第10話 税込み100円のビスケットはとてもおいしい

 部活も生徒会活動も無く、本来であれば早く下校できて嬉しいはずだったが、晴奈は神妙な顔つきで茹だるような日差しの中を歩いた。夏は放課後といえどまだ陽は高い。体中にまとわりつく不快な湿度をひたすら無視して脚を左右交互に前に出す。鞄の中の、かしゅみに渡された『おまもり』が晴奈の頭の八割を占めていた。恐る恐る状態を確認したソレは、中身が焦げたように真っ黒な灰に変わっていた。即ち、あの時階段から転げ落ちたクラスメイトは悪意を持って自分にぶつかってきたのだ。偶然だと思いたかった。しかし――「はるちゃんを怪我させるような悪意を一回だけ反射するよ。」というおまもりの制作者の言葉が頭の中で何度も聞こえる。あのおまもりはきっと『本物』だったのだ。本当に晴奈に向けられた悪意を見事に反射した。今も自室で暢気な顔をしているであろう不可思議な生命体、かしゅみ――オカルトにもスピリチュアルにもさほど関わってこなかった晴奈にはアレが急に恐ろしくなった。少し前までかわいい、と感じていた自分が信じられない。しかし、実際にあの姿をもう一度見たらまた胸を締めつけるような愛くるしさを覚えるのだろう。それがまた恐ろしい。とにかく今はかしゅみを問いたださなければ――晴奈はそこまで考えてふ、と足を止めた。顎を汗の雫が伝っていく。


――――問いただすって、何を?


 ジジジジジジ、と蝉が鳴く。木々の隙間から、どこからともなく声が降りかかる。


――結局のところ妖精ってなにか?

――「おまもり」が結局なんなのか?それとも、どうやって作ったのか?

――怪我させるような悪意って、なに。


 頭が痛くなってきた。そうだ、今一番気にしなければいけなかったのはそこだ。悪意ってなんだ。相手を傷つけようという意思をもった悪意を向けられるようなことを自分はいつしたのか。ほとんど話したことも無いようなクラスメイト、柳川やながわ希華まれかに一体いつ恨まれたのだ。千虎の言うとおり、人間どこで恨みを買っているか分からない。そして時としてどこで買ったかも分からない恨みで階段から突き落とされる。晴奈は自分の膝が震えるのが分かった。本来あそこで転げ落ちていたのは自分だった。きっと運動神経の悪い自分のことだから怪我をしただろう。でも、だからって――――なんて思いたくない!

 吐き気を催すような思考が頭を占領していく。そのせいで歩みを止めて俯く晴奈は、人通りの少ないこの路地が明るいことに油断していた。


 トン、と急に後ろから叩かれた肩が跳び上がる。


 声も出せずに振り返ったそこには、人好きのする笑みを浮かべる青年。大学生くらいだろうか。シンプルな白い半袖のTシャツも、ダークグレーのチノパンもどこにだって売っていそうな、とはいえどこだって店先のマネキンに着せることは無さそうな、そんな格好だ。この真夏に道ばたで顔を青くしている晴奈に驚くこともなくひたすらニコニコと笑っている。


「こんにちは。」

「ぁ……っえ……っと……?」


 見た目にそぐわぬ粘度の高い声。たった今彼の口の中にスライムが含まれているのだと言われても平気で頷いてしまいそうな程の粘り気。思わず返事をできずにいる晴奈に、目の前の彼は再び口を開けた。


「コンニチハ。」

「こ、こん……にちは……?」


 男の笑みが深まる。とした表情。晴奈は後退った。背筋が寒い。


「君ノ、恐怖を少しだけわけてネェ。」

「は……?」


 ポケットから取り出される小さなナイフ。向けられる銀色の切っ先――――それが、晴奈のその時最後に見た光景だった。



●●●




 恐怖――それは、信仰に繋がる重要な感情である。ことに信仰よりも『恐れ』が自身のエネルギーに繋がる種族にとって、恐怖は主食と言って間違い無い。ここにも一人――いや、一匹の矮小なる存在がいた。矮小ではありながら、やっとの思いで身につけた技術によって何人もの少女に傷をつけて恐怖を獲得し、怪談へ、あるいは都市伝説へと変貌しようとしていた。その彼、近頃世の中を賑わせている通り魔は深夜、公園のベンチで一人粘ついた笑みを浮かべていた。今日食べた恐怖はなかなかに質が良かったのだ。

 対象が過度に恐怖すればするだけ大きなエネルギーになるのは当然だが、中には特別上質なエネルギーを生む者もいる。今日傷をつけた少女がそうだ。彼女の周囲には明らかに良質と分かる者もいたが、良質故か気配に鋭く隙がなかった。そのため今日狙いを定めたのが、次点で目をつけていた少女だったのだが――思わぬ収穫だった。下手に大物を求めるよりも地道に、時折当たりを引いて食べていく方が堅実に決まっている。次は誰にしようか。今日食べた獲物と行動を共にしていた、正のエネルギーに溢れたあの女などいいかもしれない。

 そんな風に次の計画を練っていた時、ふと自分の周囲が霧がかっていることに気付く。熱帯夜の公園の空では星が瞬いているが、その星すら霞ませるほどの濃密な霧が公園に満ちていた。瞠目する通り魔の前に霧は集まり、やがて人型へと形を変える。そこに現れたのは長身の男だ。細身の体を白いシャツと黒いスラックスで包んだ男だ。爽やかなミントグリーンのストールを首に緩く巻いた彼は、アシンメトリー気味に整えられた艶やかな黒髪を軽く手で整えてから目を開く。爛々と輝く緑色の瞳が、まっすぐに通り魔を貫いた。

 その瞳を認識した瞬間に通り魔の体がかしぐ。一気に低くなった視点。コンッ、と謎の軽い物音が響く。体は指一本どころか視線すら目の前の男から動かすことができない。最早視線という概念すらあやふやになる。ただ意識――自分が自分であるという意識以外に何も無い。そんな通り魔を、緑色の瞳の男が


――は?

――待って、待って。待ってください。

――いやだ。なんだこれは。


 緑色の瞳に自分の姿が映る。正しくは、自分であったモノが。そこにあったのは、一枚のシンプルなビスケットである。先程まで通り魔であった自分は今、無抵抗なビスケットだった。


――ビスケット、ビスケット?

――なんで、ビスケットに?どうして。

――これから、これからなんだ。だから、待ってくれ!


 形の良い唇。整って並んだ歯列。ただその不気味さだけを欠点としてそこに存在する男。

 突き刺さる犬歯。すり潰す臼歯。


――痛い、痛い痛い痛い痛い!!!!!

――食べないで!食べるな!食うな食うな食うな!!!!!

――僕は、あ、ああビスケット。

――死ぬ死ぬ死ぬ、しにたくない、しに、いやだ、あ、あああああああああああああああああ――――――



 ごくん。



――あ。





 通り魔だったものは、すっかりその場から姿を消した。緑の瞳の男はぺろりと自分の唇を舐める。


「ママにもらったビスケットの方が美味しかったな。」


 男の姿はまた、霧へと変化する。霞んだ星も元通りになった熱帯夜の公園にはもう誰も居ない。なにもいない。

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