……!?今だって結構かわいいのに!」

「自分で言うな!」

「はるちゃんに冷たくされる日が来るなんて……!」

「知らない男の人苦手なんです!」

「知ってる人だよ!かしゅみ君だってば!」

「私のかしゅみ君はもっと小さくてかわいかったもん!」


 千虎ほどではないが長身である。晴奈からすれば大男と呼んで相違ない。それがかわいいは無いだろう。かわいいは。予想以上にショックを受けた様子で大男は体を縮こまらせた。三角座りの状態である。落ち着いて眼鏡の位置を直してから見ると整った顔立ちであることが分かる。余計に気後れするが、憮然とした様子の上目遣いはどこか不安そうでもある。その顔に思わずぐっと言葉を詰まらせて目をそらした。混乱していたとはいえちょっとだけ、言い過ぎたのかもしれない。


「……本当にかしゅみ君なの?ビスケットと金平糖が好きで、地球侵略を目論んでる……?」

「そう、そのかしゅみ君です。正確にはあの状態だと舌っ足らずで発音できてないけど、カスミっていいます。」

「カスミさん。」

「かしゅみ君でいいよ。」

「なんか嫌です。えっ、なんで大きくなっちゃったんですか?もうあの小さいかしゅみ君には会えないんですか……?」

「なんで敬語?先に答えちゃうけど、あの小さい状態にはいつでもなれるから安心して。」

「本当に!?よかったぁ……。」

「めちゃくちゃ安心するじゃん……。」


 かしゅみ――もとい、カスミはあからさまに肩を落としたが、晴奈は見て見ぬフリをした。あのかわいい妖精にまた会えるのだと保証されただけで心持ちが随分違う。目の前の青年には悪いが、恨むなら小さなかわいい自分を恨むべきである。若干自分でも理不尽を感じつつも、晴奈はカスミをやっとまともに見た。口元にあるほくろが少しだけ色っぽい。そう言えば小さなかしゅみにもほくろがあった気がするが、お菓子の食べかすのほうが印象的だ。そこまで思って、不意にあった視線はそっとそらした。人と目を合わせるのは苦手だった。


「で、なんで大きくなっちゃったかってお話なんですが。」

「あっ、はい。私なにかしました……?」

「さっき俺にキスしたでしょ?」


 みるみる自分の顔が赤くなるのが分かる。あくまで晴奈が唇を寄せたのは『かしゅみ』であって『カスミ』ではない。


「恥ずかしいからそういう風に言わないでください。あと俺って言うのやめて……!なんかイメージ崩れるから!」

「えぇ……まぁいいや、あー、カスミ君に……その……ちゅってしたから、その時にはるちゃんと……カスミ君の間に仮契約が結ばれたんだ。」

「か、仮契約?」

「そう、仮契約。相性も悪くないみたいだし、できればこのまま契約して欲しいところだね。」

「待って、それ、なんの契約なの?」

「えー、悪魔と……その主人の契約だね。」

「あくま。」


 目眩を起こさせるのも大概にして欲しい。悪魔。彼は今悪魔とその主人の契約と言った。妖精の時点でもう当然ながら気付いてはいたが、本当にファンタジーの世界の話になってきた。悪魔との契約――字面からして既にもう嫌な予感しかしない。きっと寿命の半分と引き替えに願いを叶えてやるとかそういう話に違いない。しかし不幸中の幸い、まだ仮契約だと彼は言った。この場で丁重にお断りする他ない。というか、だ。


「妖精さんですって言ったじゃん!」

「……悪魔の、幼生体って意味ですね。」

「詐欺だ……!悪魔と契約なんて絶対ロクなことにならないだろうからお断りさせてください。」

「せめて契約の内容だけでも聞いてからにしてよぉ……。お願い、本当に君にここで契約を断られると困るんだ……。言っておくけど、この契約を断るとかしゅみくんはしばらく休眠状態に入るよ。ずっとお布団でげっそりした顔で寝てるだけになっちゃう。」

「脅し……!?でも……そっか、そういうことなら……。ひとまず、聞きます。」


 とことんあのもちもちぷにぷに生物に弱い。その正体が悪魔で、この目の前の青年の姿をしていると分かっても、なお。晴奈は居住まいを正した。具体的には、床に静かに正座し、抱えていた徳用チョコレートの袋を脇に置いた。


「聞いてくれる気にはなったみたいだね。じゃあ、教えるね。俺たち悪魔と契約するってことが、どういうことか。」


 真剣な面持ち。これから彼が話すことを聞くのは即ち――晴奈がまた一歩非日常へと足を踏み出すことと同義であった。

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