第6話

あの時、万引きなんてしなければ。と、何度も思った。けれど商品に手をかける悦は身体中を巡り気持ち良くさせてくれるのも知っているし、そうする事で日頃縛られ続けている自分から抜け出せるような開放感を得られることも嫌と言うほど分かっているから、きっと同じ結果になっていたんじゃないかとも思う。私は彼のことをあまり知らないけれど、彼は私のことを何でも知っているような気がした。私の考えていることは、すべて手に取るように彼には見えているのかもしれない。


「おはよう。」


誰かの声で薄っすらと意識を戻した。どこからかレジ袋がカシャ、と乾いた音を立てる。頬に押し当てられたものは、水滴のついたペットボトルだった。冷たさに驚いたものの、持ち主を見やると、そこに居たのは紛れもなく今日休んだ原因の張本人だった。

一気に目が冴えるものの、肝心の脳味噌は働いていないも同然だった。


「え、どうして…。」 


私の質問には答えず、「体調は良くなった?」と質問に質問を重ねられた。彼は今日も柔らかな笑みを浮かべており、その表情に一瞬我を忘れて頷いてしまいそうになる。

口を開かない私に、彼は持っていたペットボトルを私の枕元に置くと、私の額に手の平を置いた。柔らかく、温かい。きっと乱れてたのであろう、その指先で前髪を整えてくれている。


「熱はなさそうだね。さっき、妹さんが居たから、さつきさんの同級生ですって言ったら部屋にあげてくれたよ。不法侵入とかじゃないから安心して。」


頭を撫でる手は止まってはいない。逃げ場がない、と、思った。逃げるために学校を休んだのに、まさかある種の自殺行為だったとは。昨日彼は私に会いに来なかったから、今日だって、会いに来るなんて、考えもしなかったのに。

息がうまく出来ない。彼の次の言葉が怖い。喋るたびに動く唇が怖い。万引きしてたって皆に言う?家族に言う?学校は?脅して金でも強請る?皆に付き合ってるって嘘ついたでしょう?私の、これからをどうするつもりなの?聞きたいことは沢山あるのに、怖くて口を開くことも、目をそらすことすら出来ない。そんな心情を知ってか知らずか、変わらず私を見詰める彼は、ずっと微笑んでいる。まるで恋人に対する視線のようだ、と馬鹿なことを思う。


「ねえ、紗月ちゃんお願いがあるんだ。」


少し困ったように眉を下げた彼は、そう言って笑った。脅すようで悪いけど、と付け加えて。

ああ、きっと彼はこのまま優しい口調でとんでもないことを言うんだろう。そうして逆らえない私は甘受し、朽ち果てていくのだろうと、未来まで見えたような気がした。

誰に問うても自業自得、と返されるであろう己の行いは、それほどまでに重いものなのだ。声を出すのが久しぶりだったからか、それとも彼の存在に圧倒されたからか、きっと後者だろうとは思うが、「何?」と、ようやく絞り出した声は面白いほどに弱々しく、こんな場面でも笑ってしまいそうになった。


「夏休みの、1ヶ月とすこしだけでいいんだ。一緒に暮らしてくれないかな?」

「…え?」

「君のことが、好きなんだ。だから、駄目、かな?」


 もし、例えば場所が体育館裏だったとして、放課後だったとして、私が犯罪なんてやってなくて、彼もそんなこと知ってもいなくて、ただの男と女としての、告白だったなら、どれだけ嬉しかっただろう。彼にひっそり憧れる女生徒の多さ数知れず、私もその内の1人であったことに間違いは無いのだから。嬉しかっただろうし、「私も」と返していただろうし、恋人関係にもなっていたであろう。もし、の話である。

現実はあまりにも剥離していて、彼の1人照れる姿は違和感でしかなく、正直、頭がおかしいんじゃないかと思った。いや、それはずっと前から思ってはいたけれど。

ただでさえこんな冴えない女なのに、況んや万引きするような人間なのに、彼は私に可愛いと、キスをして、好きだと言った。嬉しさなんてものよりも、気味悪さのほうが先立つのは、至極当然な事象ではなかろうか。


「ごめんなさい、ちょっと意味が分からない…。私、万引きするような女だし、怜君もそれを見たよね?しかもこの状況で好きだなんて、嘘としか思えないよ。一緒に暮らすって言っても、お互い家族いるし…。」

「好きじゃなかったら万引きする前に注意してるよ。…安心して、部屋はマンションを借りてる。40日間だけ。誰もいないし、来させないから。一切嘘も付いてないし、ちゃんと本気だよ。」


彼は私の手を取ると、するりと指を絡める。やはり温かく柔らかいそれが、指先まで冷えた私のそれを少しずつ温めてくれているようだった。たとえ同じ温度だったとしても、冷えていればより一層温かく感じてしまう。ずっとずっと求めていたそれが、ようやく手に入ったとき、喜びはより大きいものとなる。

必要とされている、と感じたのは、随分と久しぶりのことだった。


「家族には、勉強合宿って言えばいいよ。40日、本当にそれだけでいいから、君と居たいんだ。きっと君は断らないだろうけど、もう一度答えてほしい。僕と一緒に暮らしてくれる?」


いいえ、という答えは、もう用意されてはいなかった。拒否権が無い、と言ってしまえば簡単だったが、それ以外の何かが、私の胸中を巡っていた。

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