第17話

『紗月はやっぱり失敗作ね。万引きなんて犯罪じゃないの!その上親を騙して男と同棲なんかして…。あなたなんかもう、要らない。』

『万引きすらも家族のせいか?随分都合の良い話だな。誰が今まで育ててきてやったと思ってるんだ。まったく、お父さんやお母さんの言うことだけ聞いていればいいものの…。』

『ここまで最低だと思わなかった。お姉ちゃんのこと、一瞬でも心配した私が馬鹿だったね。』


 温度の無い、詰る声。それに同調するように、私の体温までもが抜かれていく。指先の感覚はもう、無かった。目の前がどんどんと暗くなる。こめかみの部分がガンガンと衝撃を立てて、平衡感覚がおかしくなりそうだ。呼吸さえ、もう、どうやっていたのか分からない。

 やっぱり私なんて、いない方が良いのだろう。知っていたはずなのに、怜君の熱に触れて、ひとりで微睡んで、すっかり忘れていた。私は、最初から何の価値もない人間だった。


「紗月ちゃん?」


 優しく頬に触れた誰かの手。指の腹は温かく、本当に触れるだけのものだった。

 覚醒する意識の中で、心配そうに覗き込む怜君の眼差しすらも、まだおぼろげだった。どうしたものか―――と窓を見やれば、まだ空は薄暗いことに気が付いた。

 ああ、悪夢に魘されていたみたいだ。全身に汗をかいているけれど、これは夏の所為なんかじゃない。小さく震える手がそれを示している。たかが夢にここまで脅えるなんて、自分の弱さがつくづく嫌になった。

 薄暗い光に晒されている怜君の瞳は鮮やかながらも柔らかい茶色で、透明度の高さに引き込まれそうだ。睫毛の影まで美しい。


「…えと、嫌な夢、見て。」

「何が怖かったの?教えて。」


 するり、するり、と、私の頬を撫ぜる手付きは嫋やかで、その手付きの柔らかさに思わず私から頬を擦り付けそうになってしまう。彼は誘導するのが巧い。あまりの心地よさに、目を瞑りながら、ひとつ、答えた。


「―――価値がない、と思われること。家族には、もう呆れられるところまで呆れられて、どうしようもないやつだって思われているのを知ってるのに、またさらに期待を裏切ってしまうのが怖いみたい。」

「うん、そう思うのは仕方ないよ。紗月ちゃんは今までずっとその恐怖と隣合せで生きてきたから、まだ慣れないんだと思う。でもね、もう大丈夫。」


 何が、いったい大丈夫なのか。そんなことを聞くのは、野暮だと思えた。


「僕がそばにいるから、絶対一緒にいるから、少しずつ慣れていこう。ね?」


 まるで私の不安を消してしまうように、にっこりと怜君は微笑んでみせると、自身の額を私の額にこつん、と合わせる。起き抜けの頭ながら至近距離に慌てたけれど、怜君は余裕そうにこちらを見つめている。

 怜君の私の頬を撫ぜる手が、いつのまにか髪を撫ぜ、そのまま後頭部を支えている。

 怖くなんかないよ、と、言葉が落とされると、鼻先に怜君の唇が触れた。


「今日、花火しようね。」

「…うん、ありがとう。」

「じゃあもう一眠りしとこうか。まだ起きるには早すぎる時間だ。」


 ふたつ私の頭をポンポンと優しく叩くと、怜君は再び眠りにつく体勢に入った。

 カーテンの隙間からは、まだ灰色がかった光が少し、顔を覗かせている。新聞屋さんがバイクで走る音は、かすかに心地よいとさえ思った。

 私は、先ほどの行為がまだ熱を帯びていてうまく寝付けなかったけれど、怜君の言うとおりだ、と無理矢理に寝付いた。




 怜君が、帰ってすぐに花火を出来るようにと、午後5時にアパートを出発した。徒歩でもそんなに時間のかかる距離ではないけれど、念には念を、だ。こっそりと家出をしてまだ1ヶ月ほどしか経っていないというのに、自宅までの道が久しぶりに感じた。見つからないようにと、周辺に近寄らないようにしていたせいもあるかもしれない。どんどんと家が近付くにつれ、鼓動が速胸打つ。見慣れた風景。本来ならば何も怖がる必要なんてないのに。出発時には冗談も言えていたくせに、すっかり黙り込んでしまった私に、怜君が私の手をぎゅっと握ってくれる。大丈夫だよ、僕がいるから。まるで子守唄のように何度もその言葉を聞かせてくれる。

