第8話

 ああ、きっと、こうして人の心は死んでゆくのだな―――と、思ったことは、ある。


 持っていた一等大きなバックに、下着類や衣服を出来るだけ詰め込んだ。夏という季節のおかげで、薄着で済むものだから想像していたより衣服を連れていけるように思う。勉強道具はまた別のリュックに入れる予定だ。ジッパーを閉めて、立ち上がると長く胡坐をかいて準備していたせいか、身体の節々が痛みの声を上げた。誰一人ノックのしてこないこの部屋は、そういえば随分と居心地の良いものになっていた気がする。ここに居れば嫌味を言われることもなく、疎外感に唇を噛むこともなく、あからさまな軽蔑に心臓が冷えることもない。かと言って、幸せかと言われればそれはまた別問題ではあるが、心の平穏が保つことのできる数少ない場所であることに間違いはなかった。

 明日、家を出ていくと言うのに、家族からは何かしらも言われることはなかった。当たり前だけど、と付け足すことで足元が崩れそうになるのをどうにか助ける。もう慣れた、はずだ。比べられる悲しみも、呆れられる苦しみも、期待されない虚しさも。私だけ、あの家族に馴染めない切なさに、いったい幾度生きることすら辞めたくなったかは覚えてないけれど、けれど、そう考えると、かけがえのないチャンスなのではないだろうか。

 今日学校で配られた夏休みの課題らをまずはリュックに投入していく。それだけで中身の半分は埋まったものの、その後は優先順位の高い教科書からひとつひとつ差し込む。私が全て持っていかなくてもきっと怜君が持っているだろうし、無理しなくてもいいかもしれない。小さな隙間に筆箱を押し込めば、歪な形ではあるものの何とか良い具合に収まったようだ。

 明日から、私は彼と暮らす。たったの40日間、過ごせば、全て、元通り。自分に言い聞かせるかのごとくその言葉を反芻した。だけど、電気の明かりを消すと、途端に明日が怖くなった。本当に元通りなのだろうか。私は、逃げているのだろうか。それとも向き合っているのだろうか。何を以て、私は行動を起こすのだろうか。強い動悸と存在感を示す手の汗を自覚してしまうと、余計に不安を駆り立てる。どうにでもなれ、でも、願わくば平和に。と念じたところで、いつしか眠りについていた。




 朝目を覚ますと、微睡む視界とともに、思考まで重く鈍いものになっていた。そういえば、今日、怜君の日か。ゆっくりと思い出して、そして、突然頭が目覚める。昨晩は結局いつ眠りについたか覚えていないけれど、随分遅かったように思う。あんなに恐れていた今日が、今、手中にある。喝を入れるように、力の入らないまま拳を握った。

 カーキのTシャツと、何年着ているか分からないジーンズを身にまとい、パジャマを手に持って一階に降りる。パジャマ、と言っても中学校時代の体操服というなんとも冴えないものではあるが、しばらくは着ることがないと思うと、少し残念に思った。洗濯機に投げ入れて、そのまま歯を磨く。ちょうど歯ブラシも毛先が開きだしていたので処分するには良い時期だった。口を漱ぎ、その勢いで顔を洗う。太陽の熱に温められたのか水はぬるく、肌が驚かなくて良かった。一番手前にあったタオルを手に取り優しく顔に押し付ける。今日の朝ご飯はとりあえず食パンで良いかな。そう思ってキッチンへ行くと、白米の盛られた大きめの茶碗がラップに包まれていた。その上にはお茶漬けの素が置かれている。ごはんの温かい間にラップがされたのか、内側になまぬるい水滴がいくつもついていた。ラップを剥いで、90℃に保温されているポットからお湯を注ぐ。お茶漬けの素を開封し、少し中身が余ったものの、もう捨てることにした。きっと、この残りを使う人はいないから。

 朝食を終え、再度歯を磨いていると、由利が二階から降りてきた。後頭部には鳥の巣のような寝癖が残り、いつものような元気はまるでない。おはよう、なんて随分と言っていなかったけれど、もうしばらくは会えないから、なんて思うと、たどたどしくも「おはよう」と、勝手に口から飛び出していた。


「ああ、おはよ。」


 なんてことない、家族の挨拶だった。由利は当然のように言葉を返し、むしろ私の方が驚いてしまった。気を取り直してうがいをしに洗面台へ行くと、髪を梳きたい由利はその後ろをついてくる。何でもないはずこの状況に何故か緊張して、私は素早くうがいを終える。きっと、私にとっては何でもなくない状況だから、である。自室に戻ろうとしたところで、インターフォンからピンポン、と来客を告げる音が鳴った。


「誰だろ。お姉ちゃん出てよ。」


 言われなくともそうするつもりだ。嫌な予感がする。昨日彼は集合場所を先日のコンビニと言っていたけれど、私が逃げるんじゃないかと家まで迎えに来たのではないだろうか。高鳴る鼓動と共に動揺しつつも玄関のドアを開けると「おはよう」と朝日に負けないまぶしい笑顔で、怜君が待っていた。その、あまりの屈託のない表情に、彼の行動が予測できたことが悩ましくも、嬉しくも感じてしまう。ちょっと待って、と慌てて部屋から荷物を取りに行く。勿論レイ君は玄関の扉を閉めた向こう側で待っている。家族に見られでもしたらいろんな意味で大変なことになるだろう。一階に降り着くと、タイミングよく二階に上ろうとしていた由利と鉢会ってしまい、思わずたじろいでしまう。


「どうしたの?友達?」

「あ、うん、迎えに来てくれて!行ってくるね。」


 何故か、怖くて由利の顔が見られなかった。玄関に向かう中、ふーん、と興味があるようなないような口調が、背後で聞こえただけだった。


「ごめん待たせて。でも、コンビニで集合だったよね?それに時間も早いし…。」

「ああ。紗月ちゃんが怖気づいて逃げたら嫌だなって思って。でもちゃんと準備もして、そんなつもりなかったみたいだね。勘違いしてごめんね。」

「…ううん、いいの。」


 彼のその思考回路自体も、それが読めてしまった自分も、怖いと思ったけれど、そんな考えを振り払うように外の空気を噛み締める。なんてことはない、夏の朝の、まだ乾いた熱が喉に触れただけだった。

 変わらず照り付ける日差しは攻撃的で、せめて日焼け止めくらい塗ってから行けば良かった、と、怜君の透き通るような肌を見て、後悔した。

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