六章2
アイレスに従って俺達が赴いたのは、乗換駅であるクルチョワ駅だ。東西南北の四路線を有したこの駅では当然人の行き来も多く、駅員や乗務員も乗客の一人一人を覚えている者はいないだろう。
そんな犯人の特定には不向きな駅で、アイレスは何を調べようというのか?
「ガーゼル」
無駄に広い駅の構内を歩き回りながら、アイレスが俺の肩をつついた。
「何だよ?」
「興味深い二人連れがいるわ」
そう言ってアイレスが指さした方を見る。
一つ左のホームに手を繋いで立つ若い男女。どちらも気品ある服装をしており……といきなり男の方が手を離して女を抱擁し唇を合わせた。
「てっ、どこが興味深いんだよ。熱烈なだけじゃないか」
俺が馬鹿馬鹿しさを感じて強く言うと、アイレスは真面目な顔で人差し指を立てる。
「ああいうシチュエーションでは男側が強引にいくべきものよ」
「……どうでもいいよ。そんなことより事件の捜査だよ」
何の目的でアイレスが駅に俺達を連れてきたのか、はなはだ疑問だ。
こういうときにチャールズ巡査長が指摘してくれよ。そう思って俺が背後の警官二人を振り返ると、
「チャールズ聞いたか、アイレス嬢ちゃんの話」
「聞きましたが、何か?」
「さっきのは多分、アイレス嬢ちゃん自身の欲望だぜ」
「はあ、私は興味ありませんので。それより私の友人である政治家のジョセフが……」
「政治家の話なんて聞きたかないね」
などと噛み合わない会話をしていた。
あんたら警察だろ捜査に集中しろよ、と思ってしまうのもやむを得ん。
警官二人の会話が聞こえていないらしいアイレスは、何かを探して構内をきょろきょろ見回し始めた。
「何を探してるんだ。他の男女連れか?」
「違うわよ、駅員よ」
「どうして?」
「ピットフォー行きの時刻が知りたいのよ」
「だから駅員を?」
そういうことと頷いたアイレスは突然駆け出して、構内をせわしく歩いていた駅員に声をかける。
駅員に何かを尋ねて聞き出すと、どこか満足げな表情で戻ってきた。
「切符売り場前に時刻表が貼ってあるそうよ」
「アイレス嬢ちゃん、時刻表なんかが犯人と何の関係があるんだ?」
巡査長と会話していた警部が、質問する。
アイレスはもったいぶらせるような笑顔を浮かべた。
「大ありよ、アレックス。行ってみればそれもわかるわよ」
そうしてちょっと歩いて切符売り場に来ると、アイレスはその真向かいの壁に貼られた時刻表に目を走らせた。
「何の路線の時刻表を探しているのですか?」
巡査長が紳士的に訊く。
「ピットフォー行きよ。前に確認して乗ったはずなんだけど、表とか苦手なのよ」
「北の路線ですから、ここの列です」
巡査長が指でなぞった列をアイレスは順番に見ていき顎に手を添えると、それからは始発と終発の時刻に目を往復させる。
「そんな熱心に眺めて、何かわかったかアイレス嬢ちゃん?」
「ええ、一応」
ようやく時刻表から顔を離すと、アイレスは俺達に向き直り言った。
「始発はピーター・ベイル、終発はギャレット・ヤングが帰る時に乗った列車の時刻よ」
「そういえば、あの二人言ってたな」
俺はベイルさんとヤングさんの話を思い出して、合点がいき頷く。
巡査長が首を傾げる。
「その情報は知りませんでしたが、どう犯人と繋がるのですか?」
「それはあれだろ、ピットフォーとフリデルの駅でこんな男が降りたか、どうか尋ねるんだろ」
警部がさもありなんと意見すると、アイレスは大きく溜息をついた。
「バカねアレックス。そんなこと駅員がわざわざ覚えてるはずないじゃない」
「それは同感だけど、何で始発と終発の時刻が犯人に繋がるんだ?」
俺が尋ね直すと、アイレスはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、口の端を僅かに吊り上げる。
「聞きたい?」
俺と警部と巡査長は同時に頷いた。
アイレスが端を吊り上げた口を、おもむろに開く。
「ピーター・ベイルとギャレット・ヤング、どちらがラビアン・ドレスなのか見極めるためよ」
「ええっ、じゃああの二人のどっちかが犯人なのか?」
俺は度肝を抜かれて、つい大きな声になってしまう。
アイレスは残念だけど、と切なそうに頷く。
「ロリスさんとクリスが見た女性の姿が変装だとすると男性にも殺害は可能だし、あの部屋に入れてもらえたのは知り合いだけということをふまえると、この二人に絞られるの」
「あの二人が人を殺すなんて思えないよ、しかも被害者と親しい関係なんだろ?」
アイレスが遠くを見るような視線で、
「殺人っていうのはほとんとが人見知りの犯行なのよ」
「そんな……」
悲しいことと俺は喉がつっかえて、最後まで言葉を口にすることができなかった。
アイレスがさて、と時刻表に背を向ける。
「次、やることが決まったわ。地図を作るわよ」
はあ?
