鵐木児の頭脳 2
二時限目と三時限目の間の休み時間はやや長い。とはいえ、休み時間を狙う必要もなかったのだが(むしろ授業中の方が間違いなく教室にいるだろうから確実だった)、たまたまタイミングがその時間だった。
中等部一年生の教室は遠い。だから、つかの間の休息を堪能している生徒の隙間を縫って歩かねばらならない。なにあれ、暇潰し? いいよなあ、特待生さまは。あいつ今日発表のとき固まってたよな。いろんな声が聞こえる。まったくもって無遠慮に。
「おーっす、鵐じゃねえか。珍しい」
さらなる無遠慮で肩を組まれた。おまえは湿度を感じないというのか?
「
「そんなこと言うなよ、ご近所のよしみ。あー、……よしみちゃん元気?」
「元気だ。誰かは知らんがな」
こいつは久米方もがみよりもよっぽどノリで生きている。相手にしてはいけない。馬鹿をみたくなければ。
「おまえがどっか行くとかこれ豪雨予報よ? よっしゃ
「いらん。教室の場所くらい知っている。ここは俺の庭だからな」
「はっ。じゃあ手入れがなってねえな。敵しかいねえぜ、この庭」
肩を組むのと反対の腕を広げて、とても無遠慮に言った。休み時間の喧騒が静まる。
こいつはいつもなにを考えているのだろう? 敵を作ろうとしているのはおまえだ。そう言いたいが、残念ながらこいつに敵はいない。それを証明するようにあの暴言にも誰も文句を唱えなかった。
「本当に用事があるんだ。用がないなら離せ。憐みならなおさらな」
「まあ待てよ。たしかに用はないよ。だけど憐れんでる。あ、今日おまえんち行っていい?」
「散らかってるから今日は駄目だ」
「気にしねーよ。茶だけ出してくれれば」
「憐れまれる覚えがない。俺はひとりで生きていける」
「んじゃーひとりで死ねるか?」
「たいていの場合、人は死ぬときはひとりでだろう」
「ちげーよ。そうじゃなくて。……誰にも看取られず、誰に知られることもなく、白骨化して化石になったころに掘り起こされるまで事実として残らず、死んでいいのかって聞いてんだよ」
俺は立ち止まる。組まれた肩が重い。「おっとと」と大袈裟に慣性を受けてから、やつも立ち止まり、俺を見た。一息つく。組まれた腕を解く。
「べつに構わん」
言って、また歩き始める。大芸は悪態をついてなにか(たぶん消しゴムのかすだ。なぜそんなものを持っていたかは解らない)を投げつけてきたが、それ以上追ってはこなかった。
生き方ならいざ知らず、死に方を考えたことはなかった。もし、いま、同じ問いを投げかけられたら、俺はなんと答えるのだろう?
二人三脚のせいで少々時間を喰ったが、いちおう休み時間内に到達することができた。こちらはこちらで奇異の目で見られる。中等部の領域に高等部の人間がいるのが珍しいのだろう。高等部のエリアを歩くときとは違い、どちらかというと良心的な目で見られている感覚がある。今朝の集会で喋っていたやつだと気付いた者もいるようだし。
さて、女子生徒だ。壇上から見たところ中等部一年だとは思うのだが、一組の列か二組の列か、どちらなのかは自信がない。なんだかんだで気が動転していたし。
近い方から順に見ていく。まずは一組。……いた。早くも見つけた。
というより目立っていた。まるで転校生のように人がたかっていたのだ(ちなみにその集団の呼ぶ言葉で『久米方もがみ』のフルネームを得た)。その中心にいる久米方もがみは、机にかじりついている。たしかに変だ。人がたかるのもよく解る。ただ、なにをやっているのかは解らない。勉強……次の授業の予習か?
そう思って見ていると、ふいにチャイムが鳴った。同時に教師が入室する。
「おー、席つけー」
見ると、それは思地先生だった。
俺には授業開始の合図など関係ない。ゆえに、教師から文句を言われるまで廊下から様子を窺おうと思っていた。すると、久米方もがみが一瞬顔をあげた。さきほどまで広げていた教科書やノートを仕舞い、別のそれを取り出す。予習ではなく復習だったのだろうか? そして、おもむろに周囲を見回したかと思うと、俺を見たところで止まり、叫んだ。
「あー! 木児くん!」
指をさす始末だ。もう授業が始まっている時間なのにだ。
どころか、ずかずかとこちらに向かってくる。なんだ? もしかしてこいつも特待生か? 向かってくる久米方もがみを置いておいて、俺は教師を見遣る。頭を抱えている。ああ、たぶん、素行不良者だ。
「お久しぶりです! うん? お久しぶらない?」
大芸と馬の合いそうなやつだ。それが第一印象。
「ああ、さっき会った。いや、会ってないけど」
気迫に圧される。落ち着け。こういうやつはまともに相手にしてはいけない。馬鹿をみたくなければ。
「そっか! 会ってない! 初めまして! 久米方もがみ! 十三歳!」
単語を連ねるタイプの人間だ。つまり、やばいやつ。
久米方もがみが手を差し出すので俺も手を出した。彼女がそれを喰い気味に掴む。思地先生と握手したときとは違う、エネルギーの塊みたいな熱を感じた。
「元気だな」
「うん! 久米方もがみは今日も今日とて元気です! 木児くんは元気!?」
「いや、普通かな」
「なんで!?」
なんでじゃねえ。おまえの元気こそなんなんだ?
