平内真(偽名)の指先 2

 坂を下り、上り、下り、上ったあたりに、その学校はあった。名前くらいは聞いたことがある。数年前に中高一貫になった学校だ。たしか全国大会にも出場した空手少女がいる学校である。そしてあの木児という男の着ていた制服と合致する。だが中等部と高等部では制服が微妙に違う。制服に造詣が深いわけではないが、木児の制服は高等部男子のそれだ。


 スマートフォンで時刻を確認。午前七時ちょい。これだけ校舎に近付いても、まだ生徒はまばらだ。俺は学校近くにあった駄菓子屋の軒先に置かれている古ぼけたベンチに腰を降ろす。おそらく眼前にある通りは通学路だ。もしかしたら久米方もがみとやらが通るかもしれない。まだふたりくらいは座れるスペースがあったが、天は衛生上の問題を察知してか、立ったままだった。


 いや、しかし、待て。俺は気付いた。そういえば俺は久米方もがみの容姿や特徴を知らない。見たところでそれを久米方もがみと判断するのは不可能に近い。向こうから名乗ってくれでもしない限り。


「なあ、おまえ久米方もがみの顔を知っているか?」


 いちおう聞いてみた。天は角度として一度にも満たないほど顔を前傾し、目を閉じた。たぶん、否定の合図。


 細く長く鼻から息を吐く。呆れと嘆息。自分自身に。危なげな錆が目立つ背もたれにもたれる。両腕も預ける。……そもそも円子の言うことがどれだけ信用できるのか解ったものではない。いや、そもそも俺は、円子の言葉を信じて行動しているわけでもなければ、言葉通りに久米方もがみを保護しに来たわけでもねえ。たぶん、暇なだけなんだ。


 もう一度、息を吐く。空を見上げると、雨など降りそうもない好天気だ。たしかにわずかに昨日より雲は多い気はするが……。


「うん……?」


 目端に異常を感じた。それは特別な異常ではない。ごくありふれた光景。そうだ、ひとりの人間が、ただ走っているような、それだけの映像。


「あさああぁぁぁぁああ!!」


 その走行物は、なにかを叫んでいた。見てみるに、それは走っているというより逃げているような不格好だった。遮二無二という様相だ。不審にもほどがある。


 その……おそらく女子中学生は、地平の彼方から瞬時に俺の眼前まで到達し、制御できない車体のように蛇行し、くるりと回り、進行方向を変更、こちらに向かってつっこんできた……!?


「お、おおおお?」


「つ、か、れ、たああぁぁ!!」


 当然の反射神経で顔面を庇う俺だったが、むしろ気にすべきは後頭部であった。一瞬、重力を失った感覚。すぐに気付く。これは学校の椅子に座り、二足でバランスをとるときのあれだ。ベンチに座っていたことを再確認。重心を前へ。急ブレーキのような衝撃で、重力が回帰。……生きてる?


 一通りの災害を乗り越え、落ち着く。心を落ち着ける。いまさらながら空気が湿っていることを汗とともに感じた。腕の隙間から外界を確認。世界が安定していたので、防御を解いた。そして、空いていたはずの右側を見た。そこにはさきほどの走っていた女子中学生が汗だくで座っていた。なにごともなかったかのように。


「おはようございます!」


 なぜか笑顔で挨拶された。誰だ、おまえ。


「疲れた! お水ちょうだい!」


 そいつは言った。水? 水なんか持ってねえ。


 と思い、そいつの指先を辿ると、俺の手元を指しているようだった。ああ、いや、そういえば水を持っていた。円子の家でもらったミネラルウォーター。開封済みだが、まだ半分以上残っている。


「……口つけてるけど」


 そいつに向けてかざすと、そいつは一瞬の躊躇もなく俺からペットボトルを奪い取った。喉を鳴らして飲む。飲み干す。遠慮のないやつだ。


「ごちそうさま!」


 と、ペットボトルを俺に返そうとする。いや、いらねえ。

 俺が無反応でいると悟ってくれたのか、「じゃあ私が捨てとく!」と腕を引っ込めた。


「おまえ、あの学校の生徒か?」


 俺は久米方もがみとやらが通っているはずの学校を指差し言った。


「うん! 久米方もがみ! 中学三年生!」


「ふうん。久米方もがみね……」


 俺はそいつを二度見した。久米方もがみ?


