阿刀田傘の関節 2

「す、い、が、いいいいぃぃぃぃ!!」


 また訳の解らない奇声とともに背中にぬくもりを感じる。「お? おおおお?」あたしは言った。また顔がにやけるから、振り返らない。


「おーもがみ。……すいがい?」


 またなんか惚けてるな、こいつは。


「すいがい! おはよう!」


「あたしはすいがいじゃない」


「ほんとに? よかったあ」


 もがみは本気で安心した。もうこれが本気だって解る。こいつは圧倒的に馬鹿だから。


 どうにも離れそうにないのであたしはさらににやつく。その照れ隠しに痒くなった頭を気にした。もがみ以外のみんなはあたしたちからやや距離をとった。あたしが気持ち悪いことは自覚している。だけど、そんなのどうでもいい。あたしはもがみの両足を抱え上げた。


 そして考えた。もがみの考えそうなことくらいすぐに思いつく。……と言いたいところだが、あいにくこんな突飛な生物を理解するにはあたしの頭はまだまっとうだった。でも、ああ、水害ね。


「あーあれだ。解った。もがみあんた、今朝の新聞の記事見たんだろ」


「うん! でも、水害じゃないならよかった!」


「あー――」


 あたしはなにも悪くないが、悪かった気持ちになる。普通に会話してももがみに通じないことくらい解っている。あたしは空を見上げた。


「――土嚢をね、積むんだよ」


 だから大丈夫。ということを伝えたかった。だがこれも通じないことは目に見えている。「こうやって……」と、あたしも口下手だから言葉以外で表現しようとするが、あいにくあたしの手はいま、幸せを抱いていた。


「まあ家古いから、雨漏りくらいするけどね。床下浸水ってのは、最近はないな」


 とにかく安心させておくために言う。


「ふうん。そっかそっか」


 だがもうもがみの中では完結しているようで、聞いているのかいないのか……。


「ここ数年は雨量が減ってるんだって。その影響かな」


「そーだねー」


「……もがみ。もうどうでもよくなってるな」


「大丈夫ならいいのー」


 もがみも幸せそうに言ってくれる。あたしは今日も、この子を守れているだろうか? もがみをわずかでも幸福にできていることに喜びを感じ、だからこそそれを失うのが怖い。あたしから笑顔を消すほどに。

 それを感じ取ったのか、もがみはあたしの頭を撫でる。


「おい。撫でるな」


 やや過剰反応なほどに早く言葉が出た。だから刺々しくなっていないかと一瞬こわばるけれど、客観的に聞く限りむしろ甘々しい声だった。キモいからもがみにばれてませんように。


 特段の嫌悪はなかったようで、もがみはあたしの髪をいじくり始めた。手櫛で梳く。そして、たぶん三つ編み作ってる。嬉しいけど、恥ずかしい。


「おいもがみ、そろそろ降りろ」


 だからそれを隠すように、あたしは言った。自己嫌悪する。友達同士の冗談だとしても、もがみを否定するような言葉を吐くな、あたしの野郎。


「えー、あと五分」


 だけどもがみは気にしない。それが嬉しくて、またあたしは毒を吐く。


「寝るな。起きろ。三つ編みやめろ」


 言っても言っても離れないので、あたしはもう耐えられない。こんなに幸せなのに、素直になれない、あたし自身に耐えられない。


「さすがのあたしもちょっと疲れたぞ」


「がんばって」


 もがみが耳元で囁くので、もうあたしはどうにかなりそうだった。


「……もがみ太ったな」


「傘ちゃんか!」


 今日はこんな日らしい。おそらく朝、なにかあったのだろう。お母さんに「太った?」とか言われたんだろう。


 もがみは恐るべき反応速度であたしを突き飛ばす。一瞬拒絶が怖くなるが、むしろ我に返った。あたしが幸せになってどうする。あたしはこの子を幸せにするのだ。それを再確認する。


 どうせもがみは本気で追ってくる。だから走れ。このなんでもないじゃれ合いを演じろ。


「待てええぇぇ! 私の朝食にカロリーを入れたのは、おまえかああぁぁ!」


 幸い、あたしはもがみより足が速い。空手はなんとなくやっていただけで、そもそもあたしはスポーツ全般、万能だ。もがみも速いけれど、ぎりぎり走るのは、あたしのが速い。


 背中に感じる無限の距離に幸せを感じる。


 もがみが追いかけてくれるなら、あたしは常に、もがみより速く走ろう。




 とにかく荷物を置くために教室に入る。三年一組。全学年たった二クラスずつしかないのにもがみと同じクラスになったのは今年が初めてだった。だから、ちょっとこのクラスは気に入っている。


 教室に入る。そこにはひとり、先客がいた。もがみ以外のクラスメイトにさほど興味はなかったけれど、こんな早い時間に登校しているクラスメイトなど、そう多くない。だからこいつのことは覚えていた。


しとど。あたしがどこ行ったか、もがみには内緒な」


 言っていておかしかった。そもそもこいつはあたしがどこに行くか知らないだろうし、釘を刺さなくてもわざわざ喋ったりしないだろうし、そもそも誰がなにをも言わなくてももがみなら、あたしが部活の朝練に行っていることくらい容易に思い当たるだろう。さすがに、もがみとはいえ。


