久米方もがみの瞳 3
放課後。生き急いでみると、転校生ちゃんはいなかった。
「よー久米方もがみ。今日はなにやってんだ?」
「
お隣三年二組の美々実ちゃん。趣味は走ることと変態観察(自称)。この学校の中等部で私より足が速いのは傘ちゃんとこの美々実ちゃんだけだ。
「あー、噂の転校生を見にきたのか、久米方もがみ。あいにくだがもう帰ったぜー」
にひひ。と美々実ちゃんは笑う。
「帰った? なんで?」
「授業が終わったからじゃね?」
「そっか! そりゃそうだ! さすが美々実ちゃん!」
「じゃーおれ、部活あっから」
「今日はどこまで走るの?」
「月まで」
「さすが美々実ちゃん!」
美々実ちゃんはすっごくすごいのだ!
それから部活に行くという美々実ちゃんを見送り、三年二組の皆様にわちゃくちゃにされ、暇になった。うーん。傘ちゃんの部活が終わるまで、あと一時間はありそう。
顎に手を当て、首を捻りつつ歩いていると、高等部のクラスのあたりにまで達していた。
校内をあてどなく彷徨う。首を傾げて考えてみる。考えているうちに、首が痛くなって、じゃあ逆方向に傾けたら痛みもひくのではないかとかくだらないことを考え始める。そしたらそもそもの生活環境、習慣、食事もなにもかも疑ってしまう。疑い始めたらきりがなく、どこまでいっても思考が終わらない。
「なんか。疲れた」
愚痴をこぼしてみる。いつも元気な久米方もがみも、疲れることくらいある。疲れたら立ち止まる。頭をからっぽにして、座り込んで、寝転んで、空を見上げて、寝る。人体は休まなければならないようにできている。
「なにをやっているの? 久米方さん」
見上げると、子供みたいな大人が私を見下ろしていた。
「
「『ちゃん』じゃなくて『先生』です。廊下の真ん中で寝ないでください」
鏑ちゃんがしゃがみこむので顔が近くなる。近付くとなおさら子供みたい。お肌がぷるっぷる。鏑ちゃんの授業を受けたことがないから、私はいまだに、鏑ちゃんは中学一年生だと思っている。
私は転がる。一回転半で壁にぶつかり止まる。俯せる。腰の痛みを伸びで和らげる。寝転がるって最高。
「真ん中が悪いんじゃないです! 廊下に寝るのをやめるって言ってるです!」
すり足で転がった私を追いかけて、追いついた鏑ちゃんが、そう言いながら私の後頭部を叩いた。虐待だ。
「でも鏑ちゃん、疲れたー」
「だからって廊下はだめです。保健室とかあるでしょ」
「こんな満身創痍な生徒を捕まえて、保健室まで歩けと? そんなんだから鏑ちゃんはいつまでたっても中学生なんだよ」
「先生は大人です! 今年で三十歳なんですよ!」
「わわっ、噂に名高き三十路だ!」
「そうなんです……。もう三十路なんです……」
なぜか鏑ちゃんはうなだれた。いまにも倒れそうな黒いオーラを放ち始める。
私の疲れが鏑ちゃんに移ったのか、私自身は元気になってくる。風邪は人に移したら治るというけれど、倦怠もそうなのかもしれない。まだ覚束ない足取りだけれど、私はまたどこかへ歩き始める。鏑ちゃんは……まあ大人だから放っておいても大丈夫だろう。
廊下の隅にうずくまる少女を残して、私はどこか空き教室がないか探し始めた。
表札のない教室を見つけた。五階建ての校舎の四階、その隅の方だった。ここはたしかに、中等部のクラスがある一帯からは遠い。それにしても、校内に知らない場所があるとは驚きだった。旧校舎ならいざ知らず。
「失礼……します?」
そこに人がいるかどうか、確認しながら入ってみる。外から見ても暗かったが、教室内に入ってみるとやっぱり暗かった。電気は点いていないらしい。私は手探りでスイッチを探す。
「悪いが電気は点けないでくれ」
奥の方から声が聞こえた。驚いて背筋が伸びた。
声の方を覗いてみると、明るい区画がある。そこには輝く半分の生首が浮いていた。
「わー! 幽霊!」
初めて見た! なんか元気出てきた!
幽霊はなにも応えない。私はゆっくりと生首に近付いた。近付くにつれ、カタカタという音が耳に障り始める。ポルターガイスト?