「じゃ! 私行かなきゃ! いま競走中!」


 疾風のごとく久米方は走って行った。夢か幻か? と思ったけれど、いまになって後頭部が痛んだ。どうやらさっき、ベンチ裏の壁にぶつけたらしい。


 これが偶然なのか、必然なのか。それはまだ解らない。いつかなんらかの結果が出るまでは。




 脱力した。だから久米方が現れる前の体勢に戻る。背もたれにもたれる。腕ごと。


 すると、天が隣に座った。さきほどまで久米方がいた場所に。臀部の半分しか預けないような、浅い座り方で。


「もしかして、おまえ久米方もがみが来ること解ってたんじゃねえだろうな」


「…………」


 相変わらずなにも答えなかったが、わずかに口角があがった気がした。俺の被害妄想かもしれない程度ではあったが。


 通りは賑わい出していた。時刻は七時半を過ぎている。もしも俺が本日学校へ行くというつもりなら、そろそろ向かった方がいいだろう。だが、なんだかそんな気分ではなかった。二日続けてになるが、本日はサボりだ。


 それに、もし久米方もがみを保護するなら、どうせ学校へは行けない。俺の学校からこちらの高台に来るには低地を経由しなければならない。その低地が被害に合い、通行ができないほどになるのかは解らないが、最初からこちらにいるに越したことはないだろう。……円子の言うことに従うかはまだ決めかねてはいるが。だが、どうせ暇なのだ。他にやることがないというなら、誰かのためになることをするのは理に適っている気がした。その『誰か』というのが、たとえ理紫谷りしたに円子個人のみであったとしてもだ。


 だが、いつ起きるか解らない事象を待つというのもたいがい暇だ。せめて隣に座る女子が、もうすこしだけでいいから会話を成り立たせてくれればましなのだが。……というかこいつはこいつで、なぜ俺についているのだろう? ただ、円子の言う通り、久米方もがみを保護する、それだけのためにここにいるだけかもしれないけれど。


 思いながら天を見つめていると、その奥から誰かが姿を現した。


「君は……」


「よう。木児……だっけ?」


 そうだ。木児だ。今朝あの家で会った。


 俺は片手を挙げてコミュニケーションをとる。天はなんの反応も示さなかった。


「ああ。しとど木児、という。君は?」


「あー、俺は――」


 どう名乗ろうか一瞬迷う。だが、円子に偽名を名乗った以上、その関係者にはそれを通した方が無難だろう。そもそも俺は、自分の本名が好きじゃねえ。


平内ひらうちまこと


 言うと、天がこちらに詰めてきた。俺は傲岸不遜な座り方を正す。天と肩が当たった。天の奥の空いたスペースに、木児が座る。


「君は久米方もがみを知っているのか?」


 木児が言った。


「知らねえ。だが知ってる」


 いまさっき会った。と言うと、木児は逡巡してから、すこし笑った。


「そうか。またひとり、あいつに出会ってしまったか」


「変なやつだったよ」


「そうだな」


 今度は正しいタイミングで笑う。思っていたよりもよく笑うやつだ。


「今日、あいつを保護する。……まあ目的はいい。簡潔だしな。だが、円子の言っていた……予言っつーのか、あれは、あてになるのか?」


「問題ない」


 木児は即答した。


「嘘や冗談でない限り、彼女の言うことはまず外れない。本人は九十七パーセントと言っていたが、あれは謙遜だ」


 恐ろしいほどの信頼だった。理由は解らねえけど、ここまで言うならとりあえず信じておいていいだろう。べつに損するわけでもねえ。


 しかしそうだ。いろいろ他の点で疑問がある。俺は時刻を確認。午前八時前。……これからその疑問を解消するには、木児の遅刻を確定させなきゃならねえ。


「時間、大丈夫か?」


「問題ない」


 これも即答だった。


「我が校には特待生制度というのがある。部活動で類稀なる成績を収めた者に与えられる特権。具体的には、定期テストで赤点を免れている限り、対象の生徒は授業を免除され、進学・卒業できる」


