五章2

 ホテルを出ると、アイレスが俺に告げる。

「行きたい場所があるんだけど、付き合ってくれるかしら」

「別にいいけど、どこにだ?」

 俺の問いに、アイレスは焦らすような笑みを浮かべる。

「着いてこればわかるわよ」

 また教えてくれないらしい。なんでこう秘密主義なんだ?

 アイレスは事件のあったアパートメントが面する大通りを歩き出した。アイレスの後ろを着いていく。

 しばらく大通りを歩くと、ふとアイレスが口を開く。

「今日入れてあと二日よ」

 脈絡のない話の出だしだ。

 金壺眼の警官がアイレスに与えられた猶予の事だろう、俺は頷く。

「そうだな」

「早く、ジーナの無実を確定させる証拠が欲しいわ」

 珍しく弱気に呟く。

 俺は何を言ってやるべきなのかわからず、黙って聞いていた。

 アイレスに着いて歩いているといつの間にか、街の中央にある芝生の公園の中に入ってきていた。

「ここだわ」

 芝生の間を縫う道端で、アイレスが木陰のベンチの前に立ち止まる。

「ここに来たかったのよ」

 懐かしむようにアイレスはベンチを見据えた。

 行きたい場所が、まさか公園のベンチとは。甚だアイレスの思考は窺い知れない。

「座りましょ」

 アイレスはベンチに腰を下ろすと、優しく微笑んで自身の隣へ俺を促す。いつものつんつんしてる時のアイレスではお目にできない表情だ。

 何故そんな表情をするのか気になるが、俺は疑問を交えず腰かけた。

「涼しいわね」

 そう落ち着いた声で言って、木陰を成している枝葉の広がりを振り仰ぐ。

「ちょっと肌寒い気がするけどな」

 葉擦れの音を鳴らした風に、俺は身の寒さを不意感じる。

 なによそれ、と不機嫌にアイレスが睨む。

「あんたには風情ってものがないの?」

「風情ねえ、俺がそんなことを気にする男だと思うか?」

 俺は尋ね返してみた。

 アイレスが人は嘲るように目を細める。

「思わないわ、あんたの感性は田園風景に偏ってるもの」

 その言葉に俺は肯定も否定もせず視線を外した。俺は極力田舎出身だとばれないようにしているのだから、これ以上田舎者いじりはやめて欲しい。

「ガーゼルはさっき、あの窓から何が見えたのかしら?」

 真剣な面持ちでアイレスは訊いてくる。

「何って事件のことだったら、マンションの通りが見えたな。そのこととが事件にどんな関係があるんだ?」

 アイレスは俺の質問に、思わずと言った感じに噴き出す。

「それも見えたけど実に惜しいわ」

「他になんか見えたのか?」

 笑われたことよりも、アイレスが他に気付いた事柄の方が気になる。

「答えてあげてもいいけど、その前にアルベロア親子の住んでいた部屋が角部屋ってことを含めて何が見えたか、自分で考えてみなさい」

 角部屋?

 俺は窓から見た景色を思い出してみるが、角部屋に関連しそうなものを探すが思い当たらない。

「ほんとにわからない?」

「ああ」

 俺は観念してアイレスに向き直った。

「あの窓からアルベロア親子の部屋が見えた、それだけよ」

「外から部屋の中は覗けないだろ?」

 アイレスは違う違う、と首を振る。

「覗くんじゃなくて見えるのよ」

 はあ、意味がわからん。

「ガーゼルは現場を見てないから知らないことだけど、アルベロア親子の部屋はワンルームでカーテンがベージュでとても薄かった。だから夜は外に光が漏れるのよ。夜に灯りを点けると当然部屋の中でも影ができる。ホテルのあの部屋からアルベロア家のカーテンに映った影で人数を判別できる」

 カーテンが薄いことなど現場を見ていないし、お前から聞かされていないのだから俺がその推理を考えつくはずがない。

 憮然とした俺にアイレスが人差し指を立てて言う。

「要するに、あの窓からはアリシーの在宅とクリスの外出がどっちも観察できるの。だから犯人はあの部屋に泊まったんじゃないかって、そう考えてるの」

 仮定に過ぎないし、犯人が特定できたわけでもない。

 アイレスもそれは理解しているのだろう、悩まし気に顎に手をやって熟考する。

「でもね、なんでわざわざクリスの前で近眼のふりをしたのか? それが謎だわ。近眼だとあの部屋の窓からマンションを観察することなんてできないものね。そうなるとラビアン・ドレスは視力が悪くないことになるのよ」

ああ、そうか。いくらホテルの窓から部屋の中が観察できるとはいえ、アパートメントが目の前というわけではないからそれなりの視力は必要だ。

 その時たまたま視界に、パンを包み紙ごと片手に持って食べながら歩くお爺さんが目についた。急に朝から何も食べていないことに気付いた。

「お腹空いたな」

 ベンチの背にもたれて呻吟するアイレスに、俺は唐突ながら話を振る。

 アイレスはゆっくりとこちらを向き、

「そういえば今日は何も食べてないわね」

「近いところで何か食べようぜ」

「買ってきて……」

 え、なんで?

