鵐木児の頭脳 3
いつかの怒涛の一日を思い出して、意味もないプログラムを組む。真っ暗な部屋で。闇はいい。俺がいまたったひとりなのだと錯覚させてくれる。
もう放課後になっているはずだ。だが、完全下校時刻である二十一時まではまだ遠い。はやる気持ちを抑えるには、適当にキーボードを叩く方がいい。必要なプログラムは組み終えている。だが、どうせ足りない。だから奇抜なものを無意味に作る。いまの俺ができるのは、それくらいだ。
明日の朝、か。俺は睡眠をコントロールできる特技があるけれど、眠気はまた別だ。いつもより早く起きることはできても、うまく頭が働かなければ試運転もままならないだろう。
だから、すこし寝ておこうか。考える。散らばるアメを見る。科学者である母が独自に作ったアメだ。包装紙の色ごとにいろいろ効能がある。とはいえ、ほとんどどれも失敗作だが。『快眠』の青をつまみ上げる。すくなくともこれが効いた覚えはない。入眠までの時間が短かったり、短時間睡眠でよく疲れがとれたり、そんなことはまったく感じなかった。『疲労回復』の紫もそうだ。これならエナジードリンクの方がまだ効いている気がする。
ふう。とひと息つく。やめておこう。いくつか抓んだ後で思っても遅いが、どんな副作用があるか解らない。特に赤。これだけは効能上、まだ俺が試験していないのだから、どうなるか解ったものではない。だが、その効能は魅力的だった。
もしもこれを、久米方もがみに渡せたら。そう妄想する。だが、それはだめだ。俺はあの日、決めた。久米方もがみへの気持ちは、本人には向けないと。俺の中だけで完結させると。それは諦めでもなく、気持ちが足りないわけでもなく、誰かに譲ろうという精神でもなく、ひどく簡潔な思考だった。
「やっぱり、そうだよな」
呟く。自分の心から湧き上がり、自分の口から出て、自分の耳にだけ届く。そしてもう一度、違う形で、自分の心に沈んでいく。慈しみに近い感情だったものが究極に醜悪なかたちで戻ってくる。
「だから俺は、あいつのそばにはいられない」
その言葉を掻き消すように、部室のドアが控えめに開いた。
「失礼……します?」
わずかな光を背負って、黒い人影が入ってきた。
鏑先生ではないだろう。すくなくとも先生より背は高い。おそらく生徒だ。声からして女子。
その女子生徒は定石通りというか、まずドア付近の壁を手探り、おそらく照明のスイッチを探している。
「悪いが電気は点けないでくれ」
だから俺は制止した。部屋は暗くなければ集中できない。
「わー! 幽霊!」
その女子生徒はいきなり失礼なことを言う。たしかに暗がりを好むのは幽霊らしいが。もとより幽霊だと思うなら叫んで逃げろ。
だが様子を窺っている限り、むしろ喜んでいる雰囲気である。テンションをあげたまますこしずつ近付いてさえくる。
ややあって、近付いてきたからか、俺はようやく気付いた。
「久米方……もがみか?」
いや、なぜだ? なぜおまえがここにいる?
よもや俺がおまえのことを考えていたから来たのではなかろうな? 神かなにか知らないが、そういう運命を操るなにかに無為に問いかけた。
「私を知っているの?」
「……いちおうな」
どうやら向こうからはこちらがまだ判別できないようだ。遅ればせながらパソコンの液晶が俺を照らしていることに気付いて、あちらからはこちらの顔が見えるのだと思っていたのだが、まあ、見えたところで俺のことを覚えているかが怪しい。
久米方もがみは教室中央あたりの席に腰掛けた。寄るでもなく退くでもなく。なにがしたいのだろう?
