平内真(偽名)の指先 4
右半身が痺れて、俺は目を覚ました。……寝ていたのか?
右を見ると、やけに近いところに天の顔があった。その至近距離でまっすぐ俺を直視している。
「おまえ、なんかした?」
なんだか右耳がむず痒い。痺れの正体はこれか? 俺は右耳を触ってみる。特に変わった様子ではなかったのでいったん安堵しておく。
天は俺の言葉に視線を下げるだけで反応した。どういう意味かは解らない。だが、たぶんなんかされたんだろうと思う。
スマートフォンを確認。もう正午を過ぎていた。想起してみるにだいぶ寝ていたらしい。雨は大丈夫だろうか?
空を見上げる。雨足はさらに加速しているようで、これはたしかに、豪雨と表現してしかるべきものだった。風も強い。この高台は海が近かったはずである。円子は津波についても言及していたはずだ。確認に行くべきだろうか?
そう思って周囲を見渡すと、俺が気付くより一瞬早く、天が指をさした。
「おいおい。……マジか」
その方角には、たしかに海があるはずだ。俺がこの高台に来るのとは逆方向の坂道。その始点があるあたり。目の錯覚だろうかという考えは早々に捨てた。俺はそちらに向かう。走る。土砂降りに叩かれ、数歩で全身がびしょ濡れだ。
約百メートルほどだろうか。坂道の上にまで到達した。ガードレールを掴む。その俺の眼前に、飛沫があがった。
見ると、海沿いにあるこの坂は、この高台をぐるりと巡って下りていくらしい。高台を鳥瞰して見たとき、円形に近い形になるはずだが、その円周の四分の一ほどを緩やかに巡るカーブだ。その坂道をいくらか覆い隠すほどの高さに、水位が迫って来ていた。いま現在、この道は車でも通行できないだろう。幸い、消防署はこの高台にあるはずだが、この事態の深刻さを払拭するにはその情報はあまりにか弱い。
海であるらしい地平を見る。押し寄せるたびにこの高台を削り取っているような津波は、わずかな飛沫を高台の上にまで押し上げ、定期的に俺の顔を濡らした。これが雨じゃないことは塩辛さで解る。だがこれが夢じゃないことは、頬をつねっても解らなかった。
「あ、あ、あ、あ、ああああぁぁぁぁ!!」
いつの間に、こいつは隣にいたのだろう? 久米方もがみは、いつからここに?
制服を乱し、その両肩をそれぞれ、べつの女子生徒に掴まれながらも、ほとんど退かずに前進しようとしている。坂を下ろうとしている。
「なにやってんだてめえ!」
俺もつい、正面から久米方の両肩を掴んだ。掴んで、押し戻そうとした。だが、押し返せない。これ以上進ませないのが精いっぱいだ。
「――!! ――!! ――――!!」
すでに声ですらないようななにかを叫んで、やはり前進しようとする。津波の飛沫とはまた違う塩辛さが、俺の額を流れた。
「誰か知らんが、そのまま頼む」
「おれらだけじゃ、引きずられちまうんだ。じわじわと」
久米方もがみの後ろのふたりが言う。言われなくても精いっぱいやっている。
「おい! こいつどうなってんだ? なんでこうまでして、進もうとする?」
「わっかんないけど、たぶん、誰かを助けに行こうとしてる!」
左の女子が言う。
「誰かって誰だよ! 家族とかか?」
「いや、きっと親族はみな無事だ! もがみの家は高台にあるから」
右の女子が言う。
「じゃあなにか? こいつは自分とさほど関係ないやつのために、死のうとしてるって?」
「関係なくない!!」
久米方もがみが言う。
「
「解った俺が悪かった!」
叫ぶたびに力が強くなってる気がする。これを火事場の馬鹿力というなら、こいつにとって本当に大切なのだろう。だからそんなやつの気持ちなど解ろうはずがない。この町すべてを――どころか世界すべてを、平等に愛している人間の気持ちなんてな。
今朝円子が言っていたのはこういうことか。「彼女の『暴走』を止めてほしい」。くそ! 木児はなにやってんだ!?
