阿刀田傘の関節 3

 チャイムが鳴る。それでも急ぎもしないで教室に向かう。遅れようがサボろうが小言のひとつも言われない。だけど、もがみと同じクラスなんだ。それだけで学校に来る理由になる。


「じゃあ、出席とるぞー。……阿刀田」


 担任があたしの名前を呼ぶのと同時に、教室内に入る。出席番号が一番じゃなければ、もうすこしゆっくり来れるんだがな。


「うす」


 クラス中の視線が刺さる。多少のざわめき。いいかげん慣れろ。あたしが遅れてきてなにが悪い。


 もがみがあたしを見てる。満面に笑む。あたしははにかんで見せる。あんまり崩れてくれるなよ、あたしの相好。


「ねーねー、傘ちゃん。今日はなんで三つ編みなの?」


 と、うなじをつつかれる。さすがにちょっとくすぐったい。


 それは心も同じだ。もがみの声があたしの心をくすぐる。このためにあたしは生きている。もがみの気を引いて、語りかけてもらうために。


「おまえがやったんだろ」


 乱れる顔と心は抑えきれない。それでも嬉しくて、すこしだけ振り返る。


 そうだよ。この三つ編みも、この顔も、この心も。作ったのは――作ってくれたのは、おまえだ、もがみ。




 授業中はすこぶるつまらん。あたしは意外と勉強はできる方だし、集中し出したもがみにはなにを言っても聞こえないから。だからあたしは眠くもない目を閉じて、机に突っ伏せている。そうして一コマ五〇分のうち二十回くらい時計の針を眺める生活だ。楽ではあるけれど、無性につまらん。


 授業の合間の休み時間も、もがみは集中を切らさない。一瞬意識を取り戻すのが、次の授業の始まりのときだ。さすがに科目が変わるのでほんの一言くらい会話ができる。といっても、頭は働き続けているらしく上の空なんだけど。


 このもがみの集中力はどこからきているのだろう? 学校の勉強なんてできてもさほど意味はない。『学歴』というものを求めないなら、すくなくともテストで平均点をとれるくらいやっておけば十分だろう。だがもがみはもうずいぶん、九十点以上しかとっていないはずだ。成績は常に学年で五番目までには入ってる。それでもその集中力を維持し続けられる根源はなんなのだろう?


 いちおう、以前に聞いたことがある。だが、もがみの言うことだ、どうにも要領を得ない言葉しか聞けなかった。「だって学生が勉強するのはあたりまえでしょ?」って。あたしが聞きたいのはどうしてそんなに「やりすぎるのかってことなんだけど」。「え? やりすぎてる?」足りないかと思ってた。とか。


 久米方もがみは完成している。この子は自分の思想を構築し終えている。その底の底までにはまだ到達できていないけれど、もがみは周囲からなにを言われても芯がぶれない、それだけはあたしにも解ってきている。だからあたしの言葉でももがみを変えることはできない。こんな、生き急いでいるみたいな生き方、本当はやめてほしいんだけどな。


 午前二つ目の授業を終え、もがみを振り向いてみる。やはり、授業が終わったことにすら気付いていない様子で、日本史に思いを馳せている。おまえはその程度の史実、すべて把握しているだろう。と言いたい。だが、そういうことじゃない。もがみの勉強はもっと先を行く。その戦が起こる要因、各国の思惑、外向的手管、力関係。いろんな要素を組み合わせて、自分なりの理論を構築している。ただ残念ながら、それらはたいがいもがみの妄想だ。もがみの考えることはいつも飛躍しすぎている。


 ずっと真剣なもがみの顔を眺めていてもいいのだが、あたしも寝疲れたので、すこし歩くことにする。隣の三年二組を通り過ぎるとき、なんだかざわめいている様子だったので狒々原を呼んでみると、どうやら転校生が来たらしい。おかしなタイミングだなと言ったら、おかしいやつだからじゃね? と返された。狒々原におかしいと形容されるとはよっぽどだな、と感じたので暇潰しがてら話を聞いてみた。もがみが興味をもつかもしれないから。




