鵐木児の頭脳

鵐木児の頭脳 1

 七月二日(火曜日)




 目覚める。ここはどこだ? 考える。解らない。解るのは現在時刻が午前六時四十三分であることと、ここが我が家の敷地内であるということだけだ。ただただだだっ広いだけの木造平屋の我が家には、大雑把にいえば部屋がひとつしかない。四十人くらいならば普通に生活できる広さのこの部屋には現在、売れば十桁くらいの日本円に代わるくらいの精密機械が乱雑に投棄されている。こんなものは投棄だ。ほとんどの機械が使われていないのだから。


 体を起こす。なにがなにやら解らないがおそらく六桁くらいの機械に手を置く。力を込める。立ち上がる。全身が痛かったので伸びをする。誇張でなく『バキ、ボキ』という音がした。さて、出口を探そう。




 光に向かって歩くと、やがて外に出る。数時間ぶりに呼吸をしたみたいだ。


「おはよう」


 見ると何者かがいる。逆光で顔は見えなかったが、声の質からすると弟だろう。


「おまえも昨夜はここに?」


「うん。まあ」


 お互いのことだが素っ気ないやり取りだ。両親の性格を思うにふたりともこの性格なのはおかしい。せめてどちらかは親に似るべきだ。


「僕はもう行くけど」


「ああ、俺も行こう」


 まだ体が痛かったが、むしろ歩いたほうがいいだろう。弟と共に学校へ行くなど久しぶりだ。だからといって特別な会話などない。距離もゆっくり歩いて十分といったところだ。


「兄貴、できた」


「ん?」


「完成した」


 俺は驚愕した。驚愕というより歓喜か。我が弟ながらよくやってくれた。内心ではそうやって抱き締めて頭を撫でていた。だがそれは俺じゃない。そこで弟を抱き締めて頭を撫でる人間は決まって久米方くめかたもがみだ。俺はそんな彼女を自身の心に投影し、馬鹿らしい衝動を得るのだ。


「そうか。……テストしたい。今夜は大丈夫か?」


「いや、悪いけど。今夜はちゃんと寝たい」


 態度にこそ現れていないが、どことなく憔悴している様子は見てとれた。家族ほどの距離で見てこなければ気付かない程度の変化だろう。言葉だけでなく俺たちは態度すら小さい。


「明日の朝なら」


「それでいい。……何時でもいい、ゆっくり寝てから来い」


 明日はいつも通りの時間に起きることはできなさそうだ。そう思う。いつかのあの日。俺が久米方もがみに出会った日のように、六時四十三分には。




 その日は憂鬱な月曜日だった。何日も前から続いて雨が降っていたように記憶しているので、おそらくいまと同じような時期だ。


 前々から教師がうるさかった。授業にまったく出ない俺を煙たく思っていた者もいたのだろう。とはいえ今回の申し出は、どちらかというと俺へのあてつけじゃなくて、生徒への誇示だ。我が校にはこれだけすごい人がいます、と。


 端的に言うなら部活動の活動報告だ。しかし、全部活が対象ではない。『部活動で類稀なる成績を残した部活』という言い回しではあったが、つまるところ『よく学校を宣伝してくれたで賞』と言ったところか。ネーミングセンスが悪いが。


 ともあれ、以前から何度も打診があったものに俺が根負けして受けた活動報告会だった。全学年の朝一番、一時限目を潰しての発表である。単純に面倒だった。聞く側はたいした労力もなく、なんなら寝てればいいが、発表側の負担は大きい。知らない人間に解るように噛み砕いて言葉を選ばなければならない。好き勝手話していいというならまだ楽だったのだが。無駄に三日間もかけて原稿を仕上げた。どころか目で見て解り良いようにスライドも準備した。この間、本来の『活動』は停滞したというのに、学校側はそれでよかったのだろうか?


