第12話 一番会いたくない人

 ジャックが王子だと知った日以来、私はなんとか今まで通りの生活を送っていた。――ただ一つ、毎週水曜日にあの丘に行かなくなったことを除いては。

 本当は彼に会えないのがつらいけれど、この想いを断ち切るには仕方のないことだと自分に言い聞かせる。何かしていないと気が紛れないので、今まで以上に勉強や習い事を頑張っているところだ。

 両親は娘が悲しんでいるのを悟ったようで、あの日から一層私のことを気遣ってくれるようになり、母は私が小さかった頃のように時々お菓子を作ってくれた。

 アリスや他の友達には彼のことを話していない。時々会いに来てくれた男性が王子だった、なんて話が広まってしまったら彼に迷惑が掛かってしまう。だから、友達の前ではいろいろあったことを悟らせないように、努めて元気に過ごしていた。

 時間が流れ、寂しいけれど平穏な日々に慣れてきた頃、私にさらなる衝撃的な知らせが舞い込んでくる——。




 それは九月の中頃のことだった。

 学校から帰ってきた私はまた両親に呼ばれ、あの日と同じように両親と向かい合って座っていた。


「シャーロットには急な話なんだが……」


 こほんと咳払いをして父が続ける。


「お前に縁談が来ている」


「縁談……?」


 私に結婚を申し込んだ方がいるってこと?

 結婚なんてまだまだ先のことだと思っていた私は困惑した。


「お前ももう十七歳だしな。それで、その縁談を持ち込んでくださったのは——」


 ヘンリー・スペンサー様だ。

 そう静かに告げられて、背筋が冷たくなったような気がした。


「今、何て——?」


「お前も知っているだろう。スペンサー侯爵家の次男のヘンリー様だ」


 知っているも何も、一番聞きたくなかった名前だ。


「『今年二十歳になる私の次男に、ぜひお宅のシャーロット様を……』とのことだ――」


「――ヘンリー様だけはやめてください!」


 思わず立ち上がって叫んでしまった。はっと我に返って両親を見ると、二人とも不思議そうな顔をしていた。


「あのヘンリー様だぞ。お前にとってもいい話だと思うが……」


 父が私をなだめるように言ったけれど、到底受け入れることはできない。


「嫌です。あの方だけは——!」


 動揺した私はそれだけ言うと、その場にいられなくなって家を飛び出した。




(あいつがいい人な訳がない──!)


 当てもなく走りながら、心の中で必死に叫ぶ。

 ヘンリー・スペンサーという男性を私がなぜここまで嫌っているかというと、子供の頃から私を虐めていた人物だからだ。

 彼もアリスと同様に私と同じ学校――イースタリア学院に通っていたのだが、私が入学したときからなぜか私に目をつけ、主に私が男爵家の娘であることを理由に嫌がらせをするようになった。しかも彼は、大人たちの前では私を虐めていることなどおくびにも出さず、さも自分が好青年であるかのように振る舞うのだ。大人たちもそんな彼に騙されて、彼のことを公爵家育ちの優等生だと思っている。それほど彼は狡猾だった。

 嫌がらせとは言っても、すれ違いざまに私や両親を侮辱するようなことを言ったり、わざとぶつかったりするなどの些細なことだったが、一度だけ──本当に怖かった出来事がある。

 五年程前の放課後、父親の公爵という立場を持ち出し無理やり私を呼び出した彼は、私が空き教室に入るなりドアの鍵を閉め、私を壁際に追いやった。綺麗に撫でつけられたブロンドの髪と切れ長の目が視界に入る。私の頭のすぐ横の壁に右手をついた彼は、獲物を追い詰めた狼のような顔をしていた。


『シャーロット・エヴァンズ――』


 その後何を言われたかはよく覚えていない。気がつくと私は彼を突き飛ばし、教室のもう一つのドアに向かった。運よく鍵が壊れていたそのドアから脱出することに成功したので、自分の教室まで無我夢中で走ったのは覚えている。

 それから呼び出されることはなかったものの陰湿な嫌がらせは続き、三年前の卒業式の日、講堂の外で渡り廊下の壁にもたれかかっていた彼の横をアリスと一緒に通るとき、私にだけ聞こえる声量で囁かれた。


『俺から逃げられたと思うなよ、エヴァンズ——』


 はっと振り向くと、彼は目を細めてうっすらと笑っていた。勝手に足がすくみそうになった。アリスにどうしたの? と聞かれて私は我に返る。


『また何かされた?』


 心配そうに尋ねてくる親友に私は何でもないよと答えて、その場から半ば急いで立ち去った——。




(お父様もお母様も騙されているんだわ。どうしよう……)


 ヘンリーのことは二人にも話していない。二人もまた彼が良い青年であることを疑わない大人だから。時々相談していて事情を知っているアリスも伯爵家の娘なので、侯爵家の息子相手に力になってもらうことは難しいだろう。


(私の味方をしてくれる人は、きっといない……)


 空は私の心を映したかのようなどんよりとした曇り空で、いつ雨が降り出してもおかしくないくらい雲の色が濃い。

 現実から逃れたくて闇雲に走っていたはずが、気づけばあの丘に向かっていた。

 ジャックに偶然再会した丘。毎週ジャックとお菓子を食べながらお喋りをしていた、二人だけの木陰——。


「――!」


 丘の麓に辿り着いた私ははっと息をのんだ。

 オークの木の根元に、暗い中でも輝いている金色の髪が見えたから——。

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