第16話

「ねえ、夏と言えば花火じゃない?」


 残り15日ほど、課題を終えた私たちは時間を持て余していた。様々な面を考慮し安易に外出できず、かといってこの部屋で何か時間がつぶれるほどの施設が充実しているわけではないからだ。

そうしたところ、怜君が先ほどの言葉を放った。確かにまだ今年一度も花火は見ていないし、していない。悩みに悩んだ今日のイベントは、暗くなってから近所の公園で決行する運びとなった。花火は怜君が食料品の買出しついでに買ってくれると言う。

 行ってきまーす、と気合十分な怜君を見送り、待ち時間は何をして時間を潰そうか考える。掃除なんていいかもしれない。だって、もう残り2週間だ。きっとこの部屋は夏休みが終わると同時に引き払ってしまうのだろう、必要最低限のものだけ揃えられた家具や雑貨がそれを語る。そういうことで、掃除のスイッチが入ったはいいものの、さあ掃除機!雑巾!使用済みの歯ブラシ!となったところで、肝心の掃除に使える用品がいっさい無いことに気が付いてしまった。

 怜君は確か携帯を持って出て行った気がする。自分の携帯を取り出して、登録だけ先に済ましていた怜君のナンバーをタップした。呼び出し音が何度か鳴った後、「もしもし?」と気の抜けた怜君の声が聞こえた。


「あ、ごめん。掃除用品がぜんぜんないから、雑巾とか買ってきてもらってもいい?」

「そういえば準備してなかったね、ありがとう。買って帰るよ。」

「うん、お願い。じゃあね。」

「うん、またね。」


 通話時間は10秒と、あまりにも呆気ないものである。今までは24時間ずっと怜君がそばにいたから電話なんてする必要もなかったので、そう思うと今回が初めての通話だ。携帯越しに聞こえた怜君の声はいつもより低くて、でも穏やかな口調はそのままで、それが耳元で囁くように聞こえるものだから、少し、いやきっとかなり、胸にときめいてしまった。

 荒ぶる心臓をどうにか抑えようとなんとなしに携帯をいじる。ラインの未読通知があまりにも多すぎるから消化しよう。そう思ってアプリを立ち上げ、まずは公式アカウントから既読もせずに削除していく。あとは、一応入っている高校のクラスのグループラインを適当に読んだり、知らない人からの怪しい勧誘メッセージをブロックした。そこで、珍しく由利からメッセージが来ていることに気付いた。送信されているのはもう、3日も前のことだった。メッセージを何度かに分けて送っているせいで一体何を言いたいのかが分からない。嫌な予感を孕みながら、恐る恐るメッセージを開く。


“今、どこにいるの?”

“合宿なんて行ってないでしょう?お母さんが怒り狂って探してるよ”

“大丈夫なの?何してんの?”

“ねえお願いだから既読付けてよ。連絡返して”


 最初に送ってきていたのは、10日前だった。そしてその次の日、3日後、そのまた3日後だった。


 お母さんに知られてる?どうして?


 手が震える。通話アプリを起動し、留守電件数をみると、3桁に近い数字の電話が掛かっていた。殆どが母で、由利が割り込んでいる。気付かなかった。どうしよう。再び由利とのメッセージ画面に戻り、何か返事をしようと考えては、やはり何を言えばいいか分からずに唇を噛む。頭がぐわんぐわんと音を立てている。捜索届は出されていないのだろうか?いやでもラインのメッセージを見る限り友人に知られている様子はない。それでも母に知られてしまった原因は何なのだろうか、必死に頭を巡らせていると、そういえばコインランドリーで出くわした友人のお母さんを思い出した。

 ふと、嫌な出来事が脳裏をよぎる。

 きっとあの人しかいないだろう。言わないで、と釘を刺したのに、軽率な人だから偶然鉢合わせて言いたくなってしまったのだろう。何ということだ、全てがうまくいっていたと思っていたのに。

 怜君が帰宅するまでの時間が随分長く感じて、もうこのまま怜君は二度と帰ってはこないんじゃないか、なんて馬鹿なことを思ってしまった。だから、怜君が呑気にも「ただいマンモス」なんて言いながら玄関の扉を開けたときは嬉しすぎて泣きそうになってしまったし、そんな私を見て怜君も不思議そうに慌てていた。


「家族に、ばれてた…。」

「…ここにいることが?」

「ううん、場所は知らないと思う。きっとコインランドリーで会った友達のお母さんじゃないかな、合宿に行くって言ってたのに。さっき携帯見たらお母さんから不在着信がたくさん入ってたの。由利からも何回かメッセージ来てた、私、どうしよう…。」

