五章4
威容だが落ち着いた意匠のファサードの警察署に駆け込んだ俺とアイレスに、入り口近くにいた爽やかな雰囲気の若い警官が、恭しく話しかけてくる。
「どうかされましたか?」
「アレックスは?」
アイレスが性急に、若い警官にフャーガ警部の所在を尋ねる。
若い警官がアイレスの顔をじっと見て、はっと目を大きくする。
「あなたはもしかして、エモン・フェルナンド探偵の娘さんの、アイレス・フェルナンドさんですね。フャーガ警部から話は聞いてますよ。アパートメントの殺人事件を捜査してるそうですね」
この警官よく見ると、俺がアイレスと買い物に出掛けた日に、事件現場であるアパートメントの外で警部に報告をしていた人だった。
目の前の若い警官は、怪訝そうに俺の持ったトランクを凝視する。
「彼の持つトランクは?」
「証拠品よ」
アイレスがきっぱり答える。
若い警官の顔に驚愕が走った。
「証拠品。アパートメントの殺人事件のですか?」
アイレスが頷くと、若い警官は身を翻し、
「警部を呼んできます、待っててください」
と傍のドアを開けて急ぎ足で入っていった。
少ししてそのドアが開くと、中から先程の警官とフャーガ警部が俺達の前に現れた。
「話は聞いたぞ、アイレス嬢ちゃん。証拠品を見せてくれ」
「あ、これです」
証拠品の提示を求めた警部に、俺はトランクを渡した。
途端に警部は目が怪訝そうに細める。
「なんで土がついてるんだ?」
「公園の茂みの土から掘り出したからよ」
アイレスの返答でますます理解に困った様子で、警部は首を傾げる。
「公園の茂み? 掘り出した? 何が言いたいんだアイレス嬢ちゃん」
「何って、そのままよ」
「ふーむ、お前わかるか」
警部は傍らに立ってトランクを見つめていた、若い警官に問うた。
若い警官は首を振る。
「いいえ、さっぱり話が見えません」
二人の警官が揃って考えあぐねる。
その様子を見て、見かねたようにアイレスがトランクの蓋を叩く。
「中身を見れば、すぐにわかるわよ」
フャーガ警部と若い警官は揃って顔見合わせ、疑問符を浮かべたような表情でトランクの錠を外し蓋を開けた。
「ん?」
フャーガ警部が目を凝らし中身を取り出して、詳しく確認する。次の瞬間、顎が外れんばかりに口を大きく開けて度肝を抜かれたようだ。
「警部、これはおそらく……」
若い警官が真面目な口調で告げようとする。しかしそれより先に警部は頷いた。
「間違いない。犯人に繋がる証拠品だ」
言葉を失ったフャーガ警部と若い警官に、アイレスは得意顔で人差し指を立てて、
「ね、わかったでしょ。証拠品よ」
「確かに証拠品ではあるが、公園の茂みの土だったか、何故そんなところから出てきたんだ?」
さあ、とアイレスは肩をすくめる。
「あたしも理由はわからないの。ただ犯人が変装道具を詰めて、トランクを土に隠した事実が判明しただけ」
「となると、今までの特徴とされてきた金色に似た髪とロングコートは当てにならないわけだ」
若い警官が重々しく言った。
そういうことになると犯人はよけいに絞りにくんじゃないか? これはさらに解決が遠くなったような__。
俺と同じ考えに至ったのだろうか、警部が難しい顔をしてアイレスに尋ねる。
「だがよ、アイレス嬢ちゃん。この証拠は犯人に繋がるには繋がるが、このコートとウィッグはそこらじゅうで売られてる安物じゃねえか。どちらも持っている人だけを探し出していたらきりがないぞ?」
アイレスはふふっ、と薄く笑った。
「あたしの優先事項は犯人の特定ないしは事件の解決じゃないのよ。ね、ガーゼル?」
ああ、そうだ。さきほどから犯人に行きつこうとばかり思考を巡らしていたが、もとより俺達の目的はジーナさんの無実を証明することで、事件の犯人を割り出すことではないのだ。
ついつい雰囲気に呑まれて、俺も犯人の特定に頭を働かせてしまっていた。
そう思い出して、俺はアイレスに頷いた。
「そういうことよ、お二方。この証拠をあの鼻持ちならないやつれたゾンビみたいな警官に見せびらかして、ジーナの無実を証明して、あたしの方が優秀ってことを確定させるのよ」
