五章

五章1

「ガーゼル」

 耳元で声が聞こえる。

「起きなさい、ガーゼル」

 その声が一段階高くなった。

「起きなさいって言ってるでしょ!」

 聞き覚えのある怒鳴り声に、俺は跳ね起きた。

 不機嫌なショートカットの髪の少女が俺を覗き込んでいた。アイレスだ。

「風邪ひくわよ、布団も被らずに」

 ああ、そうだった。俺は考え事をしていてそのまま眠りこけたんだ。

 ベッドから立ち上がり室内を見回す。カーテンの隙間から細く陽光が射していた。もう朝らしい。

「猶予は今日入れて、あと二日しかないのよ。ぐうたら寝ている暇があると思う?」

 俺は頷いた。確かに時間はない。

 だが寝ている時に、耳元で大声を出されると驚くのでやめて欲しい。

「さっさと着替えなさい、行く場所がたくさんあるんだから」

 アイレスは尊大に俺に言いつける。アイレスはとっくに外出の服装に着替えており、昨日と同じツイードの上着を身に纏っている。

 俺が着替えを出そうとタンスの引き出しに手をかけると、アイレスはあっと何か思い出したように声を漏らした。

「そうだ、ガーゼル」

「なんだ、事件のことか?」

「ジーナが朝来てくれなかったから朝食はナシよ」

 え?

 俺は服に袖を通したところで耳を疑い、思わずアイレスを振り向く。

 朝食がないだと?

「そんなに驚くこと?」

 愕然とする俺を不思議そうにアイレスが見つめ返す。

 当たり前だ。ジーナさんの作る朝食は一日の活力剤なのだ。食べなきゃ力が出ない。

 しかし俺の視線をどう勘違いしたのか、突然アイレスが頬を赤らめて言う。

「あ、あたしは作ってやらないわよ。別に作れないことはないけど、あんたのために作るなんて面倒だもの」

 誰もお前に朝食を作れと頼んでいない。

 ブルーな気分で俺は着替えを再開したが、アイレスは普段しないだけで作れるわよ、とかジーナには負けるけど作れるわよ、とかしつこく作れるアピールをしてくる。

「大体ジーナが上手すぎるのよ。あたしだって下手ではないから料理くらい作れるわよ」

「作れる作れる、うるさい。ツクレル星からやってきたツクレル星人か」

 着替えを終えた俺はそう指摘した。自分で言ってなんだが、ツクレル星人ってどんな星人だよ。

 アイレスは理解しがたそうに首を傾げる。

「何よ、ツクレル星人って。小説か何かの登場人物?」

「いや、俺も知らない」

「あら、そう」

 アイレスには実在しないものを使っての、ユーモアが通じないらしい。

 アイレスは部屋を出る間際、お馴染みの人差し指を突きつけて、

「着替え終わったなら、さっさとして」

 と偉そうに言いつけると、アイレスは早足で階段を駆け下りる。

「またホテルに行くわよ」

 階下に足がつくと振り返って言った。

 ホテルならば理由は聞かずともクリスだろう。俺は黙って従うことにした。


 アイレスはホテルのフロントに着くなり、髪の長い受付のボーイにこう掛け合った。

「見たい部屋があるんだけど、見せてもらっていいかしら?」

 ボーイは鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。

 目当てはクリスじゃないのか?

