第14話 恐怖の襲来

 ずぶ濡れで家に入ってきた私を出迎えたメイドさんは目玉が飛び出そうなほどの驚きようで、こちらがびっくりしてしまう程だった。


「どうしてこんなに濡れて……傘もささずに何をしていたのですか?」


 どうごまかそうかと考えていると母が通りかかった。


「まあまあ、そういうのは後にして、お風呂を用意してあげてくださいな。風邪をひいてしまうわ」


 きっと母は、私の目が腫れているのに気づいていて、さらにいろいろな事情も知っているので気を遣ってくれたのだろう。

 慌てて風呂場に向かったメイドさんの後をゆっくりと歩いて、着替えを取りに行くためにいったん自室へと戻った。




 それからの日々はさらに苦痛だった。久しぶりに見た彼の笑顔が、つらそうな表情がふとした瞬間に頭によぎり、心を抉っていく。

 彼のことだけでなく、ヘンリーとの縁談もどうにかなる気配がなくて、私は絶望するしかなかった。

 学校にはなんとか休まずに通っているが、食欲がなくて少しずつ食事を残すようになったしまった。そんな私を見かねた両親はヘンリーやスペンサー家のいいところを私に聞かせて希望を持たせようとしたけれど、とても聞く気にはなれなかった。


『うちは男爵家とは言っても貴族の中では下の方だから、あまりいい暮らしをさせてあげられなかったけれど……スペンサー家に嫁がせてもらえたら、きっと幸せに暮らせると思うわ』


 一度、母がこんなことをぽつりと呟いたことがある。二人が私のことを想ってこの縁談を勧めてくれているのはわかる。それでもヘンリーを受け入れることはできなかった。


(裕福な生活なんてできなくても、貧しくても愛した人と一生を添い遂げる方が絶対に幸せだわ)


 そう考えるたびにジャックのことが心を掠めて、胸に刺さる痛みをこらえなければならなかった。

 今回はさすがに学校でも普段通りに明るく振る舞うことができなくて、放課後の教室で心配して何かあったのかと尋ねるアリスに縁談の話だけ相談した。


「あの人、卒業して三年も経つのに、何もしてこないと思ったら……」


 アリスはひとしきり憤慨した後不思議そうな面持ちになった。


「でも、どうしてシャーロットと婚約しようなんて……あの人シャーロットのこと好きだったの?」


 そう聞かれて私はふるふると首を振った。


「そんなわけないよ。だってずっと私のこと虐めてたんだよ?」


 それに、もし仮にあいつが私のことを好きだったとして、それはそれで不快だわ……と考えて私は身震いした。


「まあ何にせよ、私が力になれたらいいんだけど……」


「ううん、話を聞いてくれるだけでもありがたいの。こういうこと、あんまり人に相談できないから……」


 詳しいことは知らないが、スペンサー侯爵は国の機関の要職に就いており、城に出入りする頻度も貴族の中では高い方だという。つまり、彼の家は侯爵家の中でもかなり上の立場にある。同じ侯爵という位にあっても彼に意見が言えない人もいるそうだ。だから、アリスの父親であるキャロル伯爵の力添えがいただけたとしても、彼に対抗することは難しいはずだ。下手をすれば、私の家だけでなくアリスの家も巻き込んでしまいかねない。

(結局私には、何もできないのね)