ただただ精いっぱい久米方もがみの体を押していた。豪雨とへばりついた自身の毛髪、それらに視界を遮られていた。風雨と津波、そして遠雷の音に耳もうまく機能しない。だから突然力が抜けたとき、もしかして落ちているのではないかと頭を庇った。見ると俺は地面に倒れていて、その横には久米方もがみも倒れていた。他にふたりいた女子は、片方が久米方の両肩を抑え、もう片方が久米方に馬乗りしている状況だった。
久米方もがみが、一瞬力を抜いた。思い返してみるに、そういうところだった。
「いいかげんにしろ! もがみ! こんなんあたしたちがどうこうできることじゃないだろ!」
馬乗りした女子が言う。津波でも汗でもない塩分を流していることは、この豪雨の中でもよく解った。
「この世にはね、がんばってもどうしようもないことがあるんだ! いいかげん解れよ! もがみがいなくなったら悲しむ人がいるんだから……自分を粗末にするの、もうやめてくれ!」
語気は荒かったが、その声は徐々にしぼんでいった。その馬乗りした女子は手を振り上げ、やがて力なく降ろした。
「こんなこと言っても、解らないだろうけど」
「ううん。解った」
絞り出すように続く言葉に、久米方もがみは答えた。とても冷たい声音で。
「解ったよ、
「解ったって……久米方もがみ?」
両肩を抑えている女子が言う。
「
「え? ……ああ」
美々実と呼ばれた女子は離した。困惑しているようである。
いや、俺だって困惑している。いくら付き合いが短い俺でさえ、久米方もがみの切り替えはおかしいと感じる。
「ほら、傘ちゃんも。もう大丈夫だから」
「いや、でも……」
「どけって言ってんの」
その言葉には迫力があった。声自体は小さく、雨音に掻き消されるほどだったのに、さきほどまでの叫びよりよっぽど。だから、弾かれたように傘と呼ばれた女子は離れた。
世界が静寂する。久米方もがみが立ち上がる。そしてそのまま、坂道を侵食する水位に向かって歩く。誰もなにも言わなかった。だが、俺はかろうじて、久米方の手を掴むことができた。久米方もがみは一瞬だけ足を止めたが、すぐにまた歩き出した。俺の手を振りほどこうともせず、むしろ優しく誘うように歩を重ねる。
ああ、これだけ静かになれば、俺にも気付けた。
久米方もがみはくるぶしまで水に浸る位置で立ち止まり、指をさす。
「助けなきゃ」
久米方もがみは現実と幻想にちゃんと線を引いていた。区別をしていた。自分にできることなどたかが知れているし、この世界――この小さな町ひとつでさえも、満足に守ることなどできやしないと、ちゃんと解っていた。だがそれでも、動かずにはいられなかったのだろう。どうしようもできないことを、どうしようもできなかったと諦めるのは、それからでもいいと。決して自分を粗末になどしてはいない。その証拠に、冷静だ。ただの日常をあれだけ全力で駆け回れる少女が、いたって冷静だ。こんな、非日常の中で。すべきこと、考えるべきことがあるから。
坂道の下にある、家屋だろう。町の中でもかなり海抜は低いはずだ。そのうえ、海の真ん前。下手をしたら今回の嵐でもっとも被害の大きい場所のひとつと言えるかもしれない。
その屋根の上に、人間がいる。というのも、どういう人間なのか、判別が難しい。ただその人間は叫んでいて、両手を振っていて、助けを求めている。
特別距離として遠いというほどでもないが、いかんせん視界が悪い。声の感じ、まだ若い。言葉遣いから鑑みるに幼いということはない。おそらく成人している、女性。解るのはそれくらいだ。
水位は二階の窓にまで達している。だから避難のために屋根に上がった。だが、荒れ過ぎている。水泳に慣れたものですらこの荒れた水の中を泳ぐのは至難だろう。
「お願い。助けて」
久米方もがみは、きっと俺にしか聞こえない声で言った。掴んでいる手が、強く握られる。
「お願い! 助けて!」
我に返るのに時間を要したからか、わずかに遅れて追いついてきた仲間に叫んだ。
「助けてって、言っても」