「……なにか用か?」
「うーん?」
俺が問うと、久米方もがみは眠そうな声で唸った。
「とくに」
そして答える。すこし欠伸を漏らす。
俺はその答えに、すこし口元を綻ばせた。
あの日以来、まったくと言っていいほど俺は久米方もがみと話していない。だから俺と久米方もがみとの邂逅は本当にわずかだった。それでも、その答えは、途方もなく久米方もがみらしいと思ってしまう。そう思ってしまう自分が可笑しい。
「生首さんはこんなところでなにやってるの?」
追い打ちの言葉で、あやうく、声を出して笑うところだった。俺が誰かは解らないとして、まだ俺を幽霊だと思い込んでいるとは。
俺は立ち上がり、歩く。どうしていまさら、こんな機会が訪れたのだろう? 俺は再度、運命を操る某かを想起した。試されているのか? と、思う。
「暇してただけだ」
ともあれ、幽霊と思われたままコミュニケーションを取るのも癪なので、照明を灯す。自身の行った結果であれど、眩しいものは眩しい。鼻がむず痒くなるような光に照らされ、俺は久方ぶりに、久米方もがみを間近で見た。
「あ、ああぁぁ!」
久米方もがみは指差す。思い出したのだろう。
「木児くん!」
呼んでくれた名が俺のものだったから、わずかな驚愕と共に歓喜が押し寄せる。
「君は俺を知っているのか?」
「知らない! でも知ってる!」
こいつはこんな短時間で俺を何度笑わせようとしているのだろう? だが笑える俺もたいがいだ。だって笑いが込み上げる理由は『その言葉が久米方もがみらしいから』なのだから。
俺は笑いを押し殺し、肩を竦めてみる。ため息も吐いて、パソコンの前に戻った。腰を降ろす。キーボードも、また叩く。
「木児くん、ここでなにしてるの?」
久米方もがみが俺の隣に腰を降ろした。おそらくなんの装飾もない久米方もがみの香りが俺をどうにかしようとする。
「言ったろう。暇してるんだ」
「暇してるって変な言葉だよね!」
「そうだな」
俺はとにかく体を動かした。気を抜くと意識を持って行かれそうだ。タイピングは片手でできる。だからもう片方の手は肘でもついて。そして暑い。ようやく俺の体は久米方もがみがそばにいることを認識し始めたのだろうか? 火照ってくる。だからさりげなく首元に指をかけた。さやかに風が通る。一瞬の涼。
「木児くんそのアメ好きなの?」
久米方もがみにしてはおとなしく、いろいろと見分していたようだ。そして紡がれた疑問がそれである。俺は緊張した。やはりなにかを試されているのではなかろうか? 疑心暗鬼になる。
「普通だ」
簡潔に述べる。せめて俺から誘導したような後ろめたさを抱えたくはなかったから。
「一個ちょうだい」
だが、久米方もがみはその言葉を選んだ。俺はアメを見る。手を止める。冷や汗が背筋を撫でた。
「もし、やると言ったらどの色がいい?」
頭が回らなかった。それでも自ら赤を選ぶことだけは回避した。確率は五分の一だ。俺は賭けた。たぶんその後の人生を。
「赤」
久米方もがみは五分の一を引いた。俺は言われたとおりの色をひとつ抓んで、手のひらで転がす。まだ。まだここなら、引き返せる。
「ほら」
俺はそれを久米方もがみに渡していた。手は触れなかった。それでも久米方もがみの体温が感じられてしまう。それに、目眩がする。
「……ありがとう?」
久米方もがみが違和感を感じ取ったらしい。だが、後の祭りだ。俺は「ん」と適当な態度をとりつつ、パソコンに向き直る。それは現実逃避だった。
「じゃあ、私もう行かなきゃ」
ほどよく、久米方もがみはそう言ってくれた。
「そうか」
俺は新たな話題が出ないように簡潔に応えた。
久米方もがみは立ち上がり、ドアへと向かう。その一歩目で、思い出したようにこちらを振り向いた。
「木児くんのおうちは、水害大丈夫?」
「俺の家はこの高台にあるからな」
また訳の解らない言葉だったが、俺は機械的に答えた。
「じゃあ近いんだね」
「そうだな」
短く言う。すると今度こそ立ち去ろうと、久米方もがみは、なにを思ったか、さきほどのアメを口に放り込んでから、またドアへ向かった。
