六章3

「おかえりアイちゃん、ガーゼルさん」

 帰宅した俺とアイレスを、ジーナさんが笑顔で出迎える。

「思ったよりも早く帰ってきましたね」

「いつも遅いわけじゃないわよ、あたしだって」

 アイレスも笑顔で応じる。心の底から笑っている、とは見えなかった。

 アイレスの空元気には気づかないらしいジーナさんは、可愛く両手の指先を合わせて俺に向き、

「ガーゼルさんのお部屋、掃除しておきました」

「ありがとうございます」

 俺がしみじみジーナさんの優しさに心中で感心していると、アイレスは一早く応接室のノブに手をかけていた。

「アイちゃん、そのお部屋まだ掃除してないよ。私の手際が悪くて、ガーゼルさんのお部屋が初めてで……」

 そんな伏し目になって肩身が狭そうに言葉を切らないでくれ。初めてで、のとこで切ったらなんか妙にエロティックだからやめてほしい。

「ジーナ、あたし寝るから適当にやっといてくれればいいわ」 

明後日の方向に俺の思考が集中している間に、それだけジーナさんに告げてアイレスは応接室に入っていった。

「わかった、アイちゃん」

 アイレスの背中にジーナさんが言った。ドアが閉ざされる。

 まだ夕飯には時間が早いので、俺も自室に上がろうと階段に足をかける。

 と、不意に俺の服の裾をジーナさんが引っ張った。

「ガーゼルさん」

「ん、なんですか?」

 俺が問い返すとジーナさんは視線を上向けうーん、と呻って考え込む。

 何を言うか決めてから、呼び止めてくださいよ。

「ガーゼルさんは大きいのは好きですか?」

 はあ? 

「大きいって何の? というかいい加減服から手を離してください」

「ごめんなさい、つい掴み心地が良くて」

 くすくすと笑い、掴んでいた手を離す。

「そういえば掴み心地は大きのと小さいの、どちらがお好みですか?」

「いやだから何の?」

 てんで会話が噛み合っていない。こっちの質問に答える気が窺えません。

「太いのと細いのは?」

「何かを教えて! そうじゃないと俺も答えようがない」

 俺が声を荒らげると、ジーナさんは自分の唇に人差し指をくっつけて、

「静かにしてください。アイちゃんが寝てるんですよ」

 もう寝入ったのかどうかは疑わしいが、やかましいと眠れないのは当たり前だ。

 なので俺は声量を抑えて、

「それで大きいとか小さいとか太いとか細いとか、何の話なんです?」

 俺の質問にうふふ、とジーナさんはたおやかに笑い声を漏らす。

「悩むのでしたら、いっそのことまとめて好きってことにしておきましょう」

「は、はあ。ジーナさんが納得いくのならそれでいいですけど」

 比較対象が何なのかわからないので、悩みようがないんですがね。

「ガーゼルさん、買い物に行きましょう」

「はあ、買い物?」

 話題が急に転換しすぎて、ジーナさんの質問についていけない。

 そうです、とジーナさんは頷いて、

「アイちゃんのお部屋の掃除が終わったらですけど、夕飯の買い出しを一緒に行きませんか?」

 まあさっきの質問に比べると。別段意図が謎というわけじゃない。それに買い出しくらいなら断る理由もない。

「いいですよ、付き合います」 

快く俺は誘いを受け入れた。

「支度が済んだら、外で待っててくださいね」


 玄関前で待つことしばし、白のブラウスに着替えてハンドバッグを提げたジーナさんが出てきた。

「アイちゃん熟睡していました、このままずっと眠っていそうなくらいです」

「相当あいつ、疲れてたんだな」

「ふふっ、可愛い寝顔でした」

 嬉しそうにまなじりをたるませて笑った。すると何かを見つけた様子で目を見開く。

「ガーゼルさん、袖のところほつれてます」

「えっ」

 ジーナさんがはしなくも目の前に接近し、片手で俺の腕を持ち上げて袖を見つめ、もう片方の手でバッグから糸切り狭を取り出した。

 俺の顔の真下に亜麻色の頭があって、頭髪のきめ細かさが目で認識できるくらい近い。

 何でこんなドキドキせにゃならん。

「これでよし」

「あ、はい」

 惑乱して訊きそびれたが、何故糸切狭がバッグの中に?