その場面を想像したのか、アイレスはハッハッハッと盛大に高笑った。
やつれゾンビみたいな警官、とはおそらく三日だけ猶予をくれた金壺眼の警官のことだろう。そんなけったいなあだ名をつけていたとは、穀潰しと言われたのがましに聞こえてくる。
「アレックス、やつれたゾンビはどこにいるのかしら?」
アイレスが横柄な口調で尋ねると、警部は俄かに表情を曇らせた。
「それが、ジーナ・クロースに固執して張り込みをしているそうだ」
「なんですって!」
余裕を見せていたアイレスの顔が、途端に強張る。
「犯人の可能性は低いからやめとけと止めたんだが、念のためですと返されてはな」
「こうしちゃいられないわ。ガーゼル、今すぐイカレやつれゾンビを説得しに行くわよ」
「ちょっと待て……」
俺の制止を聞き流し、アイレスは脇目も振らず署を飛び出していった。
蔑称にイカレが追加されていた。どうでもいいが。
「坊主、追いかけるぞ。アイレス嬢ちゃん大事な証拠を忘れていったぜ。これなしでどう説得するんだろうな」
警部がトランクを掲げて言う。全くだ。しかもどこで張り込んでいるかも見当つかないと言うのに。
トランクを片手に走り出そうとした警部に、若い警官が控えめに訊いた。
「警部、私は何をすれば?」
「お前は自分の仕事に戻ってりゃいい」
早口にそう告げて走り出した警部に、若い警官はわかりましたと頷いた。
トランクの重さなど何のそので韋駄天を思わせる警部の俊足に、俺は全力で走って懸命についていった。
「忘れ物だ、アイレス嬢ちゃん」
さほどの時間もかからず大通りで追いついた俺と警部は、アイレスの進路を塞ぐように立つとアイレスにトランクを差し出す。
「これをなしにどう説得するつもりなんだ」
「……あっ」
ぽかんとアイレスが立ち塞がった俺達を見上げて、小さく声を漏らした。
しょうがない奴だ、とでも言うような目でアイレスを見て警部が嘆息する。
「突然に行動を起こすのはエモンそっくりだが、アイレス嬢ちゃんはどこか抜けてるっていうか天然だよな」
「だ、誰が天然よっ!」
薄っすら顔を赤くして、アイレスが反発する。しかし素直にトランクを受け取ったとこを見ると、本当にうっかりとトランクを忘れていったらしい。
「しかもアイレス嬢ちゃん、あいつが張り込んでる場所を知らないだろ」
「その通りなんだけど……ジーナがどうしても心配なのよ」
「気持ちはわからんでもないが、居場所を知らないと無駄足を踏むだけになるぞ」
警部がうなだれるアイレスを諭す。
「あいつの張り込み場所は俺が知ってる。連れてってやる」
「うん、ありがと」
しゅんとしてアイレスは頷いた。
警部が俺に向く。
「ついでだ、坊主もついてこい」
真面目くさった顔つきで、警部は俺の肩に手を置いた。
ついでなのかよ。まあ実際、俺はアイレスの手伝いでしかないので気にはしないけど。
そうして警部を先頭に少し通りを歩くと、横町に入る路地の角で警部が足を止めて振り向き、手ぶりで声を出すなと俺とアイレスに指示して、努めて小声で言う。
「あそこの角であいつの部下がジーナ・クロースの出入りを監視してやがる」
警部が指で示した方向、通りの反対側にある白塗りの建物の陰に潜んで、がっちりした巨躯の男が世俗的な服装で住宅群を眺めている。俺達の位置からは後姿だけ見える。
「しかしな、肝心のあいつ本人の姿が見当たらねえ」
警部が近辺を眺め回して、訝って呟いた。
警部は張り込み場所を知っていると言っていたが、警部の知らないうちに金壺眼の警官は張り込み場所を変更したのだろうか。
「ふひゃい」
背後に屈んでいたアイレスが突然、奇声を発して俺の服を強く掴み身体を密着させてきた。
俺は驚いてビクンと振り返る。
「いきなりなんだよ、アイレス」
「ぞぞ、ゾンビが」
アイレスは斜め上を仰いでぎょっとして声を詰まらせる。
ゾンビ? まさかと思って俺も見上げた。そしてはばからず叫んでしまう。
「うわああああ」
「何故あなた達がここに?」
気配もなく現れ出た、疑念に満ちた視線で俺達を見下ろしてくる人物、俺達が先程から探している金壺眼の警官であった。この人、どこから出てきたんだ?
