平内真(偽名)の指先
平内真(偽名)の指先 1
七月三日(水曜日)
きっと誰かの望み通りに今日がきて、きっと誰かの望みを裏切って今日がきた。
ただし、その結果が望み通りとは限らない。
無意識に早起きする人間が、ときおり理由があって早起きしなければならないとき、目覚ましを過剰に用意することがある。嘘じゃない。だって、今日の俺がそうだから。
午前五時半。俺は目覚める。いつも起きる時間と変わらない。だが、それが『起きる』から『起こされる』に変わるだけで多大なる負荷を感じた。心に。
家には誰もいない。ネグレクト……ではないと思う。ただ生活リズムが合わないだけだ。写真家の父と医師の母。兄弟はいない。父は世界中のあらゆる人も、物も、景色も撮る写真家で、そもそも日本にいることが少ない。母は脳外科の医師として有名らしく、いちおう国内にいることが多いが、あらゆる現場に引っ張りだこだ。ふたりとも立派に働いている。それを咎められるものなどどこにいようか?
俺も中学を出たら父についていこうかと思っている。いや、思っていた。昨日、あんな話を聞くまでは。ともあれ、その決断は件の中学生活を終えてからだ。まだ半年以上はある。考える時間がある。
朝食はいらない。前日中に用意してあった学生服に着替え、鞄を引っ提げて家を出る。集合は午前六時だ。
左手に持つ鞄が重い。俺が信号待ちをしていると、眼前を自転車が颯爽と通り過ぎた。道が狭いからか目と鼻の先だった。今日の自転車は交通規則を遵守しているように思われたので、特段の感慨はなかった。信号が青に変わる。俺は左肩を検分するように回して、歩き出した。
まだ二度目だというのに慣れた建物に入る。内装はもとより外装まで白すぎる。住居というにも店舗というにも中途半端なたたずまいの建物だった。エントランスでおっさんに会う。「おお、早いな、少年」。俺はスマートフォンを取り出し時間を確認した。「十分前だ。べつに早くねえ」。だが、『早い』というなら、余裕がある、ということだろう。
「コンビニでなんか買ってきていいか?」
「ああ、……あー」
答えは決まっているが、言葉を探しているような面持ちで、おっさんは空を見上げた。
「茶なら出すから。持ち込みは禁止」
「解った」
べつにどうしてもなにかを持ち込みたかったわけじゃない。手持無沙汰が気になっただけだ。この右手も。時間も。
俺は奥へ進んだ。右のドアを開け、その奥に手をつく。昨日、俺の手紋は登録してある。そのドアは、思ったよりあっさりとした質感で開いた。
「お、少年。おっはー」
早朝から元気な少女が眩しいくらいの笑みで迎えてくれる。それに比例して俺の顔つきはいかつくなっていく気がした。
「なんだよ、こんな早朝から」
「早朝だから挨拶だろう? おっはー」
「古いんだよ」
見ると部屋には、
そうか。すでにはやっていたか。円子は漏らした。つまらなそうな顔で俯く。準備していない反応はやはり子供みたいだ。
「ところで今日のこの町の降水確率はどんなもんだい?」
「は? 知らねえよ」
「なぜだ? 世の男性は毎朝、ニュースを見て新聞を読むものではないのか?」
「俺は中学生だ」
「それは承知している」
微妙に会話が噛み合わなかった。天気の話などし始めたら話題はすでに尽きている。今日はなんのために呼ばれたのだろう?
「そろったぞー」
おっさんが言いながら入ってきた。手には四本、ミネラルウォーターを抱えている。それを適当に配った。円子以外に。そして、その後ろから、もうひとり、人影。
「お待たせしましたか?」
「いやいい。まだ三分前だ。ところで
「二十パーセントですが」
「そうか。なら訂正しよう。それは誤報だ。本日の降水確率は九十七パーセントだ」
三パーセントはいつも通りの誤差。円子は言う。いたずらっ子みたいに笑んで。
「梅雨が来る」
円子はその短い両腕をめいっぱい伸ばして、言った。
木児と呼ばれた男子高校生(制服からして、
「本日中。おそらく日暮れまでに、この町を過去百数十年なかった豪雨が襲うだろう。だから
久米方もがみ。とやらが誰だか解らなかったが、その人名が出た途端、木児の顔つきは変わった。その言葉の信憑性をいったん棚上げにするとしてもだ。
「待て。いきなりなんだ? 過去百数十年なかった豪雨? ソースは?」
「そーす?」
円子はおっさんを見た。おっさんは短く言う「出元」。
「ああ。ソースね。私独自調べだ。だから確証はない。さっき言った通り、確率は九十七パーセントほどだ。確実というには心許ないかね?」
問われても困る。心許ないに決まっている。そもそもおまえは誰だ?
