第14話

 彼と同棲を初めて、4つの約束を、私は守り続けている。

 毎朝苦手な珈琲を飲むし、毎晩特段好きでないミルクも飲むし、怜君以外と外出することなんてあるはずもなく、携帯はもう見てもいない。つくづくインドアなきらいだと自分でも思う。あの日以来彼は当たり前な顔をして私のベットで一緒に寝るようになり、そういう私もそれを甘受してしまっている。今ならば、他の女の子に「付き合っているの?」と聞かれても何食わぬ顔をして肯定が出来るだろう。ああ、私はこの間何が変わったのだろう。具体的には挙げられないし、きっと怜君に聞いても「勉強の出来具合じゃない?」なんて誤魔化されるのがオチだ。彼は私を扱うのが非常にうまいと思う。そうわかっていても、彼の掌のなかで溺れているし、それでも良いと思っている。


 一度、彼に聞いたことがある。


「どうして朝は珈琲で、夜はミルクを飲まないといけないの?」


 彼は表情ひとつ曇らせることなく、微笑んだ。

 あ、綺麗。と、場違いなことを思う。


「それはね、朝の珈琲には毒を入れて、夜のミルクに解毒剤を混ぜてるんだよ。」


 背骨がグググ、と押し上げるように凍えて、震えた。真偽は彼にしか分からない。でも、それでも、私は朝珈琲を残さず飲むし、夜にはミルクを飲み干して、どうやら楽しい夏休みを過ごしている。彼の手中で溺れ、もし死ぬことがあったとしても、きっと、その時の私は本望だと悦んでいるのではないかと、まるで他人事のように思った。たとえ、家庭に対する執着は薄れても、きっとその代わりに私は彼に依存してしまっているのだろう。


「やっと終わったぁ…!」


 最後のページの答え合わせが終わったところで、ようやく私の夏休み課題もまるごと終わりを告げた。思わず情けない声を上げながら体を伸ばすと、ずっと前傾姿勢になっていたためか、上半身の至る部位がぎちぎちと気持ち良い痛みを感じる。今日は彼と同棲を初めて20日が経っていた。8月の上旬を過ぎ、毎日狂ったように課題をこなし続けてきた生活ももう終わりだ。今年度は受験生の身であり、去年よりも課題の重量は増していたが、この解放感といったら最高以外の言葉が見つからない。しかも、乱雑にこなした課題ではなく、ひとつひとつ疑問を潰し、理解していく上での終了である。これは夏休み明けの課題テストもかなりの点数が期待できそうだ。親に「勉強会」といったのも強ち間違いではない。怜君は、というと理系コースの所為か私よりも数学・化学の分量が多く、そのぶんだけ時間がよりかかっているようだ。先日彼の数学の課題を覗き見たら、わけのわからない数式が羅列されていて頭がくらくらした。怜君は笑って「こんなの記憶科目だよ」と言っていたけど、数学はある程度のレベルを超えるとセンスが必要になることは知っている。けれど、文句ひとつ言わず、私の分まで丁寧に勉強を教えてくれる彼は控えめに言っても菩薩なのではないだろうかと、割かし冷静に思うのだ

 怜君は、赤ペンで添削している手を止めると、ふふ、と笑った。


「紗月ちゃん頑張ったからね。」

「うーん、ほとんど怜君のおかげかな。」

「紗月ちゃんが真剣に聞いてくれてたから、こっちも楽しかったよ。復習にもなるし。」

「怜君が楽しかったの?先生に向いてるんじゃない?」


 次々に課題をバックの中に仕舞い込む。持って帰るときも重いだろうな。今日は折り返し地点である。もうあと20日経てば、晴れて彼からの脅迫という名の鎖は外れ、私も何も失うこと無く普段の生活に戻るのだろう。ああ、でも彼とは恋人のままなのだろうか。私は彼の求愛を同棲することで受け入れ、そうしてひとつ跡を残したまま「普通の女の子」として生きるのだろうか。怜君は今現在当たり前のように私を恋人として扱ってくれているが、約束している事情は一緒に暮らすのも40日間というものであり、恋人の有無には触れていないはずだ。

