第4話

 来るなと願った明日はむろん訪れる。悪びれるでもなく、あざわらうでもなく、淡々と訪れることを知っている。昨日の私の願は叶うこともないのも知っていた。

 しかし明日が今日になったことに、やはり絶望を感じるのは至極当然のことだった。

 形だけの事務的な「いってきます」、の挨拶に母は相も変わらず返事をしなかった。今までだってそうだったし、明日だってそうだ。私の発したその言葉にすら感情もなにもない。そう思えば、昨日の彼はとても、人間的だった。

 七時を過ぎると同時に家を出て、徒歩十五分程度歩けばいつも乗る電車には間に合う。夏の朝はそれが辛い。タオルを頭に垂らして、少しでも紫外線を避けようと影の下に移動する。今日も電車内は汗の匂いが充満しているのだろう。待ち侘びた駅の構内は異常な程に冷えていて、流れ出ていた汗が一瞬で氷る。寒さに肌をすりよせながら、定期を改札にくぐらせて、6番ホームに向った。階段を昇ると、先ほどまでの冷えた空気は散って、また蒸した熱気だけがたゆたうように残留していた。

 早めに着いたはずなのに既に列を成している。一番少ない列で足を止めると、じわり、と噴き出した汗が首筋を伝った。日焼け止めクリームはきっと亡き者同然だろう。バッグから先ほど仕舞ったばかりのタオルを取り出し、首元に滲んだ汗を拭う。額の生え際にも熱がこもっていて、正直いくら拭いたところで意味をなさない気がした。

 そうこうする間に目的の電車は車両を繋げて訪れる。順番通りに電車内に乗り込むと、ギンギンに冷えていた空気のはずが、人口密度が高い所為で生ぬるく変貌していた。まだ、取り出したタオルは必要そうだ。座席なんてものは既に埋まっている。吊革になんとかつかまって、何も考えずに学校に着くまでの時間は、唯一の安息とも言えた。このまま、電車が突然止まって学校にいけなくなればいいのに。なんて。

 何を言われるのか、何をされるのか。「わからない」というのは、一番怖いと思う。




「おはよう。」


 その挨拶に幾分か驚きながらも同じものを返した。普段、挨拶なんて交わさない間柄なのに、わざとらしい取り繕った人工的な笑みと、なにかを言いたいであろううねる口元。

 言いたいことがあるならばさっさと言え、「どうしたの」と聞こうとした寸前だった。


「紗月ちゃん、怜君と付き合い始めたんだってね。」


 脳裏で再生されたのは、紛れもなく彼の脣・舌の感触と背筋に走る「また明日ね」の悪寒。彼奴に対する拒絶反応で二の句も継げられぬ私に、図星だろうと彼女らは畳み掛ける。「おめでとう」「いつからなの?」「どっちから?」嘘だ。嘘なのに。総て偽物だと、言うのに。色恋沙汰に舌舐めずりをする者たちが、ここぞとばかりに集まってくる。言い訳も真実も発せれず狼狽えるけれども、彼女らはどういった手法で彼を手にしたのかを聞き出したいのだろう。私は、ぼやけた思考のままで足をひとつ踏み出す。ふたつ、みっつと人ごみを分けて手洗場に向かった。虚ろな目をしていたかもしれない。どうしたの、と誰かが小さく尋ねてきたけれどそれ以上は言及されはしなかった。吐く寸前だった。

 運良く手洗場は誰もおらず、縺れる脚を抑えて一番奥の個室に入り込んだ。崩れるように膝が落ちて、そのまま朝取り込んだ食物が口腔からごぽ、と溢れ出る。胃液と溶けかけの朝食。鼻を刺激する匂いと内臓への圧迫感に眉を顰めた。一定量吐き出し終えると、今度は寒気を感じる程の発汗に気付く。治ることを知らない鳥肌と、依然激しいままの動悸。たった、一度脣を重ねただけだと言うのに。

 彼の微笑みが、優しい口調が、力強い握力は、私を脅えさせるには十分過ぎるほどだったのだろう。彼はいつ学校の生徒に根回しをしたのか。どうして朝から知られていたのか。また、教室に戻ればイロモノのように好奇心と野次馬根性の孕んだ目線を向けられるのだろうか。誰も、私を無視してはくれないのか。

 昨日までは「教室の生徒」だった私しが、ひと晩で特異な存在に変わったのだ。彼―――怜という、ひとりの男によって。


 その事實に、眠りかけた嘔吐感が再びゆらりとこちらを向いた。

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