 アイレスは俺達が歩いてきた道を指さして、

「その道を戻って通りに出た斜め向かいにパン屋があるわ」

「そこで買ってこい、と?」

 俺が確かめるように尋ねるとあっさり笑顔で頷き、ツイードの内から何かを手に掴み俺に差し出した。

「これであたしの分まで買ってきて」

 そう言われて俺はアイレスが差し出したばら銭を受け取る。クルチョワの物価がどんな具合かわからないが、たぶんパン一個は買えるであろう額だ。

「美味しいパンならなんでもいいわ、ここで待ってるから」

 最後に味覚センスが問われる注文をつけられた。後で買い直してこいとか言うなよ?

 俺はパン屋へ買いに行くことにした。


 俺が二人分のイングリッシュマフィンを買って戻ると、アイレスは忽然と姿を消していた。待ってる、と言っていたのにな。

 どこに行ったのか、周囲を見回しているとベンチの裏手の茂みが風もないのに揺れた。それに続いて、茂みから不安そうな男の子の声が聞こえる。

「どこに埋めたのかな、やっぱりわからないよお姉ちゃん」

 男の子のお姉さんであろう、男の子より少し大人びた声の女の子が励ます。

「お姉ちゃんも一緒に探すから、頑張って見つけよう?」

 その声を聞いたことあるような気がしたが、俺の耳は確実に個人の声を聞き分けるほど敏くないため別段姉弟の声は気にも留めず、アイレスを探して行き違いになるのも面倒なのでベンチに腰を下ろした。

 焼き立てでほんのり温かい、イングリッシュマフィンの包み紙を慎重に剥がすとパン特有の香ばしい匂いが鼻孔を快くくすぐった。

 俺は一口かじりつく。

 うん、美味しい。間に挟まれた少し焦げ付いたベーコンとスクランブルエッグがパンのまろやかさに絶妙に合っている。

 とそこでまた男の子の声が聞こえる。

「お姉ちゃん、もういいよ。後は僕一人で探すよ」

「一人で探すより二人の方が早く見つかるじゃない、お姉ちゃんは最後まで付き合うわ」

「でも、お姉ちゃん人を待ってたんじゃないの?」

「え、人? ああ、そうだったわ。ちょっと様子だけ見てくるね」

 お姉さんの方が弟さんに指摘されている。仲睦まじい会話だ。

 俺がそんな平和な感想をこっそり胸の中で呟いたのと同時に、茂みが割れて人が出てくる気配がした。

「あっ」

 後ろの茂みから出てきた、お姉さんらしい人が頓狂な声を挙げた。

 俺はその声に驚き、思わず頓狂な声を挙げた人物を振り返る。自分の目を疑った。

「ガーゼル?」

 探し物をする弟を手伝うお姉さんだと思っていた女の子は、小さく整った顔に土を拭った跡のあるアイレスだった。

 土で両手がひどく汚れ、ワンピースのスカートの膝部分にも土がこびりついている。何をしていたらそうなる?

 アイレスは自分のスカートを見下ろし、

「どこに埋めたのかわからないって困ってる子がいたから一緒に探してあげてたの、その子は今も探してるわ」

 顔を綻ばせて、そう説明する。

 俺は細く嘆息する。

「待ってるって言ったなら待っててくれ。突然いなくなるなよ。せっかく焼き立てのイングリッシュマフィンを買ってきたのに」

「何を挟んだの?」

 俺の不平を無視しアイレスは隣に座ると俺が手に持つ食べかけを興味津々に覗く。そして感心したように口角を上げる。

「焼ベーコンとスクランブルエッグね、田舎者なのにいいセンスしてるわ」

 ほんとに田舎者いじりをやめてほしい。

「あたしのも具材一緒かしら?」

「ああ」

 俺は頷いてアイレスの分を差し出す。アイレスは受け取ろうとして、急に手を止めた。

 自分の両手をじっと見詰め、

「土で汚れてるわ」

 憮然と眉を寄せる。

「こんな手じゃ食べられないじゃない、どうするのよ?」

 わけもなく俺に問い詰める。

「俺が知るかよ」

「なんとかしなさい」

「どこか手くらい洗える場所あるだろ?」 

 公園内を眺め回して、アイレスに尋ねる。

 そして俺は気付いていしまった、この公園思っていた以上に広い。見える範囲に手が洗えそうな場所が見当たらない。

「どこにあるのよ?」

 アイレスが俺を見据えて訊いてくる。俺は正直に答える。

「なさそうだな……」

「あたしもここのベンチしか使ったことないから、公園内の設備はとんと知らないわよ」

 手を洗う場所を知らないなら、わざと汚すなよ。

 そう文句を垂れたい気持ちではあったが、これ以上へそを曲げられても困るのでやめておくことにした。カフェの時のような仕打ちは嫌だ。

 思案するように俺と包みを開いていないイングリッシュマフィンを、アイレスは交互に見ると、つと決然とした表情になって言った。

「ガーゼルが食べさせて」

「え?」

 こいつは何を言い出す? 食べさせる?