慎重に近付いて、その距離が三メートルほどになったころ、件のカタカタがふと止まる。半分だった生首が全部になって、目が合った。その顔は、どこかで見たことのある顔つきだった。
「久米方……もがみか?」
「私を知っているの?」
「……いちおうな」
言うと生首はまた半分になって、カタカタが再開される。ポルターガイストじゃないっぽい。その雰囲気は『これ以上近付くな』という意思を体現しているようで、私はどうしていいか解らなくなった。仕方ないので近くにあった席に腰を降ろす。疲れていたことを思い出し、暗いせいか眠気も襲ってきた。
「……なにか用か?」
「うーん?」
ちょっとうとうとし始めたころ、生首が言った。顔は相変わらず半分だし、カタカタも止まらぬまま。
「とくに」
私は答える。すこし欠伸を漏らす。眠っていなくてよかった。眠ってしまったら傘ちゃんとの待ち合わせまでに起きれる自信がない。
「生首さんはこんなところでなにやってるの?」
眠ってはいけない、だから私は会話することにした。あと三十分くらいだろう。がんばって起きていないと。
カタカタが止まって、鼻を鳴らすような音。半分が全部になって、やがて生首は消えた。その場所に次に見えたのは、男子生徒の制服だった。それもやがて消えて、教室の一部が照らされる。誰かが歩く音。
「暇してただけだ」
声の位置はややずれて、その直後に世界が明転する。するとそこにいきなり男子生徒が現れた。その顔と目が合う。その顔立ちはさっきの生首に似ていたし、どこかで見た気がする顔だった。
「あ、ああぁぁ!」
私は指差す。思い出したのだ。
「
そうだ。見たことがある。どこで見たんだったか、むしろ誰なのか知らないけれど、見たことがある。
「君は俺を知っているのか?」
「知らない! でも知ってる!」
名前は思い出せたんだけど、はて、私はこの先輩をどこで見かけたんだっけか? 名前も知っているというのならただすれ違っただけじゃないとは思うのだけれど。しかもたぶん、有名人だ。じゃなきゃ名前を思い出したくらいで叫ばない、さすがに。
木児くんは肩を竦めてため息をつくと、腰を降ろした。その席はさきほどまで生首がいたあたりに近かった。……ああ、さっきの生首は木児くんだったのか。どうやらノートパソコンが置かれている。その液晶からの光を受けて首が浮いていたのだ。
私は木児くんに寄る。カタカタが再開されている。このカタカタもキーボードを叩く音だったらしい。
「木児くん、ここでなにしてるの?」
お隣の席に腰を降ろす。木児くんは椅子を机に向かって九十度傾けていて、体幹を歪めそうな姿勢でキーボードを叩いている。ほとんど手元も液晶も見ている様子はなかった。
「言ったろう。暇してるんだ」
「暇してるって変な言葉だよね!」
「そうだな」
簡潔に言うと、木児くんは肩肘をついた。キーボードは片手で叩き続けている。肘をついた方の手は襟元に向けられた。制服のシャツの窮屈そうに閉じられた第一ボタンあたりに指を引っ掛ける。息苦しいのかもしれない。
この木児という先輩のことが思い出せそうで思い出せないから、どうにも言葉が出てこない。手持無沙汰にパソコンの液晶を眺めてみるに、本当に暇そうな映像が流れていた。たぶん意味はあるのだろうけれど私には解らない。ただ文字――たぶん英語がつらつら綴られているだけ。……日記かな?
画面を見ていても眠くなりそうなので別の場所を見分してみる。木児くんは傾けた椅子に座っているので私とは体だけ向かい合う形だ。肘をついた左手首にはずり落ちた長袖の裾から腕時計が覗いている。ときどき口がもごもごしている。パソコンの置かれた机を見ると、アメちゃんがいくつか転がっていた。包装紙の色はいくつかあるけれど形や柄を見る限り同じメーカーのアメだろう。
「木児くんそのアメ好きなの?」
「普通だ」
「一個ちょうだい」
言うと木児くんは一瞬そのアメを見た。すこし遅れてキーボードを叩く音が止む。
「もし、やると言ったらどの色がいい?」
木児くんは言う。色? べつにどれでもいいけれど。赤。青。緑。橙。紫。見たところ五種類だ。きっと味が違うんだろう。
「赤」
言うと、木児くんは赤いアメちゃんをひとつ抓んで、自身の手のひらで転がした。それをすこしばかり見つめたあと「ほら」と私に差し出した。私はそれを両手で受け取る。
「……ありがとう?」
「ん」
なんだか神妙な行動に戸惑う。本当にもらっていいものだったのだろうか? もしかしたら大切なアメちゃんだったかもしれない。そんな雰囲気が木児くんにはあった。
さっきまで横目で見るでもなく見ていたパソコンの液晶に、木児くんはすこし向かい合った。そしてキーボードをまた叩き始める。まだ片手だった。変わらず左手は首元を気にしている。暑いのかな?