フャーガ警部にクルチョワ警察署から便箋用の紙と鉛筆を持ってこさせたアイレスは、駅の出入り口で立ち止まり、その紙の右端に丸点を記し点の中にSと書き込んだ。
「何、これ?」
俺が不思議に思って尋ねると、紙を俺と警部と巡査長に見せる。
「このSは駅よ」
「こんなもの描いて、どうするつもりなんだ?」
警部が訊く。
「どうするつもりって、駅の他にアパートメントとホテルと公園を書き込んで移動時間を測るのよ」
「各箇所間の移動時間とさきほどの時刻表を照らし合わせるのですか?」
「そのとおりよ巡査長、それじゃあ三人とも時計を出して」
俺と警部と巡査長はアイレスの言われたとおり、めいめいに懐中時計を取り出した。
まさか待ってるから測ってきて、とか言い出すのだろうか。
「警部は公園からアパートメントとアパートメントからホテルまで、巡査チョーは駅からホテルとホテルから公園まで、ガーゼルはあたしと一緒に公園まで、終わったら公園の入り口で合流しましょう」
「わかったぜ、アイレス嬢ちゃん」
「理解しました」
警部と巡査長は頷いて、時計を手に持ちそれぞれ別方向に向かう。警部にいたっては走り出した。
アイレスが俺の袖を引っ張る。
「あたし達も行くわよ」
「引っ張るなよ、アイレス」
現時刻を確認して俺とアイレスも歩き出した。
ちょくちょく経過時間を確認しながら歩くこと十分。並んで歩くアイレスが公園の入り口で足を止めた。
「何分かかったかしら」
「十分だよ」
「そう、ありがと」
素っ気なく礼を言うと、紙を手のひらに載せその上に鉛筆を走らせ始める。
駅を表すSの丸点から一本線が中央に伸びてまたも丸点を描くが、その点の中にはPを記した。
「公園のPか?」
「ええ、そうよ」
続いて伸ばした線の下に移動時間の数字の『10』を記した。
アイレスは地図を作る、と言っていたが駅と公園の位置に何らかの意味があるのかどうか、俺にはわかりそうもない。
鉛筆を紙から離したアイレスは、顔を上げる。
「アレックスと巡査長が来るまで待ちましょう、そう長くはかからないでしょうし」
それきりアイレスは、目の前の往来を黙って眺めている。
推理をしているならば他愛もない話で邪魔するのも悪いので、俺は沈黙を保って見るともなく行き交う歩行者を見流した。
「向かいにパン屋があるわね」
「……あ、ああ」
黙っていたアイレスの唐突な言葉の出だしに、俺は寸分遅れて相槌を打つ。
俺の方に視線は移さず、アイレスは独り言のように続ける。
「あそこのパン屋にはいつも推理の手助けをしてもらってるわ」
俺は通りを挟んで斜めにあるパン屋を見る。
推理の手助けって、どういうことだ。まさかパン屋の主人が元探偵とかか? それとも犬の嗅覚を持つ人種とかか、後者はないか。
「お父さんは捜査に行き詰まると、よくあそこのパン屋で焼き立てのイングリッシュマフィンを買って、公園の木陰のベンチで休んでたのよ。よくあたしも一緒に食べたわ」
俺は昨日の、トランクを掘り出すちょっと前の事を思い出す。
そういえばあの時アイレスは、行きたい場所と言って公園に来てベンチに座った。俺にパン屋に買いに行かせたのも何らかの意図があったのかもしれない。
そう考えた出した俺の眼前で、警察の制服をきっちり着た細身の男性が立ち止まって、手に持つ懐中時計に金壺眼の目を落とした。
「おおよそ十五分ですね」
チャールズ巡査長だった。
「何分かかったかしら?」
アイレスが尋ねると、巡査長は時計から顔を上げ、
「駅からホテルがニ十分、ホテルからここまでが十五分です」
「そう、ありがと」
微笑んで礼を言うと、アイレスは紙に鉛筆また走らせ始めた。
俺の時は素っ気なかったくせに、巡査長の時は微笑むのか。俺ってまだ穀潰しのろくでなし、だと思われてる?