 鵐は見つめていた文庫本から顔をあげ「言わないよ」とあたしを見た。特別奇異な目でもなく、憐憫の情も感じられなかった。驚愕ですらない。


 もがみは人気者だ。このクラスだけでもない。同じ学年だけでもない。中等部なんていう規模ですらない。あたしは知っている。中高一貫のこの学校。その全校生徒の大多数が、久米方もがみというへんちくりんな生き物を好いている。男子生徒は特にな。


 だが、この鵐という男は大丈夫な気がする。いつもどこか遠くを見ていて、あたしたちのことなどには興味がなさそうだから。四十過ぎのおっさんが女子中学生を恋愛対象として見ないのと同じだ。どちらが上かは別として、こいつとあたしたちは住む世界が違う。そう感じさせるオーラがある。


 ともあれ、失言は気にするほどでもない。鵐の超越的な態度に感謝しつつ、あたしはまた駆け出した。




 空手部の部室に行く。トレーニング用のジャージに着替えて、あたしはまた走った。向かうのは新校舎と旧校舎との間にある体育館だ。


 体育館には誰もいなかった。当然だ。もとより部活動は活発ではない。そのうえ、朝練なんてやろうというやつらはほとんどいない。あたしはまず、柔軟を始める。


「相変わらず、やっこいな。阿刀田」


 あたしにすこし遅れて、誰かが朝練に来たらしい。誰かなんて見なくても解る。朝練をやるようなやつは多くて十人くらいだし、そのなかであたしに話しかけるのは、唯一同じ学年の、狒々原ひひはらしかいない。


「関節弛緩性は先天性のものだからな」


「神様のせいにすんじゃねーよ。おれが言ってるのは動的柔軟性の方だ」


 狒々原はにひひと笑い、あたしの横に腰を降ろす。真似はしないけれど、あたしと似たような柔軟を始めた。


「すごく小さいころに褒められたのが嬉しかったんだな。いま思うとあれが、あたしをスポーツの世界に送り出した言葉だったんだと思う」


「はあん」


 どうでもよさそうに狒々原は笑った。「いてて」と呟きながら、さらに体を大きく捻じる。もがみもたいがいだけど、こいつもこいつで、体の使い方が荒い。


「な。今日も勝負しよーぜ」


 にひひ。狒々原はまた笑う。それは作り笑顔の中では最上級だ。


 あたしはべつに、こいつのことを嫌っていない。むしろ人間不信なあたしからすれば好意の強い相手と言っていいだろう。そしてこれは推測だが、狒々原もあたしのことを同じように思っている。敵……というより好敵手かな。


「おまえ負けず嫌いなんだから、勝てるやつと走ればいいだろ」


「はあ? それってつまり、負けってことじゃねーか」


「あたしには勝てないよ」


 ただ走るだけでも、やる以上負けられない。あたしにはもがみの笑顔を守る使命があるのだ。


「久米方もがみにはもう勝ったんだぜー。あとはてめえだけだ」


「な……もがみが負けるわけないもん!」


「もん?」


 おっと、つい変な語尾が出た。あたしとしたことが。


 しかし、数日前までもがみの方が速かったはずだけれど、いつのまに勝ったのだろう? いや、それ以前に、あたしの知らないところでもがみと走ってるなんて、妬ましい。


「はっはー。ほんと、いい顔するようになったよね。阿刀田」


「はあ?」


「いやだって、おまえ一年のころとかだいぶささくれだってたろ?」


「…………!!」


 黒歴史だ。やめてくれ。


「というかあたしってもしかして、怖い?」


「うーん。……めっちゃ!」


 めっちゃいい笑顔で狒々原は言った。作り笑いじゃない、百点満点だ。それをなぜいま?


「いいよ。走ろうか」


 柔軟を終え、立ち上る。もがみが編んでくれた三つ編みが揺れるので、あたしはそれにそっと触れた。


 あたしは燃える。もがみが負けた以上、なおさら全力で勝たないと。




 結果から言うと、あたしは勝った。


 負けるわけがない。一年生のときとは違う傲慢を自覚する。総毛立つ、怒りのようなものじゃない。冷や汗の流れる、神経の逆立つ誇りだ。


「くっそー、負けた―」


 狒々原はグランドに寝転がり言った。


「全然悔しそうじゃないな」


「悔しいよー。でもべつに勝ち負けにこだわってないしー」


 笑顔で地面を叩く姿は、どこかもがみに似ている。


「おれはよ、誰かと競うのが好きなのさ。競う以上は勝つつもりだし、勝てなきゃ悔しい。でもピークは経過なの。結果じゃない」


 言うと立ち上がり、空を見上げた。あたしもそれに倣う。空は、まばらに雲が飛ぶだけの夏晴れだった。


「お……」


 狒々原は鼻をぴくぴく動かす。


「どうした?」


「いや……」


 どこか遠い目になる。その表情はなにかを心配しているときの、もがみみたいな顔だった。


「雨、降りそうだなって」


「雨?」


 あたしはよくよく空を見る。もし人生で出掛けるとき、この空を百回見上げたなら、百回とも傘を持っていこうなどとは考えないだろう。すくなくともそれくらいの晴れ空だった。遠くの空まで目を伸ばしても、雲なんてほとんどない。


「いんや……。気のせいかな。負け惜しみだよ」


 にひひ。と笑う。


 こいつはもがみみたいに笑って、誤魔化せると思っているのだろうか? 先に帰っていく背中を見送り、あたしはもう一度、空を見上げる。感じる暑さよりもずっと弱い光が、瞳孔を刺した。


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