もしかしたらあのアメを食べずに、どこかでなくしてくれるかもという淡い期待は消え去った。最後の期待は、他のアメ同様、効果が現れないことだけだ。あのイカれた母親が作った『惚れ薬』の効果が。
「俺はいつでもここにいるから」
久米方もがみがドアに手をかけたとき、俺は無意識にそんなことを口走っていた。
「また来ればいい。アメくらいならやるよ」
俺は照れ隠しに両手でキーボードを叩きながら言った。額を汗が伝う。
こうして俺は、突如やってきた運命の某かに敗北した。
時刻はまだ十九時前だ。だが、汗をかいたせいか無性に眠くなってくる。だから青のアメを口に入れた。確認だ。このシリーズがどれも効能を振るわないことを。
口の中で転がす。味はオレンジだ。包装紙の色は味に対応していない。紫は薄荷だったし。
舐めている間、後悔と高揚を感じていた。だがどちらも、実際に久米方もがみを眼前にしているときの十分の一ほどしか感ぜられなかった。人は本当の意味で過去を悔やむことなどできないのかもしれない。感情は時を経るごとに擦り減っていくから。誰かがこの現象を『大人になる』と名付けた。どうしようもできない事象を『どうしようもない』と理解できる力。それらを置き去りにして次のことに意識を向けられる心。感情のままにこのことを考えるとそれが間違いであることに気付けるのに、人間はそのように成長するようにできている。きっと生まれながらにそういう呪いを背負っているのだ。
口内のアメが喉に詰まらなくなるほどに小さくなるまで、俺はそんなことをつらつらと考えていた。十九時を過ぎたころ、アメはその大きさに達し、安堵して俺は眠りにつく。
二十一時に鏑先生が俺を起こすまで、俺は起きなかった。それは珍しいことで、だから俺は、嫌な予感を担いで帰宅した。
ずっと関わらないようにしてきた。それは消極的な回避だったが、それでもそれが崩れた。だから俺の人生は変わる。……そうだ。どうせ変わったのなら、明日からは消極的にでも接触してみるのもいいかもしれない。あのアメの副作用も気にかかる。そういう言い訳はできなくはないのだ。そう思うと、すこしだけ明日が楽しみで、かつ不安になった。内臓を内側からくすぐられる痒み。だから俺はすこし口元を綻ばせた。
俺は知っていたはずだ。この世界に明日が必ずやってくる保障などないことを。
校舎を出ると、地面が濡れていた。雨が降ったのか? 今朝見た空の様子も、天気予報も、雨の気配などまったくと言っていいほどになかったはずなのだが。
とはいえ、通り雨ではあったのだろう。すぐに止んだ。空を見上げると、やや雲がかかってはいるが、特別曇っているというほどでもなかった。高台にいるからかよく星が見える。だが、今年は梅雨らしい梅雨がきていなかった気がする。気象学に明るい訳ではないが、直観的に、雨が降らない時期が続くと、久しぶりに降り出したときが怖い気がする。豪雨にならなければいいが。ふと、大芸が「おまえが出歩くとか豪雨予報だ」などと言っていたのを思い出す。
この町は高低差が激しい。俺の家みたいに高台にあるならいいが、低地の家庭は水害も――
と、考えて思い出した。たしか久米方もがみが水害がどうとか言っていた。まさかあいつの家は低地にあるのだろうか? 俺は心配になる。
その心配と関連があるのかは解らないが、俺はなんとなくスマートフォンを取り出した。通知がひとつ。見ると、思地からだった。
『明日、早朝六時に、集合されたし。んじゃ、よろしく』
隔週の月曜日。それが定期の集まりだった。それ以外の日に緊急招集がかかるのは珍しい。
「不安に拍車をかけるな」
呟いて、わずかに発散させる。そのページを閉じて、べつの名前をタップ、連絡する。
『悪いが、明日のテスト、任せていいか? 基本動作だけで構わない。問題があれば連絡くれ』
家に帰るころには返事がきていた。『(^_^)/』。ごく簡単なものだが、十二分に伝わる。『間に合うようなら合流する』。それは既読スルーされた。異議なし、ということだろう。
「明日は、嫌な予感がするな」
口に出してみたが、その言葉は発散されず、むしろ俺の心にじわじわ侵食していくのだった。
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