第18話


 ガチャリ、と扉が開いた音だった。私には、すべての始まりに思えた。


「紗月…!?」

「ん?もう合宿は終わったのか?」


 料理の支度をしていたであろう母親と、テレビを観ながらすっかり寛いでいる父親。あまりにも非対称すぎる反応に、父親が何も聞かされていないであろうことは明白だった。

 二人と目線が合うように怜君の腕を引っ張って呼び寄せる。



「お母さん、お父さん嘘ついてごめん。実は、今までこの人の家にいたの。」

「…なんですって?」


 緊張感の張りつめた部屋。由利はリビングのドア付近で立ち尽くしたまま、不安げな表情を浮かべている。そんな中、怜君は「こんにちは」と、随分と場に合っていない間抜けな挨拶をした。

 いきなりの急展開に、父親は何も理解ができていないようだった。


「…紗月、誰なのよ、この人は。」

「紗月ちゃんと同級生の、藤堂(とうどう)怜と言います。紗月ちゃんとはお付き合いをさせていただいています。」


「え?紗月、合宿に行ってたんじゃないのか?」

「…ううん、ごめんなさい、本当は違うの。」


 各々の心情が音になって聞こえてきそうだ。ただ一人怜君を除いては。あまりの強心臓具合に正直私まで驚いている。確かに今まで怜君が取り乱した姿なんてみたことはないけれど、こんな時まで笑顔でいられるのは普通じゃない。でも、怜君はそもそも普通じゃなかった。


「どうして紗月ちゃんがあなた達を騙すようにして家から出たか、ご存じのはずはないですよね。」


 誰も、答えるものはいなかった。否、分かるはずがなかった。テレビの雑音が唯一、この空間の静けさを誤魔化してくれた。それはまるで慌てているかのように。


「夏休みに入る前、僕は偶然、紗月ちゃんが近くのコンビニで万引きしているのを見かけました。」


 どうして。

 まったく言いよどみもせず、怜君の口から何の違和感もなく出てきたその言葉に、私も含め全員の動きが止まった。父については、今し方自分の娘が実は家出していたという事実に加え、犯罪行為の暴露までされて、頭がついていっていないようだ。母は、眉を顰めたまま言葉を失っている。どうしたの、と今、怜君に聞きたいけれど彼は至って平然としており、そのまま話を続ける。


「もともと紗月ちゃんのことが好きだった僕は、言い方はおかしいかもしれませんがチャンスだと思いました。だから、万引きのことを黙っているから一緒に住んでほしい、と条件を出して、まあ脅迫に近いとは思いますが、今日まで一緒に住んでいます。でも、僕たちはちゃんと恋人同士です。」

「…何を馬鹿なこと言ってるの?結局は脅迫して紗月を監禁してたってことじゃないの!」


 ずっと攻撃的な視線をぶつけていた母親がここぞとばかりに怜君に嚙み付く。まるで「私が万引きをしていたこと」は聞こえていないようだ。

 それでも怜君は飄々としていた。どうするの?どうしたらいいの?ああ、もっとちゃんと話し合いをしておけばよかった。怜君の出方がどうにも理解できなくて、私は口を噤む。


「まさか。ちゃんと紗月ちゃんには意思確認してますし、もしお母さんの言うとおり監禁してたとしたなら、僕はここには来ないでしょう。違いますか?どうして万引きなんて犯罪行為をこの紗月ちゃんがしていたのか、お母さんあなたは知っていますか?」

「知るわけないじゃない!今までまともに育てたのに、犯罪者になるって分かってたら堕ろしてたわ!あなたが紗月を万引きするよう仕向けたんじゃなくて!?」

「まさか。それに、僕は紗月ちゃんが万引きをしていたって社会にバレて、制裁が下っても構わないんですよ。」

「は…?あなた、頭おかしいんじゃないの?」


 はは、と怜君が笑った。お笑い番組でも観ているかのように。

 私は、怜君が言った言葉を頭の中でなぞる。いいの?私が万引き女だって、周囲に知られても。

 この状況の訳が分からなさ過ぎて、過呼吸でも起こしそうだ。立っているのも辛い。どういうこと?怜君の発する言葉を、家族みんなが待っている。


「僕は、紗月ちゃんが手に入れば何でもいいんです。僕は彼女が万引きをしていても、たとえ人を殺してもちゃんと好きです。だけど、あなたたちはそうじゃないんでしょ?」

「犯罪者が家族にいるって考えただけでおぞましいに決まってるでしょ!紗月、はやく家に帰ってきなさい、万引きしたことはもう忘れてあげるから、これ以上私の顔に泥を塗らないで!!」

