四章
四章1
ファーガ警部にラビアン・ドレスの所在を調べてもらうよう頼んでから、はやくも四日が経った。
その四日の間も俺はアイレスの熱心な捜査に付き添ったが、彼女は肩をすくめて首を横に振るばかり成果はなかった。
そうして万策尽きたのか、今日は朝から応接室の執務机に居座ったまま判明している事物を書き連ねた不用になった便箋用紙を凝視して、あれこれ独り言を呟き続けている。
かくいう俺は書棚から何気なく選び取った『絵の色』という小説を、さっき読み始めたところだ。
絵の色が見たいの、と少女の台詞から始まるんだから先が気になってしかたがない。
十数ページほど読んだところで、応接室のドアが静かにノックされる。
「誰よ?」
アイレスは気だるげに誰何した。
「私だよ、アイちゃん。また警部さんが来てる」
「うーん、まあ通して」
アイレスが許可すると、足音けたたましくフャーガ警部が入ってくる。
「アイレス嬢ちゃん!」
アイレスが座る執務机に押しかけ、差し迫った表情で警部は詰め寄る。
アイレスは椅子の上でのけ反って、詰め寄る警部を呆然と見つめ返す。
「ど、どうしたのよアレックス?」
「ラビアン・ドレスについて大変なことがわかってしまったんだ」
大変なこと、なんだろう?
警部は息せき切って言った。
「ラビアン・ドレスは存在しない」
__へ?
警部の発した言葉が、俺は理解できなかった。
アイレスもぽかんと何の反応もせず、警部の顔を見ている。
「国中の役所へ電報を送ったが、どこからもラビアン・ドレスは住んでいない、あるいは住民名簿に載っていないとの返電が来た。どこかで隠れ住んでいるわけでなければラビアン・ドレスはいないことになる」
アイレスが顔面に動揺を顕著に現して言う。
「じゃ、じゃあクリスが言ってた特徴の合致した人物は誰なのよ?」
「何、クリスがラビアン・ドレスを見たと言ったのか?」
「見ただけじゃない、実際に泊まったって。利用客一覧表にも名前が載ってたもの」
金に似た色の髪をした女性、コート、トランク、三つの特徴に当てはまった女性。犯人候補に挙げるには充分な証拠だ。
しかしその女性は存在しない、と警部は言っているのだ。何がどうなっている?
警部はドアの方を、幾度も気づかわしげに見やる。
「それに問題事が増えたぜ、アイレス嬢ちゃん」
「問題事って?」
不思議そうにアイレスが訊く。
警部が机から離れ、アイレスの正面に立つと腰を折って深々と頭を下げた。
「すまない」
「え、なんでアレックスが謝るの?」
驚くアイレスの当然の疑問には構わず、警部は話す。
「ラビアン・ドレスが偽名だとわかり、同じ特徴を持ちかつアリシー・アルベロアと面識のある女性が犯人だと判断が下されたんだ。そうすると署の連中は揃ってジーナ・クロースを疑い出した」
「なんですって!」
アイレスが勢いよく立ち上がり、驚愕の声を挙げた。
「誰よ、そんな根拠もない嫌疑をジーナに向けたのは? あたしがそいつにジーナの無実を完璧に証明して見せるわ……ああ」
威勢よく憤慨していたアイレスが、突然言葉を切る。力なく机に両手をつく。
「今のままじゃ、ジーナの嫌疑が深まるだけだわ」
「そうなのか、アイレス?」
俺はジーナさんの嫌疑が深まる理由がわからず、アイレスに尋ねる。
アイレスがそんなこともわからないの、と俺を軽蔑する目を向けてくる。
「犯人の特徴としてアリシー・アルベロアと知り合いで金に似た髪色、コートは着脱ができるうえどんなコートかということは判明していないので除外できるわ。トランクは誰でも持っているような物だし。さらにクリスが見たという女は巨乳、近眼は演技ができる。そうなるとジーナは特徴に文句のつけようもなく該当しちゃうのよ」
アイレスの説明を聞いて、俺ものっぴきならない事態だと気が付いた。
「アレックス、ジーナはどうなるの?」
不安も露にアイレスは警部に尋ねる。
「まだ犯人だと疑いをかけられただけだ。本当の犯人が特定されれば疑いはすぐに晴れるだろう」
「そう、なら……」
アイレスが何か言おうとした時、不意に呼び出し鈴が鳴った。
ドアの外でジーナさんが来訪者に、愛想よく返事をするのが聞こえた。
「まさか!」
ジーナさんの声を聞くなり、警部は部屋を飛び出していった。
え、なんだ?
「ガーゼル、私達も様子を見に行くわよ」
状況の展開についていけず棒立ちしている俺を、アイレスはドアの外にまで引っ張り出した。
廊下に出ると玄関にジーナさん、その肩越しに三人の警官が立っていた。
真ん中の頬骨が出張って痩せた金壺眼の神経質そうな警官が一歩進み出て、高圧的な視線をジーナさんに投じる。
「お前がジーナ・クロースだな」
「は、はい……そうですけど」
恐喝に似た問いに、ジーナさん怯えるような声で肯定する。
その警官は冷酷な目で、ジーナさんを見据えて告げる。
「ジーナ・クロース、お前を殺人罪で検挙する」
「待つんだお前ら」
庇うようにジーナさんの前に警部が割り込む。
殺人罪を告げた金壺眼の警官が、警部を蔑むように口元を歪める。
「警部はこの罪人の肩を持つ、そういう気なんですか? 法を遵守するべき警察が法を逸脱した者を庇うと?」
「この子が殺人罪に問われるいわれはないと、俺は思うぞ」
「