左端に丸点を描きHを書き入れ、Sの丸点から一本線を伸ばし移動時間の数字『20』を記す。Hの丸点をからPの丸点まで、同じく一本線を引き移動時間の数字『15』を書き入れる。
「これが地図ですか、移動時間とおおよその位置関係しか書かれていませんが?」
「他の情報は不要よ。やみくもに情報を書いても読みにくくなるだけだもの」
そう何気なさそうにアイレスは答える。
そしてしばらく三人で警部の到着を待っていると、通りの右から野太い声が激しい呼吸混じりに聞こえてきた。
「測ってきたぜ、アイレス嬢ちゃん」
俺達の近くまで来ると、小刻みに肩で息をしながら警部が言った。
「公園からアパートメントまでが十分、アパートメントからホテルも十分だ」
「そう、ありがとアレックス。ホテルからここまで走ってきたんでしょ、よくピンピンしていられるわね」
「軍隊にいたからな。体力には自信があるんだぜ」
そう言ってニヤリと笑い、警部は親指を立ててみせた。
アイレスは紙の上方に丸点とその中にAを描くと、Pの丸点から直線で結んで移動時間の数字『10』を書き込み、Aの丸点とHの丸点も線で繋いで移動時間の数字『10』を書き込んだ。
「完成したんじゃないかしら」
自作の簡単な地図を見つめて、アイレスが満足げに言った。
「この地図から何が導き出されるのですか?」
巡査長が尋ねた。
「あんた達、とことん鈍いわね」
そう言うってことは、この地図にはもう答えが出てるってことなのか?
アイレスがHの丸点に指を置く。
「まずは犯人がとった行動から説明するわね。最初犯人はクリスが被害者が部屋で一人になったのを確認してホテルをチェックアウト」
指がAの丸点に移動する。
「次にアパートメントに立ち入り、部屋に入る前に変装を脱ぎ一人でいるアリシー・アルベロアを殺害し、変装し直して公園に向う。ここでロリスさんにアパートメントから出るところを見られたが、変装していたからさして問題はないわ」
指がPの丸点に移動する。
「犯人は変装に使った道具を、トランクごと公園に埋めて駅に向かう」
指がSの丸点に移動する。
「そして犯人は終発に乗って帰った。さあ、ここまででかかった時間は?」
アイレスは地図を覗き込む俺と警部と巡査長を振り返って、子どもに問いかけるみたいな顔で笑った。
え、突然クエスチョン? ええと犯人が行動にかかった時間は、ホテルからアパートメントで十分、アパートメントから……。
「移動時間だけで三十分、さらに部屋に押し入り殺害する時間と公園にトランクを埋める時間が加わる、それで正解ですよね」
巡査長が素早く答える。
「三人の中ではあんたが一番、鋭いわね」
「お褒めいただき光栄です」
一人の少女に仕切られてるのが悔しくないのか、巡査長さん?