「うらやましい制度だな」


 つまり、木児は特待生ということか。ならば時間は大丈夫。


 だからといって俺に付き合う義理はないのだろうけれど、やつが立ち去るまでは疑問を投げかけてもいいだろう。


 俺は再度、居住まいを正す。




「あの理紫谷円子ってのは、いったい何者なんだ?」


「自称妄言師だ。親の遺産で金が腐るほどある。だから机上の空論をただ吐いて生きている」


 抽象的な俺の問いに、まさしく妄言のような答えが返ってきた。


「だが、彼女は頭が良すぎた。人類史上類を見ないほどに。彼女の妄言は、最先端科学のさらに百年先を行っている」


「それも自称か?」


「これは思地しじ……先生の言葉だ」


「思地?」


「あの場にいた、気だるげなおっさんだ」


 言葉を理解しながら心でもうひとつ疑問を解消する。『先生』。たぶん、あの思地というおっさんは木児の学校の教師なのだろう。


「政府にも追われるほどの天才だ。彼女の妄言の一端でも手に入れれば、日本は世界を征服さえできるだろう」


「おっかねえ話だ」


 なんだか本当に妄言じみてきた。円子の、ではなく、こいつの。


「じゃあなんでまだ、日本はこんななんだ? 世界征服どころかアメリカの言いなりじゃねえか」


「理解できないからだ。俺があの家に出入りし始めてから二年ほど経つが、その間も十回ほど、政府のガサ入れがあった。そして多くの妄言を持って行かれた。……だがそれは、妄言過ぎて理紫谷以外には読み解けない。奪われた文書はいまだに政府の研究機関で、俺たちでも知っているほどの高名な学者が、日夜研究しているはずだ」


 ああ、これは理紫谷の自称だ。木児は言った。


「じゃあ、円子を無理矢理引っ張って、協力させればいいじゃねえか。たしかにそれは非人道的だが、ガサ入れの時点で法は犯してんだろ」


「無理だ。理紫谷はあの部屋から出られない」


 一度、言葉を止める。すこしだけ言いあぐねているようだった。


「……理紫谷の五感は、鋭敏すぎるんだ。視覚はあの部屋にいながらに空を見通し、天気予報ができるくらいに。聴覚はドアふたつ隔てていようがまったく問題にもならないほどに。味覚、嗅覚が優れ過ぎて、まっとうな食事も採れない。触覚が過敏で、特別に製造された素材の服しか着れない。あの部屋の紙やペンも特注。他人に触るなんてもっての外だ」


「ああ……」


 すこしだけ思い当たる節があった。それは今朝のこともそうだ。おっさんは言った。『あの部屋への持ち込みは禁止』。円子自身が飲食するわけでなくとも、同じ空間に異物があるだけで影響があるのだろう。……だとしたら、『俺たち』という異分子が入ることも相当に影響がありそうだが、それくらいなら大丈夫なのか?


 だが、きっとなんの対策もなく外に放り出されたら生命が危険なのだろうということは、なんとなく理解できた。


「大変そうだな。すごすぎるってのも」


 木児のどの言葉をとっても、やはり妄言のようだった。しかし、擦り合わせていくと、いちおう筋は通っているように思う。

 そういうことがあったとしても、絶対におかしいとまでは言えない。


「さて、そろそろ疑問は解消されたか?」


 木児は言う。まあ、一通り解消された気はする。……ああ、ひとつだけ、まだ気になることがあった。


「ところであいつ何歳なんだ?」


 木児を見ると、間に挟まれた天の顔も視界に入った。その顔がすこしだけ、歪んだ気がした。


「……女性の年齢を言うのもなんだが」


 木児は言葉を一度切った。まあ言うことはごもっともなんだがな。


「自称三十六歳だ。小人症らしい」


 小人症。……低身長症か。なるほど、氷解した。


「もういいか? 俺はそろそろ学校へ行こうと思う。今日は久米方もがみについていようと思うのでな」


 木児は立ち上がる。すこし両肩をあげて、体を伸ばしていた。


「ところで平内。おまえはどうする?」


 振り返り、木児は俺に言った。


 俺は考える。空を見上げる。すると見計らっていたようなタイミングで、雨が降り始めた。


「まあ、暇だしな」


 言うと、木児は前を向き、歩き出した。後ろ手に片手を挙げる。だから俺も、片手を挙げておいた。見ると、天が俺を見つめていた。……なんだよ?



 駄菓子屋の軒先には屋根があって助かった。それでもすこし足りない足元を気にして座ることにはなった。いつのまにか爪先に湿度を感じるようになっている。気付いたときにはもう遅い。


 雨足は徐々に、確実に強くなっていった。それでもまだ、豪雨と言うには物足りない。


 午前九時頃だ。隣を見遣ると、変わらぬ姿勢で天が座っている。木児がいなくなってからも天は、まだ肩の触れる位置にいた。すこしばかり窮屈だがわざわざずれてもらうほどではない。


 なにかを話そうかと思ったが、どうせひとり言と変わらない結果になるのは目に見えていた。だからなにかを言う気になれない。だから、俺は黙して黙々と、考えを巡らす。木児から聞いた円子の話と、昨日円子から聞いた話を照合する。擦り合わせて、せめて自分が納得できるだけの理由にしたかった。それが事実とは違っていたとしても。


 集中するために、目を閉じる。


 昨日のことを、思い返す。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る