第9話 街へ1
七月の最後の水曜日。シャーロットはいつもの丘ではなく中心部の街にいた。
前回いつものように他愛もない会話をして家に帰ろうとしたとき、ジャックに街に遊びに行かないかと誘われたのだ。もちろん私がその誘いを断るはずもなく、次の水曜日はオークの木ではなくて、街の広場にあるあの時間を告げる鐘の下で会うことになった。
いつもと違う状況に、私は誕生日の前と同じくらいそわそわしていた。約束はお昼からなのにいつもより早く目が覚めてしまい、散々悩んだ挙句、紺色と深緑色を基調としたタータンチェックのワンピースを選び、彼に貰った髪飾りをつけた。私の一番お気に入りの格好だ。
家を出るのが少し遅くなってしまったので急ぎ足で待ち合わせ場所に向かうと、既に彼が大きな鐘の下で待っていた。もうすぐ八月なので白い半袖のシャツを着ている彼は、夏の太陽の光を受けて遠くからでも眩しく見える。
「お、お待たせしました! ちょっと出るのが遅くなって……」
息を切らして謝った私を彼はいつもの笑顔で迎えてくれる。
「ううん、まだ時間になっていないし、俺も今来たところだよ」
そのときちょうど私たちの頭上で鐘が鳴り、ほらね、と彼が言う。
近くに来てから改めて彼を見ると、いつもはしていない黒縁のシンプルな眼鏡を彼がかけていることに気づいた。
「今日は眼鏡なのね」
「うん。まあ、目が悪いわけでもないんだけどね。変、かな……?」
眼鏡越しに上目遣いをされて、いつもと違う彼にドキッとさせられる。
「……そんなことないよ!」
ちょっと恥ずかしいけれど勇気を出して、でも周りの人には聞かれないようにこそっと似合ってる、と言うと、彼は少し照れたようにありがとう、と言った。
「じゃあ、行こうか」
そう言うなり彼は私の左手を優しく掴んで歩き始めた。
「え、ちょっと、ジャック——!?」
「街は人が多いから、はぐれちゃうといけないなと思って。嫌?」
振り向いてそう聞かれてしまっては嫌とは言えない。
(その言い方はずるいわ……!)
それでも手を取ってもらえたことがうれしくて、私は握られた手をつなぎ返して頬を染めた。
中心部にはいろいろなお店や建物が規則正しく並んでいて、真上から見ると碁盤の目のようになっているそうだ。私たちは通りをゆっくりと歩きながらたくさんあるお店を眺めた。今通っているのはちょうど私がお菓子の材料を買いに来るお店が集まっている場所なので、隣のジャックに説明する。
「あそこが小麦粉とか砂糖を買うお店で……あっ、あれが果物屋さん」
ジャックはうんうんと相槌を打ちながら静かに私の説明を聞いてくれている。たったそれだけでも喜んでしまう単純な自分がいる。
「最初に作ってくれたアップルパイのりんごもここで?」
「そうそう」
そんな三か月ほど前のことまで覚えていてくれるなんて、と私はますますうれしくなった。
角を曲がって少し大きめの通りに出ると、そこにはこれまたたくさんの飲食店が立ち並んでいる。おいしそうだね、ちょっと値段が高いね、などと言いながら歩いていると、一軒のカフェに目が留まった。
レンガでできた小さめの家みたいなデザインで、決して目立つわけでもないけれどすごくおしゃれに見えた。
「あそこに入りたいの?」
「へっ!?」
私の思考を読んだかのような彼の言葉に変な声を出してしまった。
「だって、目が釘付けになってる。ここにとっても興味あるって顔してたよ」
そこまで顔に出ているなんて……と少し恥ずかしくなる。
「俺もそろそろ休憩したいなと思ってたし、入ってみよう?」
笑顔でまた手を引かれたので私は彼のお言葉に甘えることにした。
彼が空いている方の手でドアを押して開けると、ドア付近についているベルがチリンチリンと軽やかに鳴り、エプロンをつけた女性の店員さんが出て来た。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
はい、とジャックが答えてくれたので、店員さんが窓際の二人席に案内してくれることになった。
「素敵なカップルね」
こそっと店員さんに言われ、私はジャックと手をつないだままだということに気づいた。慌ててぱっと手を離したがもう遅かった。
「コーヒーでもサービスしちゃおうかしら」
どこか楽しんでいる様子の店員さんに囁かれ、顔が熱くなる。
「べ、別にそんなんじゃないです!」
ジャックをちらりと見ると、このやりとりが聞こえているのかいないのか、涼しげな顔で店内を見回している。
私だけかしら、こんなにあたふたしているのは……と思ってため息をついた私は、彼と一緒に案内された席に座るのだった。
メニューを見てあれこれと悩んだ末に、私たちはケーキセットを頼むことにした。私はアイスカフェオレとベリーのタルトで、ジャックはアイスコーヒーとガトーショコラだ。
カフェの内装やショーケースに並んだケーキを見て綺麗だねと喋っていたら、先程の店員さんが頼んだ物を運んできてくれた。思っていたよりも早くて少し驚いた。
まずは冷たいカフェオレで乾いた喉を潤してからフォークを手に取る。タルト生地に載ったブルーベリーやラズベリーがつやつやしていて、食べるのがもったいないくらいのベリータルト。それでも先端からそっと切り分けて口に運ぶ。
「んんー、おいしい!」
ベリーの甘酸っぱさとタルト生地のほんのりした甘さが口の中に広がって、私は感嘆の声を漏らした。
「シャーロットって、本当においしそうに食べるよねえ」
顔をタルトから上げると彼はにこにこして私を見ていた。途端に恥ずかしさがこみあげてくる。
「だって、本当においしいじゃない……そっちはどうなの?」
苦し紛れにそう答えて私はジャックのお皿を見る。濃厚そうなガトーショコラにバニラアイスまで添えられていて、食べなくてもおいしいのがわかる——
「こっちもおいしいよ。食べてみる?」
そう言った彼はなんと、一口分のガトーショコラをフォークに乗せて私の方に差し出した。
「あ、あの、ジャック……?」
「あーん」
「ふぇ!?」
この人、私に食べさせるつもり!?
こういうときどうすればいいかがわからないので困っていると、彼は私を見つめながら目を細めた。
「食べたくないの?」
これはとても断れそうにない。
「……はい、いただきます」
男性の前で口を大きく開けるのはためらわれたけれど、覚悟を決めてあーんと口を開ける。見られているのに耐えられなくて目を閉じると、程なくしてほろ苦いチョコレートと冷たいバニラアイスが口に入ってきた。絶妙な甘さと苦さのバランスに口の中が幸せでいっぱいになる。
「おいしいこの組み合わせ最高……」
「でしょ?」
かわいくておいしいケーキを食べながらジャックと笑い合えるこの瞬間が幸せすぎて、今死んでもいいや、なんて——。
「俺もそのタルト食べたいな」
「ん?」
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