 夏ど真ん中だというのに、指の先が冷たい。きっと怜君も気付いているだろうけど、怜君はそんなことは言わない。


「…あ、あそこ、だよ。」


 到着してしまった、と背筋が少し震えた。

 家の前まで着くと、昨日ぶり、由利に電話を掛ける。待ってましたと言わんばかりに、息もつかぬ間で電話に出た由利は「どこ?」と慌てた口調でそう言った。ばたばた、と携帯の向こう側で遽しい音が聞こえる。そうしているうちに、神妙な顔つきの由利は玄関から飛び出て来て、思わずその勢いに少し笑ってしまった。

 こちらを見つけるや否やパタパタと駆け寄る由利。まさか既に到着しているとは思っていなかったのか、走りにくそうなサンダルを履いていた。

 あ、爪先が、綺麗な紺だ。どうでもいいことに気付く。


「何笑ってるの…!こっちはずっと心配してたのに!」

「ううん、ごめんね。ずっと携帯見てなくって。」

「そうだよ、連絡も待ってたのに既読もつかないし…。あのね私あの日お姉ちゃんが出ていくときに窓の外から二人が歩いて行ってるの見てたの。その時は彼氏だったんだ、なんて思ってたのに、突然お母さんがすごい顔して『紗月は合宿にいってなかった』とか言い出して。」

「そうだったんだ…。」

「でもお母さん何も教えてくれないし。お父さんなんて知ってるかどうかもわかんない。びっくりしたし、正直この人に悪いこと吹き込まれて家出しちゃったのかと思ったもん。」

「まあ、あながち間違いではないかな。」


 息巻いて話す由利に、余裕しかない怜君がそう返事する。なんだ?この人。と言わんばかりの視線を怜君にやる由利。どうしてか私がハラハラしてしまう。随分と奇妙な組み合わせだ。


「…由利、今から説明するから。お母さんは家にいるよね?あ…それと、警察に捜索届とか、学校に何か言ったりとかしてなさそうだった?」

「ああ、お母さんのことだからそれはないかな。誰よりも体裁を気にする人だし。お母さんもお父さんも今いるよ。」

「そうなんだ…あ、この男の人は…、前も紹介はしたけど、怜君。同級生で…、彼氏なの。由利が心配するような悪い人ではないから安心して。じゃあ、ちょっとお母さんたちに話をしてみる。由利、本当ありがとう。」


 ”彼氏”と紹介したのは私だというのに、違和感しかなくて眉をしかめそうになった。体がこそばゆい。こうして自分から紹介するのは初めてだ。

 お姉ちゃん、と由利が私の肩を掴んだ。睫毛が綺麗にセパレートされ、くるりと上を向いている。アイシャドウはブラウンの中からラメが何色にもきらめいている。きっと由利は綺麗になるための努力をしてきているのだろうと、今更ながら思った。


「ねえ、なんでそんなにごめんとかありがとうとか言うの?心配して当たり前だし、私だってお姉ちゃんの気持ちはわかるよ。…謝られる方が疎外感あって、逆にやだ。」

「…なんかね、今まで由利に嫌われてると思ってたの。でも、そう言ってくれて、ありがとう。この前さ、由利が私の黒髪をださいって言ったじゃない。今茶色に染めてみたんだけど、どうかな?変わろうってきっかけをくれたのは、由利だよ。」

「茶色の方が良い!それに、なんか雰囲気も変わった気がする。ああ、でもとりあえず良かった!早くお母さんたちと仲直りして家に帰ってきてよ。」

「そうだね、騙して家を出たのは事実だから、そこは謝らないと…。」


 すっかり深く話し込んでしまった私たちとは対照的に、怜君は退屈そうに大きな欠伸をしていた。自分の恋人が、自分の行動で今こういう状況に陥っているというのに。いやまあ、犯罪者の私が何も言える立場ではないのだけど。

 どうぞ、と由利が怜君を招き入れると、お辞儀をしながら玄関に入った。久しぶりの我が家の香り。母が気に入っている金木犀の芳香剤が、靴箱の上に置かれている。この間まで、毎日嗅いでいた香り。目を瞑ると、顔を歪めて私を罵倒する母の顔が見えたような気がしたけれど、大丈夫、と言い聞かせるように深呼吸をして、怜君と目を合わせる。うん、と頷く怜君に合わせるように私も頷くと、リビングのドアを開けた。

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