「うるせえぞ。嬢ちゃん、坊主」
悲鳴を挙げて立ち上がった俺達に、警部は振り返って苛々とがなり立てる。
しかし警部も立ち上がり、その顔に驚愕が張り付いた。
「フャーガ警部、あなたまで何をしているのですか?」
「チャールズ巡査長、どこから?」
チャールズと呼ばれた金壺眼の警官および巡査長は、疑り深い目を警部に向けている。
「ついさきほど休憩から帰ってきたところです。 それで、警部は何をやっているのですか?」
「ああ、それはだな。お前を探してんだ」
「何故?」
「これだよ」
警部はトランクを掲げてみせる。
チャールズ巡査長は怪訝にトランクを見つめ、
「そのような物を落とした記憶はありませんが」
「いやいや、お前のだって言ってるんじゃね。このトランクはアイレス嬢ちゃんが持ってきた証拠品なんだ」
「ほう」
巡査長の目が、恨みがましい視線を自分に注いでくるアイレスに向く。
「君が発見したのか、犯人の証拠を」
「ええ、それが何か。あたしにとって犯人を暴くなんて二の次なの。ジーナの無実を証明するのが先なの」
憤りの籠った口調で、アイレスはそう告げる。
いいでしょう、と巡査長は頷き、
「確たる証拠か、この場で審査しましょう。その土まみれのトランクを貸してください」
この人の顔には、どこか余裕めいたものが感じられる。ジーナが犯人だという確信があるのだろうか。
警部がトランクを渡して付け足す。
「トランクの中身が特に重要だぞ」
「中身ですか……とりあえず見てみましょう」
トランク全体を執拗に手で触った後、片腕で支えて錠を緩めて蓋を開けた。
巡査長の金壺眼が大きく見開かれる。
「これは、信じられない」
「見くびってたでしょ?」
巡査長の反応を見て、してやったりとアイレスが胸を張った。
「これでジーナの無実は証明できたわ」
「どういうことです?」
純粋に疑問を持ったらしく、巡査長の眉根がひそまる。
確かにこの証拠で何故ジーナさんの無実が証明できことになるんだ? 血痕のついたコートと金髪のウィッグがどうジーナさんを助けるんだ? 薄々は理解できるが、どうも考えがまとまらない。
俺が質問をするより早く、アイレスが人差し指を立てて答える。
「考えてみなさい。コートとウィッグは犯人が変装していた証左よ。でもジーナは元々髪が亜麻色なのよ、似た髪色の上に似た髪色のウイッグを被せるのは変装にしては不自然。髪の長さだって同じぐらいだと思うし……」
そこでアイレスは言葉を切り、血痕のついたコートを両手で挟み持って垂らすように広げる。
「コートの胸辺りを見てみなさい。返り血の痕が全部真っすぐに付着してるもの。特にここの脇の部分、おかしいでしょ」
そう言ってアイレスは、コートの脇の下から横腹にかけてのほぼ点線みたいについた血痕に沿って指をなぞる。
何がおかしいのだ、ただの血痕じゃないか。
警部と巡査長もおかしいという理由がわかりかねている様子で、ひたすらに眉を寄せている。
アイレスはふふん、と自分だけが気付いていることを誇るように鼻を鳴らし、
「男にはわからないと思ったわ」
「えっ、男とか性別が関係するのか?」
俺がアイレスの思わぬ台詞に、目を丸くする。
大ありよ、と請け合ってアイレスは言った。
「犯人の特徴に巨乳があったでしょ。それがこの真っすぐな血痕と相違するのよ」
「どういうことだ?」
「何故だ、アイレス嬢ちゃん?」
「どうしてですか?」
全く理解が及ばない。
俺と警部と巡査長は揃って考えあぐねる。
「ジーナみたいな巨乳の女性って大体脇の下がふっくらして丸い曲面になってるのよ。大きすぎるから。そこに血が斜めに飛び散ったら血痕が真っすぐになるはずないでしょ」
俺は呆気にとられた。そんなこと想像できるわけがない。
「とすると犯人の胸は本当は大きくないと?」
巡査長が尋ねる。
「ええ、そうよ。犯人の特徴はことごとく変装によるものよ。これでいいかしら、ジーナの無実の証明は?」
「恐れ入りました」
感服したように巡査長が言った。
アイレスは口角を上げて、さも満足げに笑う。
「あたしを誰だと思ってるの、名探偵エモン・フェルナンドの娘よ。どんな謎でも解いてみせるわ。はっはっ」
片手を腰に当てて高らかな笑声で増長……いや、自信を持った。
「チャールズ、今すぐジーナの張り込みをやめなさい。そしてジーナへの嫌疑を取り消しなさい」
高慢な態度で、自分よりも頭一つ分背丈のある巡査長に言いつける。
アイレス、お前はなんの権限で命令してるんだ。
「はい、今すぐ張り込みを中止させます」
と巡査長は人が変わったかのようにアイレスに従順になり、こちらのやりとりなど知りもせず張り込みを続ける巨躯の部下に近づいていった。
「これでジーナも元気を取り戻すわ」
巡査長が部下を連れて去っていくのを眺めるアイレスの横顔には、心からの安堵が見て取れた。
そのすぐ後、フャーガ警部は署に戻るとのことでその場で別れ、アイレスのジーナの家で夕食、の誘いに喜ばしい気持ちで応じて、ジーナさんの宅で夕食をご馳走になった。
ジーナさんはアイレスが無実を証明した旨を伝えると、アイレスに抱きついて子どもみたいに喜んだ。
ちなみにご馳走はジーナさんに加えジーナさんのお母さんも振る舞ってくれた。親子二人での調理風景は実に微笑ましいものだった。余談だがジーナさんのあの鳩胸は、母親からの遺伝とみた。
頬がとろけてしまいそうな夕食を味わい、疲れて眠たいから帰ると言い出したアイレスと同伴して帰宅、何をするでもなく俺も床に就いた。
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