第10話

 常に機嫌が良い、ということは、大人である、ということと同一と言っても過言ではないのではないだろうか。もちろん、他人にご機嫌を取ってもらっているわけではなく、ちゃんと自分自身の機嫌の取り方を知っている、という前提ではあるが。

 怜君は常にご機嫌である。怒ることも、拗ねることも、冷たく当たることもなく、いつもやわらかな笑みを絶やさず、私をいとも簡単に手のひらで転がしているのである。手のひらから逃げることも出来ず落とされることもなく怯える私に、彼はそれを知ってなお嬉しそうに微笑んでいるのだ。怯える、とは言っても正直彼の家にのこのこと着いてきていたあの時点で私は半ば諦めてはいるのだけれど。


「本当は天日干ししたいんだけどねー。」


 物干し竿ないしね、と私の前を歩く怜君が振り向いて、慌てて意識を戻す。


「…どうしたの?」

「いや…なんかぼーっとしてた。そうだね、太陽のにおい、好きだし。」

「知ってる?太陽のにおいって実は死んだダニのにおいなんだよ。」

「えっそうなの?なんかショックかも。」


 怜君は歩くスピードを緩めて私の左隣に来る。随分グロテスクな事実に私が顔をしかめる様を見て、嬉しそうに笑っている。怜君の左手にはかなり大きめのバックが握られていて、今、私たちはコインランドリーに向かっているのだ。家に基本的に家電製品はない。まあ考えてみれば、確かにたかが1ヶ月のために数万円とする家電を買うのは勿体ない気がする。冷蔵庫だけは、本当に小柄ではあるものの準備されていた。ふたりだけとは言えど、数日分の衣服をずっと持っているのは重いだろうと、交替するよと言っているのに一向に持たせてくれる気配はない。

 そうこうしている内にコインランドリーに到着してしまった。家からおよそ10分ほどしかかからない場所にあると言うのに、私も怜君も随分な汗をかいている。太陽の日差しとそれを跳ね返すアスファルトのおかげで熱気がすさまじいことになっているのだ。自動ドアが私たちを出迎えると途端、ひんやりした空気が体を覆う。瞬時に汗は冷たくなり、火照った体もそれに乗じて落ち着いているように感じた。

 一番奥にある洗濯機の扉を開ける。怜君はそのまま中身を投げるように入れ込むと、慣れた手付きで操作をし、気付けば洗濯機は回り始めていた。


「じゃあ、洗ってる間にお昼ご飯でも食べに行こうか。」

「隣にあったうどん屋でいいな。暑くって遠くまで歩く気になんないや。」



「あら、紗月ちゃん?」


 どくん、と心臓が暴れた。おもむろに振り返ると、中学校の同級生のお母さんが不思議そうにこちらを見ている。


「…あ、おばちゃん、こんにちは、」

「どうしたの?こんなとこで。もしかして彼氏?かっこいいわねえ!」


 どうしたの、と、言われても。自分が万引きしていたところを見られてた挙句脅されて今一緒に暮らしている人です。正式に付き合ってはいませんが彼が勝手に私と付き合っていると言い触らしていました。なんて、冗談でもいえる内容ではない。頭のなかではぐるぐると思考が巡るのに、実際は何も言えず、動けず、固まっているだけだった。だんだんと不審そうに私を見るおばちゃんに、ことさらどうしていいか分からなくなる。

 どうしよう、と、半ばべそをかきながら怜君を見やると、相変わらず涼しげな顔をして微笑んでいたのだった。


「そうなんです。僕たち付き合ってるんです。今、僕の用事に付き合ってくれてて。」

「あら!紗月ちゃんこんなにかっこいい彼氏見つけたの!うちんとこなんて高校に行っても全然浮かれた話がないっていうのに、ご両親喜んでるんじゃないの?」

「あ、まだ、家族には言ってなくて…。まだ内緒にしててもらってもいいですか…。」

「あ、そう?やっぱり自分で報告したいもんねえ。じゃあ今日ここで会ったことは内緒ね。」


 以前も元気そうなお母さんだなとは思っていたけれど、昔の記憶は間違いではなかった。

 再びマシンガントークが炸裂しそうだったので、「お昼に行くので」と半ば無理やり早々に切り上げた。自動ドアをくぐり抜ければやっぱり最高に暑かったけれど、あの空間に居てしこたま事情聴取されるよりは何倍もマシだ。逃げるようにうどん屋に入り、人から見えにくいような位置に座る。確かにここは地元だから、他の人にも見つからないように気を付けなければいけない。メニュー表を手に取り、適当に目に入ったものを頼むことにした。怜君はざるうどん一択!と、メニュー表も見らずに店員さんに注文する。定番メニューなのかあっさりと受け付けられたざるうどんに少々目を開いたものの、怜君は当たり前な顔をしていたのでそれについては何も言わないことにした。


「さっきはありがとう、怜君。」

「こちらこそ、僕が彼氏って言うのを否定してくれなくて嬉しい。」

「…それ以外に、一番誤魔化せそうな嘘が見つからなかったから。」

「えー、そこは“私も彼女って紹介してくれて嬉しい”くらい言ってくれないと。」

「…いや、さすがに無理でしょ、いろいろと。」


 机の上に無造作に置いていた私の手を、怜君が指先から優しく握る。指の腹の感触を確かめるように押したり捏ねたり、一体何がしたいのか分からない。けれど私としては理由はわからずとも恥ずかしいわけで、離してほしいのに、怜君はするすると指先から深く指を絡めていった。


「今日は、帰ったらまた夏休みの課題しよっか。数学けっこう終わったから気分転換に英語でもやる?」

「…う、ん。あの、手、」

「紗月ちゃんの手、細くて、やわらかくて、気持ちいいね。」

「…そうじゃなくて、」

「ずっと触ってたいな。」


 先ほどとは違う、心臓の暴れ具合だった。さっきは体中が冷えて死んでしまうのでは、なんて思ったけれど、今は体が熱すぎて死にそうだ。触れている指先が緊張で震えてしまいそうで怖い。お腹の奥がきゅうっと締め付けられて、彼の顔を見ることが出来ない。けれど、見えないけれど、やっぱり彼はまた唇の端をあげてこちらを見つめている気がするのだ。

 怜君が触れる指の腹、爪、関節、手のひら、すべてがくすぐったくて熱い。まるで私の反応を楽しむかのようにやわく、ゆっくりと、たかが手だというのに、私のすべてを蹂躙していく。油断すれば、あ、と、声が出てしまいそうで、息すらも出来なかった。


「可愛いね。」


 ふふ、と吐息が漏れたような気がした。ぱっと手を離され、思わず顔をあげると店員さんが「お待たせしました」とざるうどんのトレーを怜君に渡していた。先ほどの生ぬるい地獄のような空間はどこへやら、きゃっきゃと喜ぶ彼を尻目に、安堵の溜息を着くと、あとから私の肉うどんも姿を現した。怜君の指先や手のひらの感触を忘れるように、慌ててうどんを啜った。

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