 午前中最後の授業を終え、あたしは十二分に待った。焦るな。あまり喰い気味にやると煙たがられるかもしれない。


「もがみ。授業終わったぞ」


 振り返り言ってみる。もちろん反応はない。


「おーい。もがみちゃん。授業はおしまいですよー」


 頬をつついてみる。やっこい。だが反応はない。


「阿刀田傘が暇してる。もっと構え」


 つついていたそれを引っ張る。餅みたい。


 だめだ。今日もこいつは、やりすぎてる。なんだかイラついてくる。おまえがそんなんだからあたしが離れられないんだ。多くの目があるから大丈夫だろうとはいえ、男子からセクハラとかされたらどうする。たぶんなにされても気付かないだろ。


 あたしは(おそらく)無実な男子生徒たちを睨む。数人が気付いて目を逸らした。……やっぱあたしって怖いかな。


「おい、もがみ!」


 つい怒鳴ってしまう。


「ひゃい!」


 変な声が出た。かわいい。仕方がない、許してやろう、いろいろ。


「もがみ……飯食おう」


 ちゃんと言わないと本気で休まないからな、こいつは。またどっかで倒れないように栄養を採ってもらわないと。


「傘……ちゃん?」


 やや間を空けて、もがみは気付く。本当に、やりすぎなんだ。


「うむ。阿刀田傘だ。元気か?」


「うん! 久米方もがみは今日も今日とて元気いっぱい! おはようございます!」


「寝惚けるな。昼休みだぞ、あたしは腹が減った」


「じゃあ私もお腹すいた! たぶん!」


 言うと、もがみは上体を倒した。その唐突さが、速度が、力のなさを物語るので、あたしはとっさに手を伸ばす。……なんとか机に頭突きをする前にあたしの手が挟まった。


「一瞬寝とけ、あたしはお茶買ってくる。……もがみは?」


「甘いコーヒー」


「ん」


 なおざりで無遠慮な言葉が嬉しかった。だから代金はそれでいい。一番甘いやつを買って来てやろう。あたしはにやつきながら歩く。だからみんな、あたしから離れていった。




 教室に戻ってみるともがみがよだれを垂らして寝ていた。その前の席に座る。もがみのコーヒーとあたしのお茶を置いて、先に自分の弁当を取り出す。一瞬一秒でも長く寝かせておいてやりたい。弁当を取り出したら、ハンカチでよだれを拭ってやる。いひひ。と間の抜けた笑いを浮かべる。ちょうかわいい。


「起きろ」


 あたしはチョップをかました。あまり加減はしてない。


「ふげ」


 おもしろい声で目覚める。ので、すこしからかってみる。


「よだれ垂らして寝てたぞ」


「傘ちゃん! おはようございます!」


 だが、そんなことなどどこ吹く風だ。耳に入っているかも怪しい。


「そんな叫ばなくても聞こえる。……飯食うぞ」


 言うともがみも弁当箱を取り出す。あたしのは特別として、もがみも結構でかい弁当を毎日持ってきている。もがみのお母さんはさすがと言うべきか、娘のことをよく解っている。こいつはこれくらい喰わなきゃだめだ。


 あたしと自分の弁当箱を見比べてもがみは「?」みたいな顔をしていたので、なにか言われる前に遮る。


「じゃ、いただきます」


 手を合わせて言う。これはもがみの真似だ。


「うん、いただきます」


 もがみは神妙な様子で言って、瞬間で戻る。その一瞬でもがみは世界を駆けている。


 あたしはいくつかおかずを食べ始める。もがみほどではないがあたしもよく体を動かすし、カロリーを消費している。頭使ってない分、こんなにたくさん食べなくてもいいんだけど、できればもがみに食べてもらいたくてたくさん持ってきている。親が過保護に作り過ぎているという要因もあるけれど。


 もがみは卵焼きを食べる。満面に笑み、その後、目を見開いた。あ……なんかめんどうそうなやつだ。あたしはすぐに悟った。


「傘ちゃん! カロリー!」


 もがみはいきなり叫んだ。普通それだけじゃ伝わらないことくらいいいかげん解れ。それともあたし相手だからそれで解ると思ってくれているのだろうか? それならいいんだけど。


