六章

六章1


眩しい陽光に、俺は目を覚ました。

「……もう朝か」

 昨日は大変歩き回り心身ともに疲れて、すっかり熟睡していた。

 ベイルさんの店で買った枕での寝心地は、想像を絶する良質さだった。おかげで昨日の疲れが嘘のようになくなっている。

「買って正解だったな」

 あの時の自分の判断は功を奏したわけだ。たまには自分も信じてみるもんだ。

 ベッドに腰かけて満足感に浸っていると、ドアが優しくノックされた。すぐに外から声が聞こえる。

「ガーゼルさん、起きてますか?」

 毎朝、食事の番をしてくれているジーナさんのたおやかな声だった。

「今、起きたところです」

「やっとですか。アイちゃんはもう起きてきてますよ」

 すねた調子でジーナさんが言った。

「すいません、すぐに下に行きますんで」

「早くしてくださいね」

 俺は急いで着替え、階下へと降りた。

 リビングに入るとジーナさんが、トーストを齧るアイレスを愛玩するような目で眺めていた。

「おはようございます、ガーゼルさん」

 所定の席についた俺に、アイレスから顔を上げたジーナさんが朝一スマイルを向けてくる。ジーナさんはすでに食べ終えているようで、皿の上は空だ。

「ぐっすり眠れましたか?」

「そうじゃなかったら、とっくに起きてるよ」

 俺が苦笑いを返すと、口に手を添えて上品に微笑む。

 近頃アイレスの高笑いばかり見ていたからか、この手の笑い方は妙にほっこりする。

「もう焼けてますから、お皿ください」

 ジーナさんは俺の前の皿を手に取ってキッチンに向い、オーブンを開ける。

 焼けたトーストの香ばしい匂いが漏れ出て、リビング内に漂う。いやはや一般家庭のトーストの匂いとしては世界一かもしれん。

「はい、ガーゼルさん」

「どうも」

 皿にオーブンから出したトーストを載せて、俺の前に置き戻す。

 俺は狐色にこんがり焼けたトーストを摘まみ持って、早速一口齧る。

「うん、やっぱり美味しいや。朝はジーナさんのトーストに限るね、前まで食べてた母親のトーストが比べ物にならないよ」

 母親のトーストが不味いわけではなく、ジーナさんのが美味しすぎるのだ。

「ありがとうございます、そう言っていただけると私も作る甲斐があります」

 こちらこそ毎食任せきりで申し訳ない。でも得意料理のスープだけはもう勘弁だ。

「ジーナ、ガーゼル」

 知らないうちに最後の一口を飲み込んで、無感情な声でアイレスが俺とジーナさんに呼びかける。

「なんだ?」

「なあにアイちゃん?」

 俺とジーナさんを交互に見つめて、アイレスが唇を尖らせる。

「のけ者なの、あたしは?」

「のけ者? そんな扱いをいつした?」

「そうだよ、アイちゃんも会話に入ってこればいいよ」

 途端にアイレスがあああ! と喚く。

「なんであたしから入っていきゃなきいけないのよ。雰囲気良すぎて入り込む余地がないわ」

 意味不明なアイレスの弁論に、俺とジーナさんは顔を見合わせる。

「そんなこと言われても、なあ?」

「良い雰囲気とか、よくわからないよアイちゃん」

「ジーナが鈍感なのは仕方ないとして、ガーゼル。あんたジーナに手え出したら容赦しないわよ」

 何故俺を脅す? わけがわからん。

 アイレスは目を怒らせて、俺を咎める。

「それに少しは家計に貢献しなさい。稼ぎもしない家事もしない、とんだ穀潰しよ」

「わかったよ、今日あたり働き口探してみるよ」

 俺が真面目に答えると、威勢をなくしアイレスはポカンとして、

「そ、そう、それならいいわ。が、頑張んなさい」

 といきなりばつ悪そうに俺から顔を逸らす。

 着弾する前に撃ち落された銃弾みたいな、そんな気の変わりようである。

 その時、アイレス嬢ちゃん! と聞き覚えのある胴間声が玄関からした。

「あら、お客さんですね」

「どうせ警部よ、あたしが出る」

 席を立とうとしたジーナを制して、アイレスが玄関に向った。

「警部さんってことは、また事件のことなんですかね?」

 心配顔でジーナさんが俺に訊いてくる。

 俺は口に含んでいるトーストを飲み込み、

「そうだと思いますよ。ジーナさんの嫌疑は晴れましたけど、犯人は未だに判明してないですから」

 俯いてジーナさんが言う。

「探偵の仕事って危険がいっぱいなんですよね?」

「うーん、俺手伝ってたけど危ないことなんて一度もなかったですよ」

「アイちゃんがエモンさんみたいにならないなら、それでいいんです」

 ジーナさんの口からエモン叔父さん名前が出るのは初めてだ。探偵の仕事で行方不明になった叔父さんの事を考えると、ジーナさんの心配も理解できる。

「今回は大丈夫ですよ」

 少しでも心配を和らげてあげよう、と俺はジーナさんにそう言った。

 アイレスがせこせこした足音を響かせて、玄関から戻ってきてリビングに顔を見せる。

「ガーゼル、今すぐ出掛ける準備しなさい。依頼よ」

 唐突に告げてくる。

「え、依頼?」

「そうよ、警察から。例の事件よ」

「ああ、わかった」

 アイレスは応接室に入っていった。俺は頷いて椅子から立ち上がる。

 例の事件、アパートメントの殺人事件か。警察も一介の少女を頼らねばならないほど手詰まりしているということか。しかしなんで俺まで……一度関わったら最後まで付き合えってことか?