 じゃあ、私、怜君の彼女なのだろうか。

 いや、「彼女になってほしい」「いいですよ」とか言ったようなやりとりは一度も交わしたことがない。気付けば怜君が学校中に言いふらしていて、確かにあの時は「嘘」だった。気持ち悪さで私はトイレで嘔吐したではないか。彼の私に対する態度、素振りはまるで恋人どころか姫様のようだけれど、どうしてか「私、恋人で良いのかな」なんてことは、聞けずにいた。

 きっと、いつもの、あの美しい笑みで「駄目だよ」と言われるのが怖いから。


「じゃあ、今日は紗月ちゃんの水着を買いに行こう!」


 そんなことを考えながら荷物の整理を終わらせていたら、怜君が陽気にそう言った。

 その言葉に、私の時間だけ止まる。

 採点をしていたはずの怜君の課題はもう既に片付けられ、先ほどまでパジャマ姿だったはずが外に出ても恥ずかしくないような服装になっている。そしてむろん私はパジャマのままである。


「え、海に行くの?しかもそんな水着買うお金ないよ。」

「今日じゃないけどまた近いうちに行こう、僕の課題が終わったら。それに、お金は僕が出すから気にしないで。」


 はやくはやく、とでも言いたげに、怜君は勝手に私の服を持ってくる。素直にそれを受け取り、着替えるべく洗面所に向かったのだが、いきなり彼はどうしたのだろう。そして怜君の課題はあとどれほど残っているのだろう。いやいや、それよりも、私は彼に水着姿を見せなければならないのか。その事実に冷や汗をかきながらも着替えを終え、リビングに戻ると怜君が既に準備を終えた状態で待っていた。


「すぐそこのビルで良いよね。」

「うん、早く行って早く帰ろう。」


 サンダルを履いて外に出ると、日陰にはなっているもののやはり太陽の熱が体を覆う。外気よりも私の吐息のほうがよっぽど涼しそうだ。そんなことを思いながらエレベーターのボタンを押す。


「ねえ、怜君って、お金持ちなの?」

「まさか。」

「だって、ほら、こんなアパート借りたり、生活費だって全部怜君が出してくれてるし。」

「バイトしてお金貯めたからね。たった1ヶ月だけだけど、紗月ちゃんを養えるくらいのお金はあるから大丈夫。それより、さつきちゃんは肌も白いし華奢だから、水着が似合うだろうね。」

「なに、その、おじさんくさい発言は…。ワンピースみたいな水着が良い。」

「確かに、紗月ちゃんの肌を他の男の視界に入れたくないかも。そうしよう。」

「だから、そういうのがおじさんくさい。」


 珍しく冗談を言う怜君に、思わず冷静なツッコミをしてしまいつつも、怜君から褒められたことが嬉しくて頬が緩んでしまう。当日までにもう少し体を引き締めたいな、と考えたけれど、筋トレなんぞしてしまったら思惑がもろに知られてしまうのは流石に恥ずかしい。

 そうこうしている間に、近所にあるわりと大きめのビルに到着した。立派なショッピングモールではないけれど、それなりに有名な店舗が入っている百貨店である。ちょうど、8階のイベント広場では「水着博覧会」をいうものをしていたようで、怜君が知ってか知らずかはわからないけれど、ずいぶんタイミングの良いことである。とりあえず8階を目指すためエスカレーターを次々登っていく。あたりを見回して、知人がいないかを確認したが、意外といないものなんだなと感心してしまった。ようやく8階に到着すれば、華美な水着がところせましと並んでおり、種類の多さに混乱する。怜君は呑気に「可愛いね」なんて言いながら、躊躇する私を置いてけぼりにして一人で進んでいくものだから、慌てて後ろをついていった。布が手のひら分もないものや、無駄に谷間を強調するもの、遊んでいるうちに落ちてしまいそうなものなど、ひとつひとつに目を通しては心中パニックになっている。こんなものを着たら人間としての尊厳が失われてしまいそうだ。本当にこんなセクシーなものを着る女性がいるのだろうか?生まれてこの方スクール水着しか着用したことのない者としては、あまりにもハードルが高すぎるのではないだろうか。


