第9話

 8時になると亀の姿を象った目覚まし時計がジリリリ、と大きく音を立てる。すんなり起きられたものの、寝場所自体が変わってしまったものだから、睡眠の質はあまり良くなかったようだ。頭が重い。横を見やれば綺麗に畳まれた布団があって、怜君は既に起床していることを知る。短期間だからなのか、ベットフレーム等はなく、2つの敷布団が並べられているのみだ。恋愛には疎い方だけれど、さすがに寝起きそのままの姿で彼に会うのは恥ずかしい。手櫛で髪を梳きながら、洗面所に向かう。ここのアパートは随分新しいらしく、白さの際立つ洗面台がありがたい。水で口を漱ぎ、彼が準備してくれていた新品の櫛で再度髪を梳く。いてて、と呟きながら鏡の中の自分と目を合わせるも、そこには不細工な女が映っていた。


 私が聞きたいくらいだ。万引きした私の事を好きだと言って、学校のみんなに言いふらして、一緒に暮らしたいなんて、狂気じみたことを言うのはどうしてか。怜君は所謂 「女子の憧れ」で、彼のことを好きだとしても、何故かそれを言いふらしてはいけない―――と思わせるような人だった。誰しもが、その思いを胸に秘めていたからであろう。恋人の存在を聞いたことはないが、もし怜君に彼女がいたならば、絶世の美女とやらであっても、重箱の隅を突かれるようにさまざまな嫌がらせを受けていたかも知れない。というところで、この私である。周囲の人間も呆気にとられたことだろう。特に彼と友達というわけでもない、可愛くもない、なぜお前が?と。それは周囲の反応や言葉の端から伝わっていたし、きっと私が一番自覚している。況や犯罪をおかした人間。それだけで恋愛対象外になるのが当然ではないだろうか。脅しの種として使うなんて、確かに、今迄気付かれなかっただけで、きっともともと彼は狂気じみていたのだと思う。きっと、夏休みが明けても私と彼が形式上の「恋人」であれば、彼のことを恋焦がれていた女子からは少しずつ攻撃されていくだろう。今はまだ彼女らは頭の中で計画を企てているのではないだろうか。

 ある程度朝の支度が済んだので、ゴムで髪を結んでリビングに向かう。扉を開けてすぐに珈琲の苦い風味が鼻の奥に広がった。


「おはよう。朝ご飯は昨日のカレーでいいかな?」

「…うん、ありがとう。」


 怜君はもう食べ終えていたのか、ダイニングテーブルに用意されていたのは一人分だけだった。昨晩は彼と一緒にカレーを作ったことを思い出す。スプーンですくって口に入れると、昨日よりも味が染みて美味しいような気がした。


「珈琲、美味しいけど熱いから、気を付けて。」

「私、ブラック珈琲あんまり得意じゃないんだけど…。」

「ミルクか砂糖入れる?」

「うん、甘い方がいいかな。」


 仕方ないなあ、と怜君がやわく笑いながら角砂糖を2つ、湯気の立ち上る珈琲に落とし、ミルクを注げば深い黒がじんわり歪みながら優しいベージュに変化していった。

 すっかり甘くなった珈琲を口に含みながら、昨日彼から予め決められた約束事をぼんやりと反芻する。


一、朝の珈琲は必ず飲むこと。

一、就寝前のミルクも必ず飲むこと。

一、外出時は事前に許可を得ること。

一、怜君以外と連絡を取らないこと。


 きっと彼は私が逃げぬよう足元を固めておきたいのだろうな、と思う。さらさらそのようなつもりはなく、大人しく彼の言うままに身を任せるつもりだ。と、言うよりも、私には選択肢が与えられておらず、従う他ないのである。

 御馳走様、と手を合わせると、すっかり空になったカレー皿とコップを台所へ置く。勢いよく水を出し、物理的に汚れを落としていく。ある程度こそいだところで、未だ新しいスポンジを水に濡らし少量の洗剤をつけ、2・3回にぎってはゆるめると、いい具合に泡が出てきたので、そのまま皿とコップを洗った。十分に水で洗い流して、トレーに置いてあとは乾くのを待つだけだ。振り返ると、机上には既に参考書が置かれている。「課題もやっとかないとね。」と悪戯に笑う怜君に、私は頷くだけだった。




