第3話

 私が通う学校で彼のことを知らぬ者は、きっといない。見目も愛想も素行も良い、先生にも生徒にも好かれるような人格者らしい。「らしい」、で終わるのは、私は同じ学年だけれど彼のことは詳細まで存じ上げてはいないから。ただ名が知れていることは知っている。友人だってすれ違えば目を追っていたし、ふとすれ違った際にいいにおいがした、なんて思ったこともある。怜、と愛情を込めてそう呼ばれる彼に、羨望の眼差しを向けたりもした。彼のことすべては知らないけれど、知らないから、だから、彼との口付とはきっと女の子の夢で、私の妄想のひとつでもあったのだ。


 柔らかな感触――元い彼の両の脣が私の下脣を吸う。その引っ張られる感触とともにするりと絡められた手、指先。私のよりも大きな手で、逃げられないほど強く掴まれる。


「――っ、」

「…可愛いね。」


 脣を離した彼は、恍惚とした表情でそう囁く。私は、声も出せずにいた。

 頭が、おかしいのではないか、と。だって、ろくに話したこともない相手に?万引していた女に?見目も良くない女に?かわいい、だなんて。背筋に何かが這っているのかと思うほどの悪寒と、危機感。

 逃げろ、と誰かが言っている。


「…離して!」


 気づかぬうちに小さく震えていた手に神経を集中させて、確かに彼の胸元を強く押した。ひとつも冷静では無かったけれど、幸い彼は少しよろめき後退したので、慌てて玄関のドアノブに手を掛ける。ガチャリ、助かる音がして開く。

 良かった。嬉しくて泣きそうになる。


「また明日、ね。」


 背後から聞こえた声にふたたび力が抜けてしまいそうになるのを堪えて、全速力で走った。エレベーターじゃ追いつかれそうな気がしたから、階段を飛ぶように降りて、自動ドアをこじ開けて走った。炎天下と呼ばれる日差しの中、死にたくないと涙をこらえながら連れてこられた道を辿って家まで駆け抜けた。自宅にようやく到着すると、勢い良く玄関を開けて、すぐさま鍵を掛ける。実際に駆けた時間は10分にも満たなかったように思う。けれど、地獄のように永延かと思ったし、まばたきのように刹那的でもあった。背を預けた玄関はとても冷えていて、火照った体をちょうど良く冷やしてくれているようだ。こんなに死ぬほど走ったのは初めてかもしれない。

 酷く荒れた呼吸の私に、偶然自室に戻ろうとしていた妹は「何してんの」と冷えた声でそう告げたのみだったが、その冷えた言葉すら、安心して思えた。居心地の悪いこの家で、初めて、今、家に帰ってこれたんだ、と思えるから。


 彼の唾液が付着したであろう口元を赤くなるまで擦りながら、思い出す。

 明日ね、と言った彼はきっと笑っていたに違いない。口元を拭う腕はひどく震えていた。脅える私をどう感じたのか。

 明日が来るな。ひたすら、そう 願うことしかできなかった。


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