「ジーナさん、それいつも持ち歩いてるんですか?」

 俺は糸切狭を指さして尋ねる。

「お父さんが服装とかに無頓着なので、ソーインググッズはバッグの中にいつもしまってあるんです」

 そういうことか、なんとも用意周到な。

「それじゃあ、行きましょ」

 俺はジーナさんと並んで、市場のある目抜き通りに繰り出した。

 人の行き来がめまぐるしい目抜き通りの市場をいそがしく露店を見て歩きながら、俺の隣で慣れた歩調で店々に目を配るジーナさんに声をかけた。

「何を買うんですか?」

「献立用の食材ですよ、なのでいろんなお店を回ります」

「献立は何にするんですか?」

「実はまだ決めてません」

 そう言って照れ笑い。

「いつも歩きながら考えてるんです」

「そうなんですか」

 その後しばらく、簡単な受け答えや俺の田舎での思い出話などで会話を弾ませながら市場を歩き回る。

 ふとジーナさんが足を止めた。目を細めたその横顔はすごく険しい。

「どうしたんですか?」

 ジーナさんは野菜売りの露店の前で、彼女の頭部よりゆうに大きいカボチャと無意味ににらめっこをしている。

「ガーゼルさん、今私はこのふてぶてしいカボチャと睨みあってるんですよ」

「……それして、なんか起きるんですか?」

 ジーナさんは顔をさらに険しくして、

「ふてぶてしいお野菜は私が許しません」

「野菜にふてぶてしいもなにもないような」

 俺は野菜棚の後ろに立つ、粗い髭面で小太りの男性店主に目を向ける。

 ジーナさんの鳩胸を鼻の下を伸ばして、穴があきそうなほどじっと見下ろしている。

「ガーゼルさん」

 ジーナさんが不満げな顔で振り向いた。

「このカボチャ、私にお金を払えって言うんです。値段が高すぎます。とてもふてぶてしいです」

 食べ物の値段が高いのは売る人が原因なわけで、カボチャはふてぶてしくないだろ。しかも間接的なクレームだし。

 店主が目に見えて血相を変える。

「なんだいお嬢ちゃん、わしが手塩にかけて育てた野菜に文句つけようってのか?」

 ドスの利いた野太い声で、ジーナさんをねめおろす。

 怒ってるなと感じ取って、俺はすぐさま小太りの店主に詫びる。

「すいません、連れもそういうつもりで言ったわけでは……」

「このカボチャ、表面があちこち傷ついてます。なのでもっと安くして売るべきです」

 おい!