「…そういうとこなの、お母さん。」

「…え?」


 気付けば言葉が出ていた。

 お母さんたちには見えないように、背中の後ろで怜君が私の手を握った。私の手は震えていて、汗もびっしりかいていて、心の動揺を怜君に知られてしまうのが情けない。怜君の手は震えることもなく、温かくて大きい。安心する。確かに、怜君の言うとおり私の思っていたことなんてほとんど伝えたことがない気がする。

 両親は私の気持ちを聞いてどう思うのだろうか。もう、どう思われても構わない。私には怜君がいる。何をしても、私だからと受け止めてくれる怜君が。

 またひとつ、大きな深呼吸をした。


「いつも私の気持ちなんてそっちのけで好きなように私のことを制限してきたよね。何かあれば由利のほうが、何もなくてもお前は駄目だ、って私でも由利の方が贔屓されてること知ってたよ。小さい時から何度私が親にとっていらない子なんだ、死んじゃえばいいんだ、って絶望したか覚えてない。親の理想に生きたいのに、どうしてもうまくいかない私自身も、お母さんやお父さん、由利もみんな嫌いで、鬱憤を晴らすように万引きしてた。もちろんやっちゃいけないことってわかってる。これからは絶対もう二度としないって約束する。…当然なんだけど。最初は本当怜君に言われるがまま一緒に暮らしてたけど、怜君は私にとって一番大切な人なの。こんな娘でごめんね、でも私も私で思うとこがあったのは知ってほしい。」


 そう言えば、私の気持ちなんて一度も親に伝えたことがなかったな、と思った。何を言おうが親の意見に遮られると分かっていたし、ずっと諦めていた。月並みな言い方だけど、背中を押してくれたのは怜君だった。

 親は、もう何も言わなかった。母は溜息を吐いて俯いていたし、父に限っては意見のない父らしいというか、「ああ」という曖昧な相槌しかくれなかった。静かな裏ではこんな人間で、由利に幻滅されたかもしれない。瞳を揺らしながらこちらを見ていた。ああ、こんなお姉ちゃんでごめんね。どうして由利が泣きそうになるの?まさか泣いてしまうなんて思ってはいなかったけれど、由利の涙につられて、私が泣きたかったこと、泣けなかったこと今までのことが思い出されて、思わず涙があふれてくる。

 怜君が再度、私の手を握りなおす。


「僕だって紗月ちゃんが万引きしてたなんて誰にも言いたくないです。だから、ここは交換条件として、今後一切ご両親は彼女にに指図をしたり忖度をさせない代わりに、僕は彼女の犯罪行為を秘密にする。これはあなた方を信用しているうえでの相談です。どうです?」

「…あなた、私たちまで脅すの?」

「言葉が悪い。万引きさせるまで紗月ちゃんを追い詰めたのは誰ですか?自分の責任くらい取ってください。僕は紗月ちゃんの味方でしかないですよ。」

「ああもう好きにしなさい!勝手にすればいいじゃない!もう帰って!」


 信じられない、くだらない!と吐き捨てるように怒鳴ると、母はリビングから飛び出て行ってしまった。怜君はあら、なんて場違いなことを言いながら舌を出す。きっと、母は負けを認めている。言い返す言葉も出なかったから、逃げて行ったのだと思う。父は、出ていく母を見送ると、「…紗月のことをお願いします。」とだけ言って席を立った。この場にいるのが苦しかったらしい。呆気にとられる私に、怜君がよかったね、と微笑んでいる。すっかり涙が引っ込んでしまった。由利が申し訳なさそうにこちらに歩み寄る。涙のせいか、少しだけぐらついた声だった。