 困惑して言葉を失った俺を、アイレスはじれったそうに睨む。

「食べさせてって言ってるでしょ、聞こえないの? 早く包み紙取って」

 アイレスの奇想天外な言いつけに、俺がどうすればいいのか断じかねていると、はいほらっ! と控えめに口を開けて俺の方に突き出し視線を避けるように目をつむる。

「お前の口に入れればいいのか?」

 他に考えられなかったが、確認をとらずにはいられない。

 しかし俺の確認はなしのつぶてで、その沈黙が気まずい。

 俺はもうやけくそ気味にアイレスの分のイングリッシュマフィンの包み紙を開いて、眼前の小さい口に挿し入れた。

 すんなり挿入してくれればよかったのだが、アイレスの口のけ具合が小さくてちょっと飛び出たベーコンだけ入って先に進まなくなってしまった。

「もっと口、開けられないか?」

 俺がそう要求すると、アイレスは嫌そうに開けた口を閉じてひん曲げ、顔を猛烈に赤くする。

「口の中を見られるなんて歯医者以来よ」

 そう憤然と言って、先程より大きく口を開いた。

 再度俺はイングリッシュマフィンを挿し入れる。今度はパンまで歯が行き届きアイレスは齧りついた。

「くぅー、美味しいわね」

 顔全体で笑顔になり、アイレスは咀嚼する。

 口に含んだ分を飲み込むと、自らすすんで先と同じように口を開ける。しかし、何故目を閉じるのか理解できん。

「ほら早く、ガーゼル」

 人の口に食べ物を挿し込むのは気分がいいものではないのだが、一度やった上で拒絶するのも裏切るような感じがしてお怒りになられたら面倒なので、アイレスが自分で食べてくれることは諦めて、また口に入れてやった。

 そうしてアイレスは俺の手によってイングリッシュマフィンを食べ終わると、急ぎの用でもあるようにベンチからすっくと立ち上がる。

 俺はお前のせいで食べ進んでいないというのに。

「ガーゼル、それを食べ終えたらあんたも探すの手伝いなさい」

 ええっ、なんで俺まで?

 不満が顔に出ていたらしく、アイレスは眉を顰めて詰め寄る。

「子どもが必死になって探し物をしてるのに、それを手伝わないなんて薄情の極みだわ」

 そこまで言うか、しかも俺達はジーナさんの無実を証明するのが優先だろ。

 俺が抗議の目で見つめ返すと、アイレスはむっとして、

「思わぬ証拠は思わぬ場所にあるものなの。だからこれも捜査の一環よ」

 無理矢理にこじつけて抗弁してくる。

 もう反論を考えるのが面倒くさい。

 俺は溜息交じりにわかったよ、と同意した。

「わかったならぱっぱと食べちゃって、あと一口でしょ」

 俺のイングリッシュマフィンはまだ半分ほども残っている。これを一口で、と言われても。

「は・や・く」

 変調な口ぶりで俺をせっつく。

これ以上機嫌を損ねて、イングリッシュマフィンをひったくられ芝の上に叩きつけられるのは御免だったので強引に詰め込んだ。自費で買ったのでなおさら食べたい。

「幹の根元を手当たり次第、掘り返しなさい」

 食べ終えた俺にそれだけ教えて茂みに入っていく。

アイレスに伴って俺も茂みを進むと、樹木が林立し緑の落ち葉で地面が埋め尽くされた空間が拓けていた。

「お姉ちゃん、戻ってきてくれたんだ」

 俺から見て左手の木の根元に、四つん這いになって地面を見つめていた男の子がそう叫んで俺達を振り返った。

年は六つか七つほどだろう、そばかすのついた顔に無邪気な笑顔を浮かべている。

「そのお兄ちゃんは?」

 男の子はアイレスに、俺のことを尋ねる。

 アイレスが男の子の前に屈んで、物柔らかく答える。

「あたしが待ってた人よ、あのお兄ちゃんも手伝ってくれるって」

「ほんと!」

 目を大きく開けて喜ぶ男の子にほんとうよ、とアイレスは穏やかに請け合った。そして立ち尽くす俺を見据え、

「あんたは右の方を探してなさい」

 と高圧的に命令してきた。態度に差がありすぎる。

「ねえねえ、お姉ちゃん」

 男の子が俺をはたと見つめて、アイレスの袖を引っ張る。

「なあに?」

 アイレスは微笑んで男の子を振り向く。

「このお兄ちゃん、お姉ちゃんの恋人?」

「いいえ違うわ。穀潰しよ」

 俺はアイレスの言葉に唖然と硬直した。

 内心ではそんな俺の事を風に思っていたのか、確かにお金も入れず食事だけ戴いているが、引っ越してきたばかりなんだから仕方ないだろ。

 突発的なセンチメンタルで呆然としていると、アイレスが俺を睨みつける。

「突っ立ってないで早く探す」

 はい、と穀潰しだと思われていただけに反駁する勇気がなく、素直になって頷いた。

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