「ガーゼルさん」

 ジーナさんが俺を呼び留める。

 俺はまだ朝食の途中であった。当然、トーストは食べかけである。

 俺はジーナさんに詫びる。

「すいません、食事の最中に出掛けるなんて」

「いえ、食事のことではなくて」

「じゃあなんなんです?」

 出掛けるついでにあれ買ってきてくださいとか、これ届けてきてくださいとか、それともさっきまでの会話から察するにアイレスのことを心配しているのか?

「ガーゼルさんのお部屋、掃除しておいてもいいですか?」

「掃除、あ、はい、お願いします」

 なんだ部屋の掃除か。何を言い出すのか無駄に緊張してしまった。

「早くしなさい」

 仕度を済ませたアイレスが応接室から出てくる。昨日と何一つ違いのないダブダブのツイードの上着に身に包んでいる。

 俺はふと感じた疑問をぶつける。

「アイレス、それ昨日と同じ服だろ。洗わずにまた着てるのか?」

 俺の疑問を聞くなり、アイレスは顔を赤くして憤慨する。

「そんなわけないでしょうが、三着あるのよ三着。お父さんの私物」

 そうだったのか、てっきりアイレスのファッションセンスなのかと思ってた。エモン叔父さんのだからサイズが合ってないわけか。


 玄関の外で待っていたのは予想通りのフャーガ警部と、もう一人意外な人物。

「どうも、フェルナンドさんにシルバさん」

 折り目正しく俺とアイレスに一礼したのは、細身で謹厳そうな金壺眼の警官、チャールズ巡査長だった。

 警部とは何もかも対照的に見える彼が、どうして警部と同伴しているのか?

 俺が尋ねる前に、警部が問わず語りに話してくれる。

「こいつがアイレス嬢ちゃんを見込んで、直々に捜査の協力をお願いしたいんだそうだ。それで俺が連れてきたわけだ」

 なんとジーナさんが犯人だとしてアイレスと対立していた巡査長が、昨日アイレスがジーナさんの無実を証明してみせると、あっさり手腕を認めて助力を申し出に来るとは。

 事情を聞いてアイレスは尊大に鼻を鳴らし、

「小娘って言ったこと訂正してないわよね。これからはどう呼んでくれるのかしら? アイレス王女? アイレス姫様? アイレス王妃?」

 なんで全部、王族に関係するんだよ。やはり増長してるんじゃないか?

 アイレスの要求に巡査長は申し訳なそうに手を挙げ、

「失礼ですが、今はそのような所望をされても困ります。こちらは真剣に捜査の協力をお願いしているのです」

 と誠実にあしらわれた。巡査長本人はあしらっている意識があるかどうか不明だが。

 むっと不満そうにアイレスは、ぴしりと立つ巡査長を見上げる。

「ユーモアよ、本気じゃないわ」

「……君の推理を聞きたい。犯人は誰ですか?」

 アイレスの軽口を聞き流して、巡査長は単刀直入に尋ねる。

 アイレスはおどけたように肩をすくめた。

「さあ、誰でしょうね」

 巡査長は愕然と見つめ返す。

「犯人の重大証拠を探し出し、あまつさえその証拠品から犯人が変装していることを看破したあなたが、わからないと言うのか」

「だって推理なんて面倒だもの。ジーナの無実さえ証明できたら、あたしは充分なの。でもね……」

 左足を踏み出し右手を腰に当て、うなじを見せつけるような角度で首をひねって巡査長を睥睨した。口元をあくどい笑みで歪ませ、

「報酬次第じゃやってあげなくもないわよ」

 挑発的なアイレスの態度に気が立つ様子もなく、巡査長は告げた。

「構いませんよ、いくらがご希望で?」

「うっ、な、なんなのよお」

 お堅い返答しかしない巡査長に地団太を踏むアイレスの目尻に、微かに悔し涙らしき雫が輝いた。思い切り俺を振り向き、

「ガーゼル、なんなのよこの人の冷淡さ!」

「俺が知るかよ」

 うんざりとアイレスの言葉を跳ね返すと、アイレスは悔しげに両の拳を固めて歯ぎしりした。

「事件を解決して、高額請求させてやるわ」

 あーあ、むきになってるよ。俺もう知らね。しかもめんどくさい。

 無言で家の中に戻りたくなって身を翻すと、逞しい腕が俺の肩を掴んだ。

「坊主」

 野太い声で俺を引き寄せた警部が、ぐっと顔を近づけ囁く。

「お前さんがいねえと、アイレス嬢ちゃんが癇癪が起こした時に止められねえ気がするんだ。だから坊主、捜査についてきてくれ」

 救済を望むような双眼、ついていくしかないらしい。

「わかりましたよ」

「おお、助かる坊主」

 ほっとした警部の表情筋が緩む。

「ガーゼル、アレックス何話してるの。行くわよ」

 すっかり怒りの鎮まったアイレスが、俺と警部を促す。

 頼んだぞ坊主、と警部が肩を叩いて俺から離れた。

 アイレスへの言動には気をつけよう、そう思った。

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