アイレスは指をHの点に戻して、
「第二のルート。犯人が公園でトランクを埋めるところまでは一緒。そこから公園とホテルを結ぶ通りを通ってホテルに戻る。ここまでにかかった時間は?」
「三十五分と殺害とトランクを埋める時間、ですね」
またも巡査長が答える。
アイレスは頷き、
「そうよ。そして、ここの通りにはジョンテ・ハートさんのお宅があるわ」
「誰だあ、それは?」
警部が聞き知らない人物の名が出てきて、間が抜けた表情で尋ねる。
私も聞き覚えありません、と巡査長も警部に同調した。
アイレスの横顔が億劫そうに歪んだ。
「ジョンテ・ハートっていうのはピーター・ベイルが材料を仕入れてる卸商人よ。十数年の付き合いらしいわ」
「ふむふむ、それでそのジョンテ・ハートのお宅がどうしたんだ?」
「事件の夜、ピーター・ベイルが注文に訪れたそうよ」
「……事件と何も関係ないんじゃないか?」
アイレスが警部を振り返り、据わった目で見る。
「話が進まないじゃない、わかりきったことばかり訊かないでくれる」
「すまん」
潔く警部は謝った。ねちねち不平を垂れないので男らしい。
「それでハート宅に出向いてから犯人はホテルに行った。合わせて五十分くらいで見積もっていいわね」
アイレスの説明に俺は背筋に氷の汗が張り付いたような、嫌な予感がした。
俺は気付いてしまった。恐々とアイレスに尋ねる。
「それだとピーターさんが犯人ってことになるよな?」
「そうなるわね」
あっさり肯定した。
信じられない。温厚の文字が似合うあのピーターさんが殺人犯。何かの間違いであると思いたかったが、非情にもアイレスは付け加える。
「しかもラビアン・ドレスがホテルをチェックアウトした時刻は二十一時一分、ピットフォー行きの終発は二十一時三十分で途中フリデルにも停車する。つまり終発に乗ったヤング・ギャレットは被害者をアパートメントで殺害し公園にトランクを埋めて駅に向ったら間に合わないのよ。でもピーター・ベイルならば一時間後にホテルにチェックインしている。一時間ならば、殺害しトランクを埋めてハート宅を訪ねてホテルに向かうこともできるわ」
アイレスの推理に疑問の余地はないと思う。事件の真相解明などに携わった経験がないので、自信を持っては言えないが。
警部も納得がいったらしく繰り返し頷いている。
「あの……」
文句なしと頷ける雰囲気になっていたが、巡査長が恭しく口を開いた。
「犯人はほぼ特定できましたが、不明瞭な事実が一つ残っています」
「変装でしょ、巨乳の」
「そうです。変装に使用されたコートとウィッグは発見できましたが、犯人が男性ならばどのような方法で女性の胸部を再現したのでしょう?」
巡査長が不可解な点に気付いて問いかける。
ああ、そういえば。ロリスさんとクリスは犯人の特徴に、胸の大きさを挙げていた。どれだけ念入りに変装しても易々と男性が作り出せるものではないだろう。
シャープな推理で犯人を言明したアイレスが、きつく唇を噛んだ。
「悔しいけど、それだけは暴けないの。想像もつかないし、手掛かりさえ見つけられてないもの」
「そうなりますと、犯人の検挙も困難になります。決定的な証拠がない限り、いくらでも弁明が可能ですから」
巡査長が渋面を作って言った。
「チャールズの言う通りだぜ、アイレス嬢ちゃん。変装してまでも人を殺めた奴だ、絶対に言い逃れをするに決まってる」
「そんなの、わかってるわよ」
肩口までの短い髪を振り乱してアイレスは叫んだ。力任せに顔の前で紙をくしゃくしゃに圧し潰して、
「これ以上あたしに訊かないで。全部がわかってるわけじゃないのよ。どう考えても何も絞り出せないし、どう事実を組み合わせても何も導き出せない。もう頭がパンパンよ」
警部があたふたと、
「投げやりになるなアイレス嬢ちゃん」
「あなたにもわからないのですか。あなたなら謎をすべて解いているとばかり、エモンに似た推理の解説でしたので」
巡査長は落胆を言葉に示した。
そうだよな、アイレスにだってわからないことはあるよな。いくら難解な謎を解いてみせたとしても、疑う余地のない完璧な推理を立てることができたとしても、アイレスが一人の少女であることは違いない。だからわからないことだって当然あるんだ。
それを何でも知っているみたいにアイレスに頼りきりで、俺はアイレスの役に立てていただろうか?
「もう考えるのやめるわ」
不意にアイレスが呟く。
「あとのことは警部と巡査長に任せるわ。あたしはお父さんとは違ったの、遠く及ばないの。だから、これ以上は力になれそうにないわ……帰りましょうガーゼル」
アイレスは物憂げな微笑を湛えた。
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