「…見せて、それ。」


 説明しているうちに先ほどの感情をぶり返す私とは対照的に、怜君は冷静に私の携帯を見やる。由利からの文章だけ見ると、携帯はすぐに戻ってきた。


「で、どうするの?」

「…どうするの、って、どういうこと?」

「だから、紗月ちゃんは家に帰りたいの?」

「まさか。でも、大ごとになったら、どっちにしてもここにはいられなくなっちゃうよ。」

「いたいなら、いればいいだけの話じゃない?そんなメッセージ無視して、夏休みの最終日になったら知らんぷりして家に帰ればいいだけじゃないの?」


 そう、言い放つ怜君の瞳に温度はなかった。

 はあ、とわざとらしく溜息を吐くと、買って来てくれた花火や掃除用品・食材を机上に置いていく。そんな姿をただ見つめながら、私の心はざわざわと鳥肌を立てている。


 私は、自分自身で、ここにいるかどうかを決めなければいけないの?


 もし、親が本当に捜索届なんて出していて、トラブルとなっていたなら、そう簡単な問題では済まされないだろう。私と怜君共に大変な事情に陥ってしまうし、例えば大学入試とか、就職とか、これから残りの学生生活の事とか―――挙げてしまえばキリがないけれど、どうして怜君はそう冷淡にしてしまえるの?うなじから背骨にかけて、寒気がする。こんなに軽い携帯なのに、力が抜けて落っことしてしまいそうだ。


「ねえ、怜君…、」

「紗月ちゃんは、僕に、もう要らないよって言いたいの?」

「そんなわけ…ない…。」

「紗月ちゃんは何よりも自己保身に走りたいんじゃない?一番かわいいのは自分なんじゃない?だから僕に決断を委ねることで、責任転嫁したいって本当は思ってるんじゃないの?それって狡いよね。」


 怜君が私を詰るように追いつめる。私も私でそんな彼が怖くて、後退していると背中に壁が当たってしまった。冷たい目をしている、私のことを軽蔑しているようだ。すっかり私に幻滅して、もう、要らないのは私の方ではないだろうか。

 まるで、空の浴槽から起き上がろうとしているみたいだ。いつもは湯が張ってあるおかげで起き上がる際に重力を感じないけれど、空の浴槽だとすべてを自分自身で支えなければいけない。きっと普段ベットから起き上がるのと同じように、椅子から立ち上がるのと同じように、なんら変わりはないはずなのに、空の浴槽は随分と重く感じてしまうのだ。


 絶望とは、重さだと思う。

 目の前が涙で霞む。言いたいことはあるのに、そうじゃないと言いたいのに、彼の指摘する部分が間違いではないのだ。二の句が継げない。ごめんなさい、ごめんなさいと謝ることしか出来なくて、もう、身体に力も入らなくて、そのまま床に崩れ落ちてしまった。もう怜君に軽蔑されてしまったら、呆れられてしまったら、どうやって生きていけばいいのか分からない。泣きじゃくる私に、怜君が先ほどの態度とは打って変わって優しく頭を撫ぜる。


「ごめんね、ちょっと言い過ぎた。でも僕が言いたかったのは、僕もそれくらい覚悟を持って今紗月ちゃんと一緒にいるから、紗月ちゃんは僕と同じ気持ちじゃなかったのかなと思うと悲しくて、八つ当たりしてしまった。泣かないで。大丈夫、僕がどうにかするから。こうしたのは僕なんだから、もちろん責任くらい取るよ。」


 半ば無理やりに私の顎を上げると、困まったように眉を下げて笑う怜君と目がかち合う。けれど怜君は本当のところ困ってはなさそうで、相も変わらず涙を流す私の額に、その柔らかな唇をそっと押し付けた。


「紗月ちゃん、好きだよ。本当に好きなんだ。これからずっと、ぼくの恋人でいてくれる?」

「…お願い、怜君の恋人でいさせて。」

「もちろん。」


 なんて奇妙なシチュエーションだと思う。

 怜君はおもむろに私に口付けた。押し付けるだけのそれだったけれど、彼の唇は前と変わらずやわかった。怜君はしょっぱいね、とやっぱり優しく、悪戯に笑った。


「じゃあ、これから少し準備をしよう。」


 怜君は私の肩を抱きかかえたままそう話す。涙の跡を慌てて拭いウン、と返事をしたものの、先ほど慟哭してしまったせいか掠れた声しか出なかった。怜君はそんな次第をからかうこともなく、何か考え事をしているのか天井を見上げている。