追いついて、見て、理解して、傘は言った。「いくらあたしでも、こんなに荒れてちゃ……」。
「そうだ! レスキュー隊!」
美々実が言う。そうだ、消防署があるはずだ。距離的に考えても、到着までそう時間はかかるまい。「誰か、スマホ持ってる?」そんなこと言われる前に、俺は電話していた。が、呼び出し音すらならない。俺はすぐに悟った。「だめだ! 無線基地局がやられてる!」。
するとなにをも言う前に、美々実が走り出した。この丘の上にあるはずの消防署へ行く気だろう。おそらくこの嵐でほとんど出払ってはいるだろうが、まだ人員が残っている可能性も高い。なんといっても、俺たちの眼前にある坂道がこのありさまだ。この丘にあがるにはみっつルートがあるが、どれも機能していない可能性が高い。つまり、ある意味現在、この丘は海に浮いた孤島のようなものだ。
俺は瞬間、胸を撫で下ろした。おそらく交通麻痺で消防署に人員がいる。この推理が考えるほど的を得ている気がしたからだ。
「気を抜かないで、考えて」
久米方もがみが言った。見ると、なにひとつ安堵などしていない表情で、そいつは考えていた。視線が、いろんな方向を行ったり来たりしている。ぼそぼそと、俺に向けた言葉よりさらに小さな言葉で、呟いてもいる。所在無げに手を動かしたり、唇を噛み締める、地団太を踏む。人の目もはばからずに、とにかく彼女は、思考していた。
強くなったり、弱くなったり、その時々の思考に左右されているのか、それでも握られたままの手から、心が流れ込んでくるようだった。だから、俺も考える。
直線距離で二十メートルといったところ。嵐で荒れている。ぎりぎりまで近付けるとしても、腰までつかるのも危ういだろう。対象家屋の位置は、坂道の付け根。ちょうど丘に接している場所だ。ならば、丘の上から引っ張り上げるのはどうだ? いや、すくなくともそれは俺たちにはできない。丘の高さは五十メートルを超えているだろう。途中で落ちたら生命にかかわる。なんの知識も技術もない素人ができることじゃない。そもそもそんな長いロープがねえ。……ロープ?
ロープを使った、別の方法を思いついた。五十メートルもいらない、二十メートルでいい。二十メートルならなんとか調達できないか?
思って見渡したが、足りなかった。俺と久米方もがみ、そして傘しかいねえ。……あ、あと忘れてた。天もいるんだった。俺は振り返って確認した。だが足りねえ。
と、よく見ると、視界には人影が六つ、確認できた。視界が悪い。錯覚だと思った。だが、声が現実だと教えてくれる。
「悪い! 遅れた!」
木児の声。そしてその隣には木児とどことなく似ている男子。だが別人だ、ちゃんとふたりいる、錯覚じゃねえ。
「待たせたな! 走ってきたぜ!」
美々実が言う。ちゃんと消防やレスキューを呼べただろうか? とりあえず、この場にはまだ到着していないようだが。
俺は隣を見る。久米方もがみを。
久米方もがみも俺を見る。目が合う。すると彼女は力強く微笑んで、自身のシャツのボタンをひとつ外した。
「待て。届かねえ」
だから俺は制止する。久米方もがみも同じ思考をしていたのかもしれない。だが、足りない。
「
そうだ。まだ足りない。いや、言葉としては語弊がある。八人分でもなんとかなったかもしれない。もしもこの場の人間が全員男なら。問題は女子のスカートだ。それは男子のズボンと比べて短すぎる。だから女子の衣服は男子の衣服の半分くらいの長さにしかならないだろう。そう考えると、まず無理だ。そもそも結び目の分だけさらに短くなるし、家屋までの距離が二十メートルというのも楽観的観測だ。そして仮にロープが用意できたとして、この方法も危険じゃないとは言えない。
「美々実が戻ってきたんだ。すぐに救助が来るだろう。もう大丈夫だ」
「ロープ持ってきたぜー!」
木児たちとともに、美々実も坂を下って来て、嬉しそうに言いやがった。
……消防は? レスキューは?
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