 ジーナさんのねちっこいクレームによって、俺のフォローは呆気なく水泡に帰した。

 店主とジーナさんは片意地の張った目つきで睨み合う。

 どうやって仲立ちしようと俺が模索していると、店主の男性がふっと鼻を鳴らして目線を横に外した。

「お嬢ちゃん」

 店主は息苦しい間を置いて言った。

「とあるゲームに挑戦して最高記録を塗り替えられたら、このカボチャをタダでくれてやるよ」

「何に挑戦すればいいんですか?」

 ジーナさんの瞳に闘志らしきものが輝く。何、むきになってんの。

 店主は大仰に腕組をして、

「ヤサイチチノセチャレンジだああああ!」

 ヤサイチチノセ? なんだ、それ。

 ジーナさんも理解に困った様子で眉を顰める。

「聞いたことありません」

「そんならルール解説させてもらう」

 店主は気障な動きでジーナさんの鳩胸を指さす。

「ヤサイチチノセっていうのはな、その名の通り野菜を胸の上に載せることだ。今の最高記録は十一個だ。嬢ちゃんには十二個以上を目指してもらおう」

 なんて益体のない。しかも十一個も載せた人いるのかよ。

 俺は不機嫌顔のジーナさんに、肩をすくめてみせる。

「ジーナさん、無理にこれをやる必要ないですよ。他の店行きましょう?」

 しかし俺の予想に反して、ジーナさんはごうじょっぱりに首を横に振った。

「ガーゼルさん、これは大値引きのかかった好機なんです。フェルナンド家の家計管理人として絶対に譲れないんです、逃せないんです」

 ジーナさんは力強く拳を握り、厳然と決意を固めた。 

こんな阿呆な遊戯に意地を張らないでくれ__逃げよう。

何事かと周囲がざわめき出したので、俺は野菜を買うためにたまたま居合わせただけの他人を装って立ち去ろうと身体を翻す。

その時、俺の肩を後ろから誰かが強く掴んだ。恐る恐る肩を掴む腕を追っていくと店主の厳めしい髭面に行きつく。

「男なら戦いの場に女を置いて逃げるな」

 むなしくて泣きたくなった、でも努めて堪えた。

 市場にいたもの好き達が、興味本位で愉快に寄り集まってくる。

 俺、学校行けない不体裁になっちゃう。入学前から珍奇なレッテルは貼られたくない。

 いたたまれなくて落ち込んでいると、店主がジーナさんに言った。

「ここの野菜ならどれでも使ってかまわないし、載せる時に誰か手を貸してもらってもいい」

 店主の言葉に、俺はぞっとした。

 ジーナさんが俺に顔を向ける。きりっとしたジーナさんらしからぬ表情で。

「ガーゼルさん、できる限り小さくて積み上げられそうな野菜を選んでください」

 狙う気だ、新記録狙う気だ。

「わたしも載せやすく崩れにくい体勢をとりますね」

 わたしもって、俺を協力者扱いしないで。自分の意思でここに立ってるわけじゃないんだけど。店主に男の仁義みたいなの押し付けられて逃げられなくなっただけだ。

 俺の心中での訴えなど聞こえる由もないジーナさんは、顎を突き上げ背を逸らしたわわな胸の下に両腕を組んで押し上げた。

 見事にクッションみたいに柔らかそうな平面ができる__感心している場合ではない。

 俺はもうやけになって蛮勇を振って、見た感じ最も小ぶりな野菜を手に取った。

 赤い球形の野菜だが、寄っている胸と胸の間の溝に四つ置くことができた。

 次、行こう。

 細長い橙色の野菜を、さきほど置いた球形の野菜の両端に二本ずつ。

 次、行こう。

 ここからが厄介だった。選択肢として房状で深緑色の手の平より幾らか小さい野菜、典型的な球根の形をした紫色のこれも手の平より幾らか小さい野菜。載せられるのはその二種類で、その他の種類は載せるには大きすぎた。

二種類で四つ載せなければならず、その組み合わせはごく少ない。

俺は精一杯頭をひねるが、いい胸してるねぇとか、代わりに胸を支えといてやろうかとか、悪趣味な野次が周囲のどこそこから飛んできて無性に俺は苛々してしまって、最善の方法が思い浮かばないのだ。

 その時、ジーナさんの微かな吐息で俺は我に返る。

 ジーナさんの呼吸が息苦しそうで小刻みだ。どうやら胸の平面を保つために肺を大きく動かせないらしい。

 ジーナさんの息が続かなかった場合でも、載せた野菜が転がり落ちて、この阿呆な遊戯は失敗に終わる。

 俺は乾坤一擲、野菜を掴んだ。

 房状の野菜、球根型の野菜、二つずつ。

 野次が沸騰する。構ってられるか。

 球根の形の野菜を房状の野菜で包込むように載せた。

 おおっ、と周囲から驚きの声が漏れ、野菜売りの店主が身を乗り出し右手を掲げ三本指を立てる。

「スリー、トュー」

 球根の形の野菜がぐらりと半ば傾く。倒れるな!