「あ、ワンピース水着のゾーンあったよ。」


 ほら、と、適当にひとつ怜君が水着を取って見せたそれは、黒背景に白の花がちりばめられたもので、派手過ぎず可愛い。


「もうそれでいい!それにしよう!」

「え、もう少しいろいろ見てから決めようよ。」

「いや、今それが良いって思ったの。」

「本当?なら良いけど…。」


 怜君がふと露出の高い水着を発見し「これが良い」なんて望まれてしまったら大変由々しき事態になってしまう。納得のいってなさそうな怜君の背中をぐいぐい押してレジまで行くと、女性店員さんも水着に羽織もの、そしてショートパンツと、おじいちゃんが見たら驚くような服装で仕事をしていた。思わず釘付けになったものの、怜君はなんてことのない顔で会計を済ませている。男のくせに平然としているなんて、とくだらないことを思ってしまった。


「じゃあ、帰ろっか。」

「あ、怜君、」


 エスカレーターに足を進める怜君に、頼もうと思っていたことがある。先ほどの水着パーティーですっかり失念していたけれど、実はあまり勇気が出ず言えなかったのだ。


「髪の毛を、染めてほしいの。」

「ああ、いいよ。1階のドラックストアでカラー剤買わないとね。でも、なんでいきなり?」

「ありがとう。えっと、この前、妹にださいって言われちゃって。気になってたんだ。」

「そのままでも可愛いけど、茶髪も似合うだろうな。校則で禁止されてないし、いいじゃん。」


 紗月ちゃんの髪が傷むのは、少し残念だけど。と、120点満点な回答をしてくれた怜君は、胸まで伸びている私の髪をいじる。染めたこともなければ、パーマなんてもってのほかだ。確かに痛んではいないが褒められるほど綺麗なものでもない。正直、いままでビューティー関連に興味がなかったわけではないが、ただなんとなく恐いのと、私がそんなことに興味をもったところで「可愛くないのにね」と笑われるのがオチだろう、なんて自虐的思考をしていたからだ。怜君は私のそんな成り行きなんか知らないし、知らない方が良いと思う。ただ、肯定してくれたことが嬉しかった。

 カラー剤もいろんなカラーの種類があったけれど、よくコマーシャルで名前の聞くものを選んだ。「自然な茶髪」にする予定だ。さすがに髪色に関する校則はないけれど、真面目地味子ちゃんだった私が、例えば金髪にして始業式を迎えるのは、さぞや驚かれるだろう。


「はやく帰って、染めよう。」


 たった二つ、水着とカラー剤を買いに来ただけだというのに、気付けば空は薄暗くなっていた。夜ご飯の予定を立てながら、と言っても、家でインスタントラーメンでいいや、と意見は合致したのだけれど、染髪をするのがあまりにも楽しみだったのか、帰路は随分長く感じた。

 帰って浴槽にお湯を張り、その合間に説明書を熟読する。怜君はインスタントラーメンをつくってくれ、トッピングには生卵が添えられていた。そそくさと食事を終えたところで、怜君に「じゃあ、また」とだけ告げると風呂場に突撃した。何故か少し緊張していた。泡タイプのヘアカラーなので、一人でも安心だと言うのに。そのセールスポイントに惹かれて購入を決めたというのに。シャンプーをするように髪に泡を含ませ、規定時間待機する。ついでに、と染めた眉の皮膚が若干ひりついたような感覚もあったけれど、カラーリングの楽しみはそれどころではなかった。時間を過ぎて洗い流すと、髪が若干きしんでいるような気がした。


「どう?」


 しっかりと髪を乾かし、再度パジャマ姿に戻ったところで、怜君にお披露目する。恰好が間抜けではあるが、とにもかくにも早く披露したかったのだから仕方ない。怜君は髪の毛を見た瞬間オオ、と感嘆の声を上げてこちらに近寄る。


「すごい!ちゃんと茶色だよ。茶髪も可愛い。前の黒髪も好きだったけど。」

「色、変わってる?」

「うん、変わってるよ。なんか垢抜けた感じする。」


 毛先はところどころ茶を通り越して金に近い部分があったけれど、これはきっと髪が傷んだからだろう。手櫛を滑らせるとやはり手触りが確実に悪くなっていた。

 別に、髪を染めたら自分が変われる、なんて、とんでもではないが思っていない。ただ、これを契機に変わろう、と思ったのは事実だ。由利からださい、と言われたその理由は、髪の毛が黒いからというものだけではないことは理解している。けれど、まあ、形から入ってもいいじゃないか。


「ありがとう。」


 怜君がいたから、私は変わるための準備が出来ている。

 その意図を知っているかは定かではないが、怜君は何も言わずにニコリ、と笑って返した。

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