「まあ妄言だね。聞くだけ聞いてくれ。豪雨と強風で、町の二十三パーセント――とりわけ低地を二メートル級の津波が襲うだろう。概算だが倒壊家屋三十余軒、死者は九人、重軽傷者はぎりぎり百を越えないくらいかな」
その具体的な数値に言葉を失う。子供の戯言というには細かすぎる。
「そんなことはどうでもいい」
木児が言う。まだ会って間もないが、感情を荒げるタイプの人間ではないと感じた。それがやや強引に言葉を挟む。
「久米方もがみを保護せよ、とは? 彼女の身に危険が迫るという意味ですか?」
またその名前が出てくる。久米方もがみ。いったい誰だ?
「いいや。むしろ安全だろう。久米方もがみのお宅は二十三パーセントの埒外だ。そのうえ、君たちの学校は高地。なおさら安全だ」
「では、『保護せよ』とは?」
「君なら解るだろう? 彼女の暴走を止めてほしい。彼女は私の計画の中枢だ。いま失うのは、十年以上のロスになる。できれば避けたい」
なんでもないように言う。計画の中枢? 昨日聞いた話では、ただ人類が生き残るか否か、その程度の話だったと記憶しているが。
木児は拳を握り締め、口を結んで震えている。円子の言う『計画』がよほど大切なのか、あるいは久米方もがみという個人が大切なのか。ともあれ木児にとっては体を震わすほどの大事らしい。
「あの……」
俺はおずおずと手を挙げた。
「はい。少年」
円子が俺を指差す。
「そんで、俺らになにができると? あんたの言うことが正しいとして、この町を百数十年なかった豪雨が襲うとして、その規模の災害を俺たちでどうにかできると?」
きょとん。という擬音が、一瞬静寂を連れてきた。
「君は、話を聞いていたか?」
円子が呆れたように言う。
「誰が死のうが町が沈もうがどうでもいい。私が言っているのは『久米方もがみを生き残らせろ』。それだけだ」
……なるほど。解りやすくていい。
「べつに偽善者ぶるつもりはないけどよ」
俺は「個別に話がある」と引き留められた木児を残して、天と外に出た。
「その久米方もがみとかいうやつに、……ええと、死者九人だっけ? それだけのやつらを見殺しにしてまで救う価値があるのか、まだ疑問があるんだが」
ちらりと天を見遣る。俺と同じ中学の女子制服に身を包み、学校指定の鞄を両手で、自身の前に持ってきている。昨日と同じだ。
「…………」
なにをも答えない。これも昨日と同じ。
昨日一日こいつと行動を共にしてきて、こいつが発した
おっさんが言うには「あれは一種の強迫観念だ。好きで話さないわけじゃない」だそうだが、それにしてもやりすぎている。『人工生命体。試作Aタイプ。通称天ちゃん』と円子は言った。ということは、ほとんど話さない――いや、
俺はスマートフォンを取り出し、時刻を確認。午前六時半を少し過ぎたところだ。この程度なら、集合をもっと遅らせてもよかっただろうに。俺は嘆息する。
「なあ、久米方もがみの通う学校。どこにあるか知ってるか?」
天を見遣る。一瞬視線を地面に向け、すぐ正面に戻す。頷くにも満たない、肯定の合図。その後、天は、踵を返して来た道を戻り始めた。「どうした?」問うころには、立ち止まり、赤信号の灯る横断歩道の前で佇んでいる。……なるほど。案内してくれると。俺は頭を掻いた。
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