「由利ちゃんだね。」


 実際には数十秒間もかかっていなかったかもしれないが、体感的には数分待っていたように思う。怜君の頭の中はどのように思考が巡っているのか分からないけれど、少しの沈黙があって、そう言い放った。彼が有智高才であることは以前から知っていたし、勉強を教えてもらうようになって殊更実感はしているものの、私なんかの頭では彼が一体どういったことを考えているかなんて見当もつかない。怜君が私の携帯を貸して、というので素直に渡すと、ラインの友達一覧を表示する。由利を探し出すと、そのまま通話ボタンを押した。


「え、怜君!?」

「両親には言わないで、が1つと、明日家に行くから心配しないで、が2つめ。あと、ごめんねって謝ってあげて。」

「うそ、私が由利と話すの!?」

「いきなり僕が電話に出たら、由利ちゃん怖がるじゃん。」


 私が慌てふためく間にとうとう呼び出し音が止まる。おそるおそる画面を見ると、やはり通話が開始されているではないか。いきなり、何をどう言えというのだ。悩ましすぎて思わずしかめっ面になる。由利は、小さな声で「…お姉ちゃん?」と呼びかけている。怜君は呑気にもガンバレ、と口パクをしていた。ああ、もう!


「由利、心配かけてごめんね。まず、私は大丈夫だから。」

「お姉ちゃん、あの家に来た男の人と一緒にいるの?監禁されてるわけじゃないよね?本当に大丈夫なの?」

「どうして知ってるの?…まさか。監禁なんてされてないよ。由利、お願いがあるの。明日家に帰って説明するから、まだお母さんたちには言わないでいて。ごめんね由利。」

「…わかった、明日待ってるから。じゃあまた何かあったら連絡してよ。」

「うん、ありがとう。また明日。」


 由利と、久々にまともな会話をした気がする。状況はそれどころではないと言うのに、それどころではないからこそ、現実逃避でもするように関係のないことを考えてしまうのだろうか。今まで由利には歯牙にもかけられていないと思っていたけれど、この会話なんてさながら姉妹である。いや、姉妹であることに決して間違いはないのだけれど。

 不思議な感触だけ手に残ったまま通話を終えると、「えらい、頑張ったね」なんてやっぱり呑気な怜君が私の頭を撫でた。


「私、明日家に帰るの?」

「いずれはご両親にも挨拶しなきゃだしね。もうここまで来たらお母さんたちをうまくやり包めるしか方法はないよ。じゃないと紗月ちゃん、いつまでもお母さんやお父さんの好きなように、都合よくさせられちゃうけど、それでいいの?」

「…それは、嫌だ。」

「だよね。じゃあ明日とりあえずケリつけてみよう。」

「うん、でも、どうしたらいいの?」

「そんなの簡単だよ。思ってることを伝えればいいだけ。案外、思ってることって伝わってないし、言ってみると変わったりするもんなんだよ世の中って。」


 散歩に出ようか、と、私が先ほどの会話にそうなのかな、を返すよりも早く私の腕を掴むと、急がせるように玄関へ向かった。外へ出ると昼間の咽るほどの暑さはなかったものの、余韻を残すようにまだじんわりと熱を帯びていた。けれど怜君は涼しいね、と言って穏やかな風を感じている。

 ふと、怜君の見えている世界が気になった。私の知らないことを知っていて、私の教えていないことも知っていて、私に新しいことを教えてくれる、彼の見ている世界とは。綺麗なのか、それとも反するものなのか。空を見上げて星を眺める彼の横顔は美しく、彼自身になりたいとさえ思う。そんな彼にとって、私とは、どういう存在なのだろうか。恋人という固有名詞を使わないとしたならば、一体私はどういう風に表現してもらえるのだろう。


「ねえ、怜君、明日無事に帰れたら、今日買った花火、したいな。」

「うん。無事に帰れるよ。」


 私が繋いでいる手に力を込めると、怜君は嬉しそうに笑って、恋人繋ぎへと指を絡めた。

 いつか、彼の見えている世界を教えてほしい。今のこの星屑たちが綺麗だとか、吹く風が心地よいだとか、私の事をどう思っているのかだとか。好きな人と見えている世界を共有出来るということは、奇跡に近いと、私は思った。

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