「じゃあ、私もう行かなきゃ」
そろそろ教室に戻った方がいいだろう。傘ちゃんも部活が終わりそうな時間だし。
「そうか」
と木児くんは言う。私の方を見向きもせずに。キーボードの音も止まらずに。
私は立ち上がり、ドアの方へ向く。そこでふと思い出した。もう一度木児くんに向き直る。
「木児くんのおうちは、水害大丈夫?」
「俺の家はこの高台にあるからな」
「じゃあ近いんだね」
「そうだな」
木児くんの言葉は短かった。でも、拒絶されている感じはしない。不思議。お父さんみたい。
私はもらったアメちゃんを口に放り込み、再度踵を返す。
「俺はいつでもここにいるから」
私がドアに手をかけると、背後から木児くんが言った。
「また来ればいい。アメくらいならやるよ」
振り返ってみると、木児くんはいつのまにか両手でキーボードを叩いていた。
「おもいらひた!」
「……なにをだ?」
傘ちゃんと一緒の帰り道。駄菓子屋で買ったイカの干物? みたいなのを咥えていたらふと思い出した。
「傘ちゃん! 高三の木児くんって知ってるでしょ!?」
「知らん。誰だ?」
「なんで知らないの! 有名人だよ!」
「寡聞にして知らん。だから誰だ?」
「なんか知らないけど有名なんだよ! いつだったか表彰されてた!」
「表彰? ……あー、解った。たぶんパソコン関係の人だよ」
「そうそう! パソコンの人!」
なるほど。だからさっきもパソコン叩いてたんだ。傘ちゃんの言葉に納得する。
「で、その木児という先輩がなんだって?」
「アメちゃんもらった!」
ポケットに残ってた包装紙を見せるとチョップされた。
「痛いよ!」
「だろうな」
「なんで叩いたの! 私はパソコンじゃない!」
「知らんやつから食い物もらうなっていつも言ってるだろ」
「知ってる人だもん! 有名人だもん! 傘ちゃんお母さんみたい! 愛と一緒にカロリー入れるな!」
思いつくことを思いつくだけ言ってみた。疲れた。
「なんかやけに元気だな。心なしか頬も赤いぞ? 大丈夫か?」
傘ちゃんが心配そうな顔で見つめてくる。お昼休みのときみたいな心配そうな顔。過ってスマートフォンを落としてしまったときみたいな顔。
「だ、」
だから一瞬、言葉に詰まる。
「大丈夫! 久米方もがみはとっても元気! 今日は一日、いいお天気だったしね!」
空を見上げる。まだ柔らかい夕空。今朝より雲の量が多い気はするけれど、それでも曇りというにも足りないくらいだろう。
「たぶん夕日が染めてるだけだよ。むしろいつも以上に元気な気がする」
私は言った。言葉に偽りはない。なんだか妙な高揚感があるのだ。
「なら、いいけど。……もがみは元気すぎるから、逆に心配になるんだよ。……無理してんじゃないかって」
「そんなことないよ? 私だって寝るときもあるし、倒れることもある」
「普通、人間は倒れるまで働かない」
「私、加減って苦手だからなあ」
「そうだな。おまえはそういうやつだ」
やっぱり傘ちゃんは俯く。それは私が悪いのだとは思う。ただ元気でいるだけでも、一所懸命でいるだけでもだめなんだ。私が私らしく私でいるだけでは、傘ちゃんはずっとなにかを抱えたままなんだ。
「傘ちゃん」
「なんだ?」
「今日傘ちゃんち行っていい?」
私が傘ちゃんのその悲しみを消すためになにができるか解らない。解ったところでそれが可能かも。だけど、諦めたくはない。だからもっともっと、時間が必要だ。傘ちゃんと共にする時間が。
「悪いな……今日は家の手伝いがある」
傘ちゃんは極めて悪そうに言った。その笑顔は困ったように淋しそうだったけれど、さっきまでの暗さはなかった。今日は、だから大丈夫。このまま別れても、大丈夫だと思った。
私は知っていたはずだ。この世界に明日が必ずやってくる保障などないことを。
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