「あ、あのお客様。部屋をお見せするのは構いませんが、その後に泊まっていただかないと……」

「わたしは見たいって言ってるの。泊まりたいなんて言ってないわ」

 傲慢無礼にアイレスがボーイを言い立てる。

 ボーイはあたふたと、迷惑客アイレスの対応に困っている。

「しかしお客様、ホテルなのですから宿泊するところですよ。不動産じゃないんです」

「あんたと話しても埒が明かないわ。クリス呼んできなさい」

 アイレスは受付後ろの、スタッフルームに続くドアを横柄に指さす。

 当惑しっぱなしでボーイはスタッフルームに消えていった。心中、お察しします。

 少しして先程のボーイが、気弱そうな面立ちをした黒髪の青年を連れて戻ってきた。被害者の息子のクリスである。

「どうしたんですか、アイレスさん? また事件のことで訊きたいことが?」

 首を傾げてクリスが尋ねる。

 違うわ、とアイレスは首を左右に振り、

「見たい部屋があるの」

「見たい部屋、何号室ですか?」

「何号室って指定じゃなくて、ラビアン・ドレスが泊まった部屋が見たいの」

 ちょっと待ってくださいとクリスは、利用客の履歴が載った帳簿を出してラビアン・ドレスの名を探した。

「あっ、ありました。209号室です。今は空き室です」

「案内してくれるかしら?」

「先輩いいですよね?」

 クリスが背後で、アイレスをクレーマーを見る目で注視していた髪の長いボーイに尋ねる。

 ボーイは渋々といった表情で頷いた。

「それでは案内します」

「よろしく、クリス」

 クリスに先導されて、俺とアイレスは客室の並ぶ通路を進んでいった。

 案内された部屋は二階の通路の右端にあった。

「こちらです」

 クリスが足を止めたドアのプレートには209と刻まれていた。間違いない。

 ノブに手をかけてアイレスがクリスに訊く。

「ラビアン・ドレスが使ってからこの部屋は何人が使ったの?」

 クリスは思い出すように首を捻る。

「二人じゃないかな」

「二人ね、ありがと。それじゃガーゼル入るわよ」

 俺も入るのか。まあ、いいけど。

「ちょっと待ってください」

 俺達が足を踏み入れる直前に、クリスが差し止める。

「ベッドには絶対に触らないでください。シワができると面倒ですから」

「仕方ないわね」

 隅から隅まで調べるつもりだったのだろう、アイレスは憮然として受け入れた。ホテル側の苦労も考えろ。

アイレスはドアを開けて室内を眺め回した。

すると途端に室内を突っ切って、両開きのガラス窓を開け放った。勢いよく外気が吹き込んだ。

「アイレスさん、ダメですよ。外からの空気が室内を汚すんです」

 慌ててクリスが室内に駆け込んだ。

「少しなら問題ないわ」

 アイレスは開けた窓からクルチョワの街並みを一望する。

 クリスがアイレスの腕を引っ張り無理矢理窓から引き離すと、急いで窓を閉めた。

「客室の掃除ってすごく大変なんですよ。だから無駄に汚さないでください」

「口うるさいわね、髪の毛一本も落ちてないほど丹念に掃除されてるんでしょ。証拠なんて残ってないわ。それなら窓からの景色以外に調べることなんてないじゃない」

 澄ました様子で窓を開ける理由にならないことを言ってのける。

 クリスはダメなものはダメです、と頑として主張する。

「都会の空気ってすごく汚いんですよ」

 あらそう、とだけ言ってクリスを鼻であしらい、ドア近くの俺に顔を向ける。

「ガーゼル、あんたも窓から外を見てみなさい」

「え、窓は開けちゃいけないんだろ?」

「開けなくても見えるわ」

 そういうことなら。

 何故ホテルの二階の窓からクルチョワの街を眺めるのか、疑問だったので俺も外を覗いてみた。

「いい景色じゃないですよ」

 俺達の行動を呆れたように見つめて、クリスが呟く。

 確かにいい景色ではないし、事件に関係するとも思えない。

「わからないかしら、ほら真っすぐ見なさい」

 そう言ってアイレスが指で示した方に目を凝らす。

「あっ!」

 思わず声を出して驚いた。

「わかったみたいね、ここから何が見えるか」

 俺はしたり顔のアイレスの言葉に頷いた。

この窓の外から事件の起きたアパートメントと、それに面する通りとその通行人の姿が見えたのだ。

「え、お二人は何かお気づきになったんですか?」

 俺とアイレスが頷き合ったのを見て、クリスが不思議そうに訊いてくる。

 それにアイレスがにたりと笑って答えた。

「クリス、犯人はあんたがここで働いてるのを知っている人物よ」

「ええっ!」

「ええっ!」

 クリスに加えて俺も度肝を抜かれた。よく断定できるな。

 だってそうでしょ、と大したことでもなさそうにアイレスは微笑む。

「ずばり言い当ててしまえば、ラビアン・ドレスね」

「じゃあ、あの女の人がやっぱり……でもなんでわかるんですか?」

「それはラビアン・ドレスがこの窓から被害者が部屋で一人になるのを観察して待ってたからよ。あんたのお母さんが殺されたのはあんたが家にいない時でしょう?」

 確かにそう考えられますね、とクリスはアイレスの考えに納得する。

「それでクリス、実はラビアン・ドレスは偽名なの」

「ええっ!」

 再びクリスは衝撃を受ける。

「偽名ってことはまさか実名がわからないってことですか?」

「そういうこと」

「誰なのか特定できてないんですか?」

「そういうこと」

「それじゃあ、これ以上捜査は進まないってことですか?」

 もはや泣き出しそうに、クリスがアイレスに尋ねる。

 アイレスは首を振る。

「そうじゃないわ。ただラビアン・ドレスの正体を割り出す手間が増えただけよ。でもこの窓の事実で犯人がかなり絞り込めたわよ」

 俺には理解できない推理が、アイレスの中で展開しているのだろう。

「それでクリス、あんたがここで働いてるのを知っている人に心当たりは?」

「ええと、お母さん以外にはピーターさんとギャレットさんだけです」」

 深く考え込む様子でアイレスは顎に手を添える。

「二人だけっていうのが謎だわ。ラビアン・ドレスを名乗ってるのは女なのよ? まず性別が違うじゃない」

 それは大きな差異だ。ラビアン・ドレスの外見的特徴として金に似た色の長い髪とコートの上からでもわかるほどの巨乳だ。巨乳については男性が変装するのは難しい。

「そうなると二人のどちらかがどこぞの女に殺人を依頼した、としか考えようがないわ。とはいえ二人とも恨みを持っているようには見えなかったけど」

「あの二人がお母さんに殺意を持っていたなんて、僕には考えられません」

 クリスが強く主張する。

 それは俺も同感だ。実際会った二人からはアリシー・アルベロアに対する懇意が言動の端々から見て取れた。

 黙考しながら右手の指で髪の毛先を梳かしていたアイレスが、その手を止めて俺を振り向いた。

「ここに居ても謎が解けそうにないわ。ガーゼル、引き上げるわよ」

 そう言って俺の返事を待たず、早足に室内を出た。

「ガーゼルさん」

 アイレスの後に追おうとした俺を、クリスが不意に呼び止める。

「なんだ?」

「絶対に解決してください」

 期待するような目でクリスは言った。

 俺は苦笑いで、

「解決できるかはアイレス次第だよ。俺はあいつの捜査を手伝ってるだけだし、何一つ役に立ててない。頼むならアイレスに言ってくれ」

「僕、解決していただいたらすぐにお礼に行きます」

 


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