 もがみは缶コーヒーを飲んだ。おまえそれもカロリーだからな。あたしは思う。


「……大丈夫だ、もがみ。今朝おまえに太ったと言ったのは嘘だ」


 あたしは頭をフル回転させて汲み取った。もがみと話してると頭よくなりそう。


「ほんと? やったあ! この嘘つき!」


 笑顔で悪態をつくとまた食事を再開した。食べられる喜びをひっしと感じている様子である。こいつがいるから日本もまだまだ捨てたもんじゃないと思える。


 それからまたすこし食事を黙々と食べ進めつつ、あたしは決心を固めていく。今日は火曜日。柔道部やら剣道部やらとの折り合いで空手部が道場を使えず基礎練だけの日なのだ。つまり、数少ないもがみと一緒に帰れるかもしれない日。あまり深刻にならず、それでいて軽すぎない絶妙な文句でもってもがみを誘わなければならない。


「ところでもがみ。あたし今日、部活が基礎練だけですぐ終わるんだけど、一緒に帰らない?」


 出た言葉はこれだった。微妙。もうすこし押し気味でもよかった気がする。

 あたしはなんでもなさそうに、適当なおかずを口に含めながら待った。あたしがもがみの重荷にならないように。


「うん。……やったね!」


 もがみは笑っているのに困っているような、やや暗い表情をして言った。だから嬉しいのと悲しいのとが混ざった、複雑な気持ちになる。


 なにか用事があったのかな? 用事がなくとも早く帰りたかったとか? もしかしたらあたしと一緒に帰るのが嫌だったとか? いろんな憶測が湧いてくる。そんな自分が嫌いだ。久米方もがみに表裏がないことくらい解ってるはずなのに。もがみが「やったね!」というならそれは嬉しいってことだ。だけど、灰汁のように這い上がってくるいやな気持ち。それはどうしても、残ってしまう。


「そうか、よかった」


 あたしは言う。うまく笑えているだろうか? 解らないけれど、事実として、あたしは笑顔を作った。それは文字通り、作ったような笑みだったに違いない。




 いつまでも暗い気持ちでいても仕方がない。久米方もがみは目まぐるしいから。瞬間瞬きをするといつもの満面の笑みに戻っている。さっきまでの暗さが幻だったみたいに。


 だからあたしも暗くなんていられない。もがみが幸せなら、あたしも幸せだ。


 それからの昼食は楽しいものだった。もがみのから揚げをもらったり、あたしの卵焼きをあげたりたり(久米方家では卵焼きが甘いらしいのでうちのは新鮮なのだと)、隣のクラスに転校生が来たとか、そんな他愛のない話。染原そめはら市神いちがみ緑川みどりかわなどクラスメイトも集まってきたりする。あたしひとりだと避けられることの方が多いけれど、それでももがみが側にいれば人が寄ってくる。あたしが言うのも変だけど、こいつのどこがそんなにいいのだろう? 染原とか「キモい」呼ばわりされてるはずなんだけど。


 あと緑川が最近頻繁に寄ってくる。こいつはデブで眼鏡でニキビ面の男子なのだが、どうにももがみに気がありそうなんだよな。なのですこし睨みをきかしているが、あたしの視線など気にならないのか、あたしにもよく話しかけてくる。こいつは体格通り大食漢らしく、自分の弁当が足りないとか嘆いていた。ので、あたしの弁当を分けてやってる。どうせ余るし、もがみの方に寄ってくよりだいぶましだ。べつに外見を除けばおもしろいやつではあるし。


 もがみとは恋愛の話をしたことがない。むしろ意識してあたしがその話題を避けている。もがみに恋愛などまだ早い。だから興味をもたせないように気をつけているのだ。どうせもがみのことだから変な男を連れてくるに決まっている。だからすこしでも成熟してから恋愛をさせようと思っている。最低でもあたしのお眼鏡に適わなければだめだ。




 昼休みが終わり、またつまらない午後の授業を乗り切り、またもがみを起こす作業をこなす。もがみはまた疲労を抱き締めるような笑顔を見せ、あたしの心を掻き毟る。がんばりすぎてる娘を見る親の心境だ。


 部活の終わり時間を告げ、別れる。クラスにはまだ生徒がちらほら残っていた。その中には緑川もいたので一度睨んでおく。もがみに変なことすんなよ、という釘のつもりだったが、なぜかやつは荷物を纏めてあたしについてきた。べつに無理に帰れとは言ってない。ちょっとだけ悪い気持ちになる。