 自嘲気味にふっと笑うと、私は親友に帰ろう、と声をかけて自分の席を立った。




 けれどもその日、学校から帰ってきた私をまた悪い知らせが待ち受けていたのだった。


「今夜、ヘンリー様と侯爵がご挨拶に来るそうだ」


「――っ!」


 心臓がドクリと音を立て、背中を嫌な汗が流れる。

 なんで、と言いたいのに声が出なかった。


「前から一度ご挨拶に伺いたいとおっしゃっていてね。一度夕食にご招待する予定だったんだ」


 目の前が真っ暗になった。

 縁談を持ちかけられているのだからいつかは会わなければならないかもしれないが、これは唐突すぎる。

 それに、ただでさえ最近食欲が落ちているのに、あの人たちが来たらとても食事なんて喉を通ってくれないだろう。


「あの、お父様……」


「なんだい?」


「ごめんなさい、今日は、その……体調が、悪くて」


 両親には申し訳ないと思ったが、三年ぶりに彼と会ったら自分がどうなるかがわからない。それなら最初からいない方がきっと賢明だ。


「そうか……確かに顔色が良くないな」


 どうやら本当に具合が悪いように見えたようでほっとする。


「先方には申し訳ないが、私から言っておこう。今日は部屋で休んでいなさい。後で何か食べやすいものを運んでもらおう」


「ありがとう、お父様」


 侯爵たちより私を優先してくれた父に感謝して私は部屋に戻った。




 そろそろ夕食の時間という頃、階下が少し騒がしくなったのが聞こえてきて、スペンサー父子が到着したことがわかった。今夜は会うことがないとはわかっていても落ち着かなくて、学校の宿題が手につかなくなってしまった。机に向かうのをやめてベッドに座り、お気に入りの小説を読もうとしたがその内容も頭に入ってこず、結局横になってぼーっとしていた。

 おそらく両親と父子が客間に入ったので静かになって、しばらくしたら張りつめていた緊張の糸も緩んできたようで、疲れていたこともあり私はうとうとしていた。

 どれくらいの間まどろんでいたのだろうか。不意にまた階下から声が聞こえた。


(もう帰るのかな……?)


 少し寝ぼけた頭でそう考えていると。


「――あの子とはしばらく会っていないのですよね?」


 母の声と共に、階段を上る足音が聞こえた。そして――。


「ええ。卒業して以来なので……三年ぶり、ですね」


 大嫌いな声──散々私や両親を侮辱してきたこの世で一番大嫌いな声が母の質問に答えていた。


(なんでここにいるの? なんで二階に?)


 突然のことにパニックになって咄嗟に頭から布団を被った。

 鍵はかけているのでドアを開けられる心配はないが、隠れずにはいられなかった。体が勝手に震え始める。


(来ないで……!)


 心の中で必死に祈ったが、二人分の足音は私の部屋の前でぴたりと止まった。


「ここがあの子の部屋ですわ……シャーロット?」


 母がドアをノックして声をかけてきたけれど、応えるわけにはいかなくて沈黙を貫いた。私が起きているのがわかってしまえば、ドアを開けざるを得なくなってしまう。


「あら、寝てるのかしら」


「そのようですね……少しここから声をおかけしてもよろしいでしょうか?」


「ええ、ぜひそうしてやってください。私は先程のお部屋に戻りますので、ごゆっくり……」


 母と彼の会話の後、階段を下りる足音が一人分。

 今の会話からすると、ドアの前に残っているのは——。


「シャーロット」


 もう聞きたくないと思っていた声がドア越しに忍び寄ってきて頭がぞわっとした。


(お母様、なんでこいつを一人で置いていくの!?)


 恐怖で体が固まって涙が出そうになるのをなんとか堪えて息を潜める。


「本当は起きているんだろう?……久しぶりに顔を見たかったんだけど、照れているのかな?」


 私が黙っているのに彼はさらに話し続けた。


「君が婚約を了承してくれるのを楽しみにしているよ……うちに来たらかわいがってあげるからね」


(――!?)


 思わず声を出してしまいそうになって、慌てて両手で口を押えた。

 そのまま静かにしていると、彼はようやく諦めたのか私が本当に眠っていると思ったのか、やがて足音が聞こえ始めて遠ざかっていった。

 それから再び階下で声がした。おそらく客間を出て玄関ホールで話しているのだろう。話し声が二、三分程続き、玄関のドアが開く音と閉まる音がして、やっと静かになった。

 私は長い息をふーっと吐いた。無意識のうちに力んでしまっていた両手の力を抜く。

 彼が学校にいた頃はずっと虐めに耐えていたはずなのに、いざ三年ぶりに声を聞いてしまうと恐怖心は簡単に私を支配した。


『かわいがってあげるからね』


 先程言われた言葉を思い出してさらに身震いする。


(嫁いでしまったら、何をされるかわからない――)


 でもとりあえず、今日のところはもうあの二人はいなくなったから大丈夫。

 なんとか自分に言い聞かせてみたが、体の震えはなかなか止まってくれなかった。

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