ともあれ、これでは圧し切られてしまう。そう思った。せっかく重い腰を上げて会いに来たというのに、俺にとっての得がない気がした。だから、半ば強引に質問する。
「おまえ。プログラミングが解るのか?」
そう思った。俺の発表に真っ先に拍手した。その行動がとれるのはその内容を解っている者だけだと思った。
「プログラミング……? 解んない!」
ちょっとだけ考えて、久米方もがみは言った。俺の肩に疲労が襲ってきた。
「じゃあなんであの集会で拍手を?」
「拍手するよ! すごかったもん!」
「だが、内容は解らなかったのだろう?」
「内容は解ったよ?」
言ってることが解らない。こいつ大芸みたいに適当なことを思いつくまま話しているのではなかろうか?
「え? だって木児くんが一から十まで話してたよね? すっごく解りやすかった! えっと、木児くんが作ったプログラム(?)が――」
それから久米方もがみは簡潔に早口に、語った。用語を覚えきれていないからかところどころ詰まったし、プログラミングの素養がないから独自の考え方も織り交ぜつつだったが、言っていることはだいたい合っていた。
そうか。ちゃんと聞いているやつがいたのか。そして理解してもらえた。人付き合いの希薄だった俺にとって、それはいまだかつてないコミュニケーションだった。
「そうか。……ありがとう」
俺の心から、その言葉は自然に出てきた。
久米方もがみは『?』と顔に出して、
「どういたしまして?」
言葉にも出した。
ある日。その日のことを思い出して、俺は、これは恋だな、と、思った。
その日の放課後。俺は半強制的に思地に連行された。
「おまえのせいで授業が十五分潰れたんだ。当然だろ」
ということらしい。もちろん俺ひとりのせいではないし、俺が悪かったとしてもそれを埋めるために先生の言葉に従わなければならないというわけでもない。償い方は他にもあったろう。しかし、もとより思地の言葉には従う気でいた。たまには誰かに会ってみるというのも悪くはない。久米方もがみに出会って、なおさらその気持ちは強くなっていた。
その場所は学校のある高台から少々離れていた。坂を下り、上り、また下り、また上る。そしてうちの学校とは違う、また別の高台にある公立中学校。そのそばにある建物。真っ白な建物。内装まで無機質に真っ白な建物だった。
「なんですか、ここは」
綺麗すぎる。という言葉を飲み込んだ。こんな無機質な空間を『綺麗』というのは違う気がした。
「ちょっとした知り合いが住んでる。俺がいないと生きていけないから、定期的に通ってやってんだ」
思地は言うと、勝手知ったる他人の家といった様相で、奥に進んで行った。エントランスから、右奥のドアへ(そこにドアがあるとは気付かなかった)、次の部屋からもさらに奥へ。目を疑うような開き方をした壁を意識の外に追いやり、ただひたすら思地の背中を追った。俺ももうすこし危機感を持つべきだ。
「べつに君がいなくても生きていけるが?」
部屋に入るなり声がした。どこか舌ったらずな、幼い声。
「ほう。じゃあ俺は今日限り来ないが、それでいいと?」
「だったら代役を準備してからだ。もう我々はいくつになったと思っている」
親しげ(?)に話す様子は、たしかに旧知なのだろう。だが、これだけの会話でも、おかしいことが解る。
部屋に入ってみるに、思地と話しているのはどうやら、あの少女だ。歳のころ十歳といったところだろう。すくなくとも小学校は卒業していない。だがその服装は黒いタイツにタイトスカート、シャツの上からセーターを着ている。さらに上から白衣。その白衣を除けば、どこででも見かけそうなOLのようだ。特段大人びた、とまでは言えないが、すくなくとも小学生の服装ではない。
そして言葉だ。「べつに君がいなくても生きていけるが?」。これはエントランスで俺と思地が交わした会話に対する反論。さほど大声で話したわけでもないあの言葉を、ドアふたつ跨いで聞き取った。そして極めつけは「もう我々はいくつになったと思っている」。我々は? その言い回しはまるで、同年代の友人に向けるそれだ。ちなみに思地は、どう若く見積もっても二十代後半である。一般的に評するなら三十の半ば。いや、四十を超えていても納得する外見だ。
「ん。誰だ、そちらは?」
「うちの生徒だ。前に話したろう。プログラミングで賞とったやつ」
「ああ!」
少女は俺を指差し、声をあげた。
「久米方もがみの範囲内で、もっとも作れそうな男か!」
言った。
なんて言った?
久米方もがみの範囲内?
作れそうな男? 使えそうな男、ではなく?
「いやあ、こんなに嬉しいことはない! 初めまして! 私は
「いや、……はあ。……えっと?」
少女は俺の目の前で、文字通り飛び跳ねて喜んでいる。俺は事態が飲み込めず、思地を見た。思地は困ったような表情だったが「ま、とりあえず、名乗っとけ」と言った。
「鵐木児。……座右の銘?」
もう一度、思地を見る。「あるなら言っとけ」。
「……『雨垂れ石を穿つ』」
「うんうん!」
やけに上機嫌だ。俺はまったく事態を把握していないというのに。
「それはいい座右の銘だ。その心、忘れてくれるなよ、少年」
やはりおかしい。こんな子供に『少年』呼ばわりされるいわれはない。なればやはり、思地と同年代か。まあ、うちの学校にも(ここまでではないが)幼すぎる教師がいるからぎりぎり納得できる。
「あの、それで、俺はなんで呼ばれたんですか?」
ようやっと絞り出した。建物も住人も奇々怪々すぎて、思考が追いつかなかったのだ。
「ああ! じゃあ腰を据えて話そう! もっとも椅子や座布団はないんだ。適当にくつろいでくれ」
理紫谷は言った。
そして俺は知る。
俺が生まれてきた意味を。
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