 緑川はなにごとかをぼそぼそと話していた。いやたぶん普通に話していたのだろうけれど、微塵も興味がなかったのであたしの耳にはぼそぼそと聞こえたのだと思う。この男には不信感がある。もしかしたらもがみに近付くためにあたしとまず仲良くなろうとしているのかもしれない。


 空手部の部室前まで着いてきて、あまり無理しない方がいいよ、と言われた。もがみのことか? と聞くとやつはなにも言わず笑って帰って行った。


 今朝と同じくトレーニング用のジャージに着替える。今日は校内ランニングだ。あまり使われない部室や準備室がある新校舎の四階五階。ここを走る。階段昇降もあってわりときつい。


 ただ走るのは結構好きだ。誰とも争わず、勝ち負けなどなく、自分のペースで走るのが好きだ。いろいろと考え事ができる。


 今日のもがみのことを思い出す。もがみが暗い顔をしたこと、そのときの会話、あたしの態度。反省点は多い。あのとき――中学一年生のときにもらったもがみの温かさを、強さを、あたしも違う形であいつに返してやりたいと思う。だけど、毎日毎日、新しいものをもらうのはあたしの方だ。それがやりきれない。


 きりのいい周回数を終え、すこしだけ歩く。考え過ぎでペース配分を間違えたのか、すこし息が上がっている。もがみほどじゃないにしろ、あたしもハードトレーニングをしているのかもしれない。だが、この程度でも辛いのに、もがみはどうしてああなんだろう? 生き急いでるっていうか、むしろ――


「うん?」


 あたしは足と思考を止めた。廊下の隅になにか物体が蹲っている。見たところ制服ではないが、放課後だし、部活動の服とかを着ている可能性もある(演劇部とか)。ともあれ、その物体は中学生か小学校高学年くらいのようだったので、さすがのあたしと言えど心配になり声をかけた。


「おい、大丈夫か? どっか痛いのか?」


 あたしは怖いらしいから、努めて優しく声をかける。

 だがその感情は伝わらなかったのか、少女は振り向きあたしを見ると「ひっ」と怯えた表情を見せた。いまにも泣きそうだ。


「待て、大丈夫だ、落ち着け。ほーら、怖くないぞー」


 子供をあやすのは得意じゃないが、おもしろい顔を作ってみる。たぶんいろいろ間違っている。


「わー、馬鹿みたいです」


 ……馬鹿呼ばわりされたが警戒心は解けたらしかった。


「それで、こんなところでなにやってんだ? 一年生か?」


 中学一年生というならまだ迷うこともあるだろう。とくにこのへんは空き教室だったりあまり盛んでない部活の部室だったり、ほとんど使われない準備室や倉庫が多い。目当ての部屋に辿り着けず途方に暮れてもおかしくはない。


「いえ。先生はやじりひじりと言います。高等部一年一組の副担任です。担当は古文です」


 少女は立ち上がって九十度頭を下げた。そして「ふげっ」とまた廊下に崩れ落ちる。


「なんで叩くですか!」


「あ、ごめん。いつもの癖で」


 自分でも気付かないうちにチョップしてたらしい。


「叩くのが癖なんてだめなんですよ! そんなだから阿刀田さんは怖いって言われるです!」


「ああ? 誰が怖いって?」


「ひい!」


 あ、だめだ。ふつうに話してるだけで怖がられる。子供って難しいな。


「えっと、阿刀田って言った? あたしのこと知ってるの?」


「もちろんです! 阿刀田さんは我が校のスターですからね!」


「えーっと、鏑ちゃんだっけ? 先生? 娘さんかな……お父さんかお母さんか解らないけど、呼んでこようか?」


「だから私が先生だって言ってるです! ぐえっ」


 おっとまたチョップしてたみたいだ。気をつけないと。こんなんだからみんなに怖がられる、らしいし。


「えーん。今日は踏んだり蹴ったりなのですよー!」


 半べそで鏑先生の娘さん(?)は走って行った。かなり危なっかしい走りだったけど、これ以上あたしが対応しても怖がらせるだけだ。緑川あたりに遭遇することを切に願いつつ、あたしはランニングを再開した。

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