「けっこう進んだね。お昼にしよっか。」

「カップラーメンで良いかな?」

「うん。」


 時計を見ればもう十二時に差し掛かろうとしていて、自分で思っていたよりも集中して課題を出来ていたことに吃驚した。両手を上げて筋肉を延ばすと関節の至る所からポキポキと音が鳴る。

 今日は怜君の得意分野である数学を一緒にやっている。彼が成績優秀なのは噂で聞いてはいたが、教える面に於いても秀でていて、まるで家庭教師のようだ。クラスのみんなの前で先生に聞くよりもずっと良い。とりあえずお昼にしようか、と彼が言うから、私も腰を上げてキッチンへ向かう。このアパートは食料がまだ全然ない。それもそうだ、だって40日しかここにいる予定がないのだから。

 まだ温かいケトルのスイッチをONにして沸騰を待つ間に、引き出しの中にあったカップラーメンをふたつ手に取り、包装ビニルを破く。共同生活初っ端からカップラーメンとは如何なものかとは思ったけれど、彼も特段不満そうではなく「ありがとう」と言っていたのでまあいいか、と言うことにした。すぐにケトルがポコポコと音を立てだしたので、蓋を半分まで剥がし、箸を四本取る。だんだんと勢いを増したケトルはゴトゴト、と獰猛に震え、頂点まで達したところで、スイッチが自動的にOFFに切り替わる。すっかり息絶えたかのようなケトルを手に取り、順にお湯を注いだ。後ろから怜君が「じゃあ、57分で3分だね。」と言っている。蓋を入念に閉め、上に箸を2本ずつ置く。既に、カップラーメン特有の空腹を刺激する香りが鼻に来た。


「怜君って、教えるのもうまいんだね。」

「地頭が悪いぶん、もともと疑問も多いから、紗月ちゃんの“分からない”が分かるのかも。あー、自分もそう思って分からないときあったな、って。そのおかげかな?」

「そんなことないよ、怜君頭の回転速いし言葉の選び方もうまいもん。理解しやすい言葉を選んでくれてる。」

「そりゃあ、教えてる立場の人が小難しいことばっかり言ってたら、分かるものも分からなくなるよね。」

「先生たちに聞かせてあげたい、その言葉。」

「でも、紗月ちゃんは文系得意だったよね?」

「まあ…国語だけなら得意かも。」

「羨ましい。理系ってある程度は記憶と反復で何とかなるけど、国語って正直センスが大きいから。」

「読書すると自然に身につく気がする。私、小さい時から読書が好きだったから…。」


 怜君の携帯から3分を知らせるアラームが鳴って、ハッとする。なんだか、今、すごく喋ってた。初めて会話したあの日からは、確かに畏怖や緊張は無くなってはいたけれど、やっぱりどうしてもぎこちない空気が流れている気がしていた。つい調子に乗ってはいなかったかな、と恥ずかしさで俯く。熱さに負けないよう注意しながらカップラーメンをひとつ持とうとすると、いつの間にか横に来ていた怜君が私の顔を覗いている。

 思わず、息が止まる。


「紗月ちゃんの好きな本、僕も読んでみたいな。」


 ふふ、といつものような穏やかな笑みを浮かべて言う彼に、私は気持ち背中を仰け反らせながらも、わかった、と答えることしか出来なかった。怜君は自分のカップラーメンを手に取ると「けっこう読むの遅いんだよなあ」なんて、呑気に言っていた。

 いただきます、と手を合わせて蓋を完全に剥がすと、湯気が空気中に分散される。猫舌なのか持ち上げた麺に向かってふうふうと息を吹きかける怜君を尻目に、高鳴る鼓動をどうにか抑えながら「いだだきます」と呟いた。

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