「ワン」

 球根の形の野菜は元の位置を戻った。倒れなかった。

「フィニッシュ!」

 店主のこのチャレンジの終わりを告げる大声が響いた。

 ほっと息をついたジーナさんの胸から、積載した野菜がこぼれ落ちた。

 市場にくだらない喝采が、大いに沸き起こった。


 阿呆な遊戯の記録を更新して、歓喜にニンマリとカボチャを店主から受け取ったジーナさんを、俺は衆人環視から逃れるため市場の外に引きずっていった。

 近くの通りの路傍まで来て、ようやく俺はジーナさんの手を離して向き直った。

「なんであんな愚にもつかない挑戦を受けたんですか?」

 やけに疲弊した俺は、呆れ返って尋ねる。

 カボチャを大事そうに両手で抱えるジーナさんは、きょとんと見つめ返してだしぬけに唇をへの字に曲げる。

「カボチャしかないので、カボチャの料理しか作れません」

「いいですよ、全品カボチャ料理で。とにかく話を逸らさないでください」

 俺はカボチャをテーマにしたいわけではない。

 ジーナさんは首を傾げる。

「このまま帰ってしまったら、へとへとのアイちゃんを一人にできません」

「まさかアイレスを一人にさせたくて、俺を買い出しに誘ったんですか?」

 気づきもしなかったジーナさんの思いやりに、俺は驚いて訊いた。アイレスの空元気を見抜いていたのか。

 そうですとジーナさんは頷き、

「アイちゃんがお昼から寝るって言った時は、一仕事終えてすぐですから。邪魔せずに寝かせてあげたいんです」

 普段の柔らかな微笑みでそう言う。

「それにアイちゃんにもっと危機感を持ってもらいたいですし」

「危機感?」

 俺のオウム返しの質問に、ふふっと含み笑い、

「その質問に答えることはできません。女の子だけの秘密です」

 そんな意味ありげにはぐらかされても、余計に詮索したくなるだけだ。答えられないなら我慢するけど。

 ジーナさんはそれでと話題を変えて、

「ガーゼルさん、アイちゃんとの探偵のお仕事どうでしたか?」

「どうでしたって、具体的に何を話せばいいんだろう」

 探偵仕事を手伝うという名目で俺はあいつに付き従ったが、とにかくたくさんこき使われた。思い返してもアイレスの一方的な言いつけが目立つ。

「どうでしたか?」

 繰り返し尋ねてくるジーナさんに、俺は曖昧に答える。

「まあ、楽しくは……ないけど、アイレスが明晰だってのはつくづく思い知ったよ」

「そうですよね、アイちゃんはとっても頭良いです。だからアイちゃんは気付いていると思いますよ」

「何にですか?」

 珍しく口の箸を引きつった邪悪な笑みを浮かべる。

「仕掛けてきました」

「何をです?」

 ひっひっひっ、と悪役みたいな声音の笑いで告げる。

「爆弾です」

 はあ?

 ジーナさんの見え透いた演技に、俺は半笑い。

「はは、爆弾って。何の比喩なんですか?」

「信じないんですね、平和な人です」

 俺を愚弄するような冷え切った瞳。だんだんと悪役の演技に磨きがかかってきている。

「なんなんですか、その妙に迫力のある目は。誰の真似ですか?」

 すっとジーナさんの表情が消える。

「アイちゃんは私がやったんだって、すぐに気づくはずです」

「うん?」

「それより爆弾ですよガーゼルさん、アイちゃんが目覚めた瞬間に悲鳴をあげてドカンですよ」

 俺を脅かす冗談としては、信憑性に欠ける。

「またまた」

「早く行ってあげないと、アイちゃんが目覚めちゃいますよ。家ごとドカンですよ」

 笑い飛ばそうとした俺の言葉に被せて、声でジーナさんが言った。

 嫌に真剣みのある声質だった。

「ジーナさん、まさか本当に……」

「私が犯人です」

 そこで俺の脳裏に彼女が所持していた糸切り狭を思い出す。あの鋭さ、充分に凶器

として機能する。他にもソーインググッズと呼んでいたものは、別の凶器も所持している暗示。

 ここで対面しているのは殺人犯。自ら正体を晒してきた。ジーナさんが事件の犯人、なんで____。

俺は一歩身を引いた。怖気づいたのだ。

「ガーゼルさん、顔色が悪いですよ?」

 首を傾げて、ジーナさんは疑問形で言った。

「くそっ」

 それだけ吐き捨てて、俺は通りを全力で駆け出した。

 死に瀕したアイレスの待つ、自宅へと。

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