久米方もがみの瞳 4
いつも別れる石段の前で別れると、ふと雨が降ってきた。とうとう梅雨がやってきたのかと振り返ると、傘ちゃんはもういなかった。それはゆっくり歩いていても十分に見えなくなる時間の経過後だった。それでも、私は言い表せない不安のようなものに憑りつかれる。水害、ではないと思う。心配したのはもっと大きな、解らないなにか。
それでも帰るしかなかった。追いかければ追いつけただろう。それでも今日はこのまま別れた方がいい気がした。私は走る。
雨はすぐに止んだ。空は暗かったけれど、日が暮れたせいなのか雲のせいなのか解らない時間になっていた。水たまりを見かけるたびに心臓の音が聞こえた。きっと暗くなってひとりになって、心細いだけだと言い聞かせた。走る。走る。走る。
時雨と汗が半々に体を濡らしたころ、帰宅できた。玄関に近付くとセンサーが反応してライトが点く。それは自動的なものなのにやけに安心できた。
「ただいま!」
だから元気が出る。私は久米方もがみらしく元気になる。不安はやっぱり、気のせいだったと、すくなくともそう思うことにする。
「おかえりなさい、もがみ。雨は大丈夫だった?」
お母さんがリビングから顔を出した。私は「大丈夫!」と元気よく答え、玄関先に腰を降ろす。スニーカーの靴ひもを解く。今日も一日、ありがとう!
「ごはんもうできるけど、先にお風呂入る?」
顔はもう引っ込んだけれど、さほど変わらない位置から声が聞こえた。
「お父さんは?」
「今日は遅くなりそう」
「じゃあ先に食べる」
「着替えてらっしゃい」
私は部屋に赴く。電気の消えた階段が、今日はなんだか怖く感じたので、電気を点ける。部屋に入る前にすこしだけドアを開けて、手だけを入れる。照明を点ける。そうやって部屋に入った。
夜は嫌い。世界が静かで、冷たくなった気がするから。
動悸が続いていた。傘ちゃんと帰っていたとき、別れて家に着くまで、なんとなく感じていた心臓の音が、まだ鳴り止まない。着替えて落ち着けば治まるだろうと思っていたけれど、あてが外れた。
「もがみ。顔赤くない?」
「傘ちゃんにも言われた。たぶん夕日だよ」
「あ、日焼け?」
私もおかしい自覚あるけれど、お母さんもたいがいだ。
お母さんは夕ご飯越しに手を伸ばしてくる。私は咥え箸をしながらそれをおでこで受けた。
「熱は……ないかな……うーん」
「どっち?」
「微妙」
お母さんがあてにならないので自分で確認してみる。……べつに大丈夫な気がした。食後に体温計も使ってみたけど平熱だった。念のためお風呂に入った後早めに寝ることにした。床に就いたのは午後九時半のことだ。
「うーん」
唸ってみる。ひとり暗い部屋にいるといろいろと考えてしまう。普段は眠くなったら寝る。眠くならないうちは起きてる。って感じだったから、ベッドの上で起きている時間がほとんどないのだ。
今日も一日、生き抜いた。私はがんばったし、たくさんのことを学んだ。走ったし。疲れていて、眠い気はするのだけれど、眠れない。
時計の秒針の音。壁についたシミ。かすかに残る私の匂い。世界が正気を失ったかのような薄暗がりの中でなんでもないことを考える。今日あったことを反芻する。今日だけじゃない、これまでのすべてを。心臓の音に耳を傾ける。いつのまにか動悸は収まっている、気がする。わずかなノイズが耳に障る。だけどそのうるささが『ここにいるよ』と囁いているようで、私はやがて、眠りに落ちた。
そしてすべてが変容する、七月三日がやってきた。
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