阿刀田傘の関節
阿刀田傘の関節 1
七月二日(火曜日)
目を覚ますと、まず考えることがある。あの子のこと。
あたしが中等部一年のとき、所属していた空手部の全国大会でのことだ。うちの学校は文武共に部活動が盛んじゃなかった。だからあたしが全国のベスト16に入った段階で、学校をあげての応援が始まった。会場が隣の県だったという要因もあるだろう。しかし、その学校側の盛り上がりとは裏腹に、それに付き合わされる生徒たちには不満も多かったようだ。そりゃそうだろうよ。あたしだって興味もないやつが興味のない競技に興じているのをわざわざ見に行きたいなんて思わない。休日返上で。ほぼ強制参加だっていうんだから、不満なんて出ない方がおかしいだろう。
強制とは名ばかりの強制であったけれど、なんと全校生徒の二割が集まったらしい。よく集まった方だと思う。学校側も送迎や宿泊費用のすべてを出せなかった。というより、出すほどではなかったのだろう。なので実質、保護者の完全負担だ。当時はなんとも思わなかったけれど、いまにして申し訳ないと思う。あたしが強すぎたばかりに、こんな顛末で。
だが、己の無力さを文字通りに痛感するには、そんな時間すら必要なかった。あたしが強すぎるなんて、ちゃんちゃらおかしい。
それは学校側の応援が二割から一割に減った、全国大会での決勝でのこと。試合前、あたしの控室には学校の校長、教頭、担任、生徒会長、クラス委員など、学校全体やあたしのクラスの代表者らしきやつらが押しかけていた。そのこと自体は素直に嬉しかった。試合前の緊張感のあるときに好き勝手祭り上げるのには癪に障ったが、まああたしは冷めてる方だし、あたしでも期待されることがあることが嬉しかったのだ。その一団の中に、久米方もがみがいた。
じゃあがんばれよ。とか。平常心だ。とか。とにかく全力で楽しんできなさい。とか。どこにでもある激励を置いて帰る一団を「うす」とにこりともせずに見送った。それでもあいつらは笑顔だった。試合前のナイーブな精神状況を慮ったのかもしれないが、べつにあたしは緊張していなかった。
「ふう」
と声に出してため息をつく。あいつらはどうして他人事であれだけ盛り上がれるのだろう? そう思った。
「かーさーちゃんっ!」
「お? おおおお?」
惚けた声が出た。正直幽霊かと思った。心底驚いた。だがあたしはどうにも感情が薄いらしい。
「誰だ?」
声がした、衝撃を受けた、背後を顧みる。
「久米方もがみ!」
抱き付いた腕を離し、もがみはあたしの正面に周った。なんでか知らんけどめっちゃ笑顔だった。さっきの一団のひねり出したような笑顔を全部足して倍にしたくらい笑顔だった。
「あー、えっと。同じクラスの?」
「違う! お隣のクラス! 出席番号九番! 久米方もがみ!」
よく解らない生命体だった。特段の興味はないけれど、隣のクラスの委員長は知っていたし、その委員長とやらはこいつではない。なればこいつは一般生徒だ。なにしに来たんだろう?
「えっと、なにか用?」
「先生が『久米方さんは黙っててね。おとなしくよ』って言うから黙ってたの! えらい!」
「はあ……」
なぜだか恐縮する。もがみの圧におされる。
「だから
「それで、なんの話を?」
「うーん?」
久米方もがみは首を捻った。
「とくに!」
……いちおう間を持ったが、続かなかった。『とくに! (なにもない)』らしい。
するとなんだか腹が立ってきた。ここまで持ち上げられた傲慢もあるだろう。試合前の緊張も多少はあったのかもしれない。なにより阿呆みたいに笑い続ける生命体が目に余ったのだ。
「あの、用がないなら出てってくれないか?」
それでも柔らかく言う。発散したら止まらない気がした。
「え? なんで?」
もがみは言う。なんで? おまえは理由がないのにここに居座るつもりなのか? そっちの方が『なんで?』だろう。
「あのね! 傘ちゃんすごいんだよ! 学校始まって以来の快挙なんだよ!」
「知ってる。でも興味ない」
「なんで!?」
だから「なんで!?」じゃない。おまえがなんなんだ?