「お姉ちゃん、ごめん。今までそんな思いしてたなんて気付かなかった。確かにいつも酷いことばっか言ってた気がする。お姉ちゃんもあんまり自分の意見とか、言い返したりとかしないから、私もそうだけどお母さんもお姉ちゃんの気持ちあんまり気にしてなかったんだと思う。酷いこと言われたら誰だって辛いし、悲しいのに、ごめんね。」

「…ううん、私は由利にいつも僻んでばっかりだった、由利ばっかいいなって思うことで自分を甘やかしてたの。私もこれから変わるから、気を付けるから、ごめんね。ありがとう。」


 由利とは姉妹なのに、あまり姉妹らしい会話をしてこなかったな、と今になって思う。気付けば私と由利は親の比較対象だったし、由利を妹、とあまり認識したこともなければ、由利も同じだったんじゃないかと思う。玄関まで見送ってくれた由利は怜君に一応お辞儀をしつつ、私に手を振った。「また夏休み終わったら絶対に戻ってくるよね?」と再三確認をして。

 怜君は丁寧にもお邪魔しました、なんて言っていて、もちろん両親から返答はなかったけれど、何故か満足げな表情をしていた。重厚な玄関の扉がおもむろに閉まる。ようやくひと段落がついた嬉しさなのか、二人きりになると私と怜君は目を合わせると静かに笑って、抱き合った。

 日はすでに薄暗くなっていて、今日の早朝悪夢を見たあの時間帯を思い出す。怖かった、すごく。でも、怜君がいてくれたおかげで、こんなにも呆気なく、無事に終わることができた。お互い納得のいく形で説得ができたとは思っていない。きっと母は未だに怒り狂っているだろうし、意思のない父は母の言うがままに受け入れるのだろうし、由利は由利で両親に対するわだかまりを抱えていて、どうにかするかもしれないし、そのままにするのかももしれない。厭そうな表情を浮かべた母の、あれが本当に怖かった。どんどん孤独になっていくような、世界でひとりのまま取り残されるような、誰も助けてはくれないような、あの絶望感が嫌いだった。けれど、今はもう怖くない。大丈夫、と手を取ってくれる、彼がいるから。


「よし、じゃあ帰ったら念願の花火しよっか。」

「そうだよ、はやく帰らないと!」

「でも、その前にひとつ言わせて。」

「…何?」


 怜君が辺りに誰もいないことを確認してから、片膝を着く。左手は背面の腰に、右手は私へ差し出している。あまりにも様になっているから、思わず王子様のようだ、なんて乙女のようなことを思う。


「これからもずっと、僕のそばにいてくれることを誓うなら、この手を取って。」

「…取らなかったら?」

「ふふ、僕が無理やり紗月ちゃんの手を取るよ。」

「選択肢はYESかハイ、ってやつね。うん、じゃあ、誓います。」


 怜君の手のひらに自分の手を置くと、怜君がそのまま立ち上がる。気付けば怜君の左手は私の腰に移っていて、彼自身に引き寄せられた。息をもかかる距離に、まだ慣れない私は恥ずかしくて目を合わすことができない。


「僕も。ずっと紗月ちゃんを愛することを、誓います。」

「…ねえ、なに、これ?結婚式みたいで恥ずかしい。」


 何をするのかと思えば、こんな芝居じみた茶番を。

 私を相も変わらず慈しむように見詰め微笑む怜君はやはり美しく、本当に私の恋人なのかと問いたくなった。熱くなる頬を隠すように、俯いて顔を隠して笑った。

 きっと、何千回確認したとしても、毎回丁寧に「そうだよ、僕は君の恋人だよ」と返してくれる怜君を想像するのは難くなかった。


「やっと禊が終わったから、記念にね。」


 縁起でもないことを言う人だ。薄薄と気付いてはいたけれど、意外と彼という人物は空気が読めなかったりするのかもしれない。だからこそ、救われたことだってあるけれど。


 怜君が私にそっぽを向かない確証はない。何のとりえもなければ見目美しくもなく、私にしかないものなんてないと思っている。だけど、どうしてか怜君だけはずっと私のそばにいてくれるような気がするのだ。なんて根拠のない自信なんだ、と自分でも思う。

 ただ、怜君が私を見つめて―――「可愛いね」、そう言ってくれるのが何よりも嬉しい。



END

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