 学校につくと、即、体育館に集合だ。他生徒がホームルームを受けている間にいろいろ準備がある。行ってみると、まだ教師はいなかった。館内にはすでにパイプ椅子が並んでいるのでさほどの準備はないにしろ、集合が遅い。ただ唯一そこにいたのは同日、俺と同じくスピーチする女子生徒だけだった。


「まだ教師は来ていないのか?」


 俺は女子生徒に話しかける。人間と話すのは苦手だ。人見知りというのとは違うと思っている。特段話す理由がないと思っているのだ。たいていの人間はたいていの時間を、無意味な雑談で過ごしていると、すくなくとも当時は本気で思っていた。


「うす。そうみたいっす」


 女子生徒は言った。制服を見たところ中等部の子だったが堂々とした立居姿である。言葉遣いから運動部っぽいから、運動部は違うな、とすこし感心した。


「えっと、君はなに部? 大会で好成績だったとか?」


 一度言葉を交わすと、その後の沈黙が辛かったので、会話を続けてみる。


 すると女子生徒は目を丸くした。驚いている様子である。なにか悪いことを聞いただろうか?


「……うす。自分は空手部っす。僭越ながら県大会で優勝させていただきました」


「へえ。それはすごい」


 素っ気ない返事だ。だが気持ちは本当だ。県大会優勝ということは、次は全国か? この学校から全国大会へ出場など、聞いたことがない。まあ、俺はそういう情報をほとんど得ていないので知らないだけかもしれないが。


 こうして会話が途切れると、女子生徒は俺から視線を逸らし、また凛と立った。俺はまだなにかを話すべきかと思考を巡らしたが、やがて諦めた。無理に話を続けることもなかろう。


「おお、早いな。結構結構」


 気だるげな声が聞こえた。正直誰か知らん。俺が知っている教師など、無意味に顧問だからって部室に毎日顔を出すやじり先生くらいだ。


「うす」


「おお阿刀田あとうだ。ちゃんと来たな。……で、君がしとどくん?」


 女子生徒は阿刀田というらしい。その後教師は、俺に向き合った。


「はい。鵐木児きじです。おはようございます、先生」


「これはこれはご丁寧に。俺は思地しじだ。中等部一年二組の担任。担当は化学」


 軽薄な雰囲気で手を差し出してきたので掴んでおく。あまり握手という文化に慣れていなかったので戸惑いながら。掴んだその手は見た目とは裏腹に力強かった。父や弟を思い出す。これは、技術者の手だ。


 それに一瞬気を取られていたら、急に引っ張られる感覚。よろめきながら、なにかにぶつかると、耳元から声。


「放課後時間あるか? 会わせたいやつがいる」


 それは呟くような声量だったからか、さきほどまでの軽さが消えて、いやに重々しい声音だった。そして次に押し戻される。


「おお、大丈夫か、少年。寝不足か? ガキはちゃんと寝ろよ」


 言ってめんどくさそうに思地は笑った。




 部活動発表の間も、思地の言葉が気になった。会わせたいやつ。誰だ? 校内の人間ではないだろう。あの気だるげな教師が、わざわざ校内の人間のパシリで動くとは思えない。もちろん目上の人間に頼まれれば社会人として断れないこともあろうが、あの一瞬の言葉の雰囲気から、もっと重要ななにかだと考えてしまう。とすれば、リクルートか? だとしたら面倒だ。結果断る勧誘を最後まで聞くことは時間の浪費に他ならない。だが、最終的には興味が勝った。


 俺は行ってみることにする。ああいう人間がどういう目的で動くかが、一番の興味対象だ。


 わっ! と歓声が起きた。拍手喝采である。どうした? なにが起きた?


 見ると、阿刀田という女子生徒が壇上でお辞儀をしているところだった。そうか、先に行った阿刀田のスピーチが終わったのか。俺は自分の番が来たことを悟り、気構えを直す。気が乗らずとも請け負った以上、完璧にこなさなければ。


 阿刀田と入れ替わり、壇上に立つ。思っていたより威圧感がある。ほとんどの生徒がこんなスピーチに興味などないはずだが、それでも多くの視線はこちらを向く。完璧に暗記したゆえに置いてきた原稿を念のため持ってくるべきだったと後悔した。だが、なんとか声は出た。


「それではプログラミング部の活動報告をしたいと思います」


 俺は言う。話す。語りかける。何度も言葉にして、覚えたスピーチだ。だが、誰かが聞いていると思うと、その言葉は意味を変えていくようだった。練習のときはどういうペース配分で喋り、どこでスライドを変えるかしか考えていなかった。だが、こうして話してみると、ひとりひとり理解に差があることが解る。話し続けていくうちに聞いている人間が減っていく。途中で脱落した者たちだ。やはり、もうすこし簡略化すべきだったか? 情報を詰め込み過ぎた? 根本的に、これを説明するには時間が足りないのでは? いろいろな考えが無秩序に荒ぶる。そしてやがて、考えるのをやめた。こいつらに理解してもらう必要はない。俺はこれまでどおり、ひとりでいい。


 終えてみるに、拍手は起きなかった。俺がそのスピーチを終えたことに気付いたのは、館内が静まり返っていたからだった。汗が流れる。背中が冷たい。ともあれ終わったのだ、早く壇を降りよう。思うが、足が動かなかった。


 するといきなり、なにかが擦れる音が聞こえた。音の方を見ると、ひとりの女子生徒が立ち上がっている。壇上から見て左の端の方。中等部一年生だろう。その比較的前の方。だから、出席番号の若い生徒だ。その生徒は立ち上がるなり大きな拍手を始めた。「すごい!」という声も聞こえた。その拍手に後押しされ、会場に拍手が響く。喝采だ。歓声も上がる。おもに最初に拍手してくれた女子生徒であるようだが。


 我に返ってみると、頭を下げていないことを思い出し、俺はお辞儀する。もしかして、お辞儀がないからスピーチの終わりが解らなかった? だから拍手のタイミングが掴めずに……? だとしたら、最初に拍手してくれた女子はなぜスピーチの終わりに気付いたのだろう? それが、俺が久米方もがみに興味をもった最初のきっかけだ。




 スピーチを終え、部室に戻る。ややあって、鏑先生がやってきた。


「おつかれ。よかったよ」


「鏑先生。授業はいいんですか?」


「二時限目は空いてるの。鵐くんこそ授業、出ないの?」


「べつにいいでしょう?」


「べつにいいけど?」


 むくれている。言葉とは裏腹だ。


「先生。スピーチの……」


 俺は言い淀んだ。あの最初に拍手してくれた生徒のことを聞こうとした。だが、どう聞けばいいのやら……。


「ん? どしたの? 暗い顔して」


「もとからこんな顔です。……ああ、えっと、思地先生ってどんな方ですか?」


「思地先生?」


 頓狂な声音だった。不意をつく質問だったのだろう。


「普通の先生だよ。中等部一年二組の担任で担当は化学」


「それは知ってます」


「じゃあなにが知りたいの?」


 本当だ。俺はなにが知りたいのだろう?


「たとえば学者としてなにか論文を出していたり、過去に賞を取っていたり」


「うーん。聞いたことないけど。……飄々としてるからね。悪い意味じゃないけど、変わり者かな」


 悪い意味ではないのかもしれないけれど、悪い印象らしかった。鏑先生は子供みたいな見た目だけれど、表情も子供っぽくて読みやすい。


「思地先生がどうかした?」


「いえ、俺もそう思っただけですよ」


「?」


 意味が解らない。といった様子に首を傾げる。


「変わり者だなって」


「でしょう?」


 同意されてちょっと嬉しそうだ。そこを嬉しそうにするのはどうかと思うが。


「……今日スピーチしてた、阿刀田さんって子は?」


「阿刀田さん? え、鵐くん、阿刀田さん知らないの?」


「今日まで知りませんでした」


 そうか、やはり有名なのか。阿刀田に部活のことを聞いたとき、驚いていたのはそういうことだ。『有名なあたしのことを知らないんすか?』という感情だったのだろう。


「阿刀田さんは良くも悪くも有名人。空手部の……というか我が校のスターなんだけど、授業はサボる、遅刻早退あたりまえ、暴行かつあげ、果ては盗んだバイクで走り出す――」


「待て待て。それきっと尾ひれはひれついてるぞ」


 たしかにちょっと悪そうな顔つきだったが、話してみた感じそこまでではなかった。


「まあでも、前者の理由だけでも有名なんだから、鵐くん、すこしはみんなと交流した方がいいよ」


 学校は勉強するだけの場所じゃないんだから。と、鏑先生は言う。まっとうなことを言うと先生みたいでちょっと違和感がある。しかしそうか、べつにそうすればいいのか。


「そうですね。すこし出歩いてみますよ。今日は」


 言って、俺は立ち上がる。そうだ。誰に聞くでもなく、俺のこの目で見てやればいいじゃないか。

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