「すごいんだよ! みんな応援してるよ!」
「みんなって誰だよ」
あ、だめだ。って思った。このままこいつと話してたら、あたし
みんなって誰だ? あの一割のやつらか? それとも最初に来ていた二割? 全校生徒? 荒ぶる感情をため息で吐き出して、そんなことを考える。本当にあたしを応援しているのは誰だ?
そんなやつはいやしない。そして、べつにそれでいい。好きで空手やってるわけじゃない。勝ちたいとも思っていない。
持ち上げられるのがわずかに悔しい。あたしは勝たなきゃ価値がないのか? これまで煙たがられていたあたしを、応援するやつらの気がしれない。学校の箔になるから? それを画策する先生にたぶらかされたから? そして終わったらあたしはなにごともなかったみたいに、またみんなに避けられる。あたしだってべつに、好きで強く生まれたんじゃない。
「――とか。……あと、私!」
久米方もがみはなにごとかを話していた。それは回帰してみるに、おそらく人名の羅列だった。知っている名前がいくつかあった気がするが、ほとんどが知らない名前だった。そしてその数は、全校生徒の一割をゆうに超えていた。
馬鹿らしいと思った。いま応援に残っているやつらならいざ知らず、他のやつらが得にもならないのにあたしを応援するなんて、本当だとしたら馬鹿らしい。だからいっそ清々しくなる。棄権しようかな。などと、本気で考える。まあ、さすがにやらないけれど。
「じゃ、私、席に戻るから」
神輿を担ぐことに満足したのか、久米方もがみは笑顔で言って、そそくさと帰って行った。
「勝とうね。傘ちゃん」
ドアが閉まる直前に、そう聞こえた気がした。
勝とうね? 「勝ってね」じゃなくて?
結果から言うと、あたしは負けた。正直負けてやろうという気持ちはあった。だが、言い訳はしない。気持ちはなくても体は最善に動かしたつもりだ。相手の方が上手だったのだろう。
応援席は沈んでいた。だが、対戦相手の応援席、その他諸々の野次馬たちの歓声に埋もれて、むしろ安堵に包まれている気さえした。ここまでやれただけで十分だ。全国で二位、素晴らしい結果じゃないか。勝ち負けよりもがんばった事実の方が大切なんだ。そんな諦観を含んでいるようだった。ただひとりを除いては。
「――――!!」
その訳の解らない生命体は泣いていた。人目もはばからず、慰めの言葉も押し退けて、泣いていた。フロアから見上げる。遠くてなにを言っているか解らない。なのに解った。「なんで負けたの?」「こんなのおかしいよ」「傘ちゃんの勝ちだもん」「だって傘ちゃんの方が強いもん」馬鹿らしい。
そう思った。本心だ。なのにどうして涙が出るのだろう。
あたしは勝ちたいなんて思ったことはない。負けてもいいと思ってた。たいした練習もしていない。負けて当然。むしろ勝つ方が失礼だ。そう思ってた。その気持ちは変わらない。だけど。
もらい泣きって言うのだろう。試合に負けたことに感慨などない。本当にまったく、微塵もない。だけど。あたしは思った。
精一杯やらなかったこと。勝ちたいと思わなかったこと。なにより、あいつの応援を無下にしてしまったこと。それに吐き気をもよおすほどに後悔した。立っていられないくらいに後悔した。声が出ないくらいに泣いた。
この瞬間……というわけでもないけれど、それからひと月経つころにはあたしは、もう覚悟していた。この久米方もがみという謎の生命体の笑顔を守るためなら、あたしは誰よりも強くなろう。と。
中学二年生の夏。再度の全国大会を圧倒的な強さで優勝したのは、たぶん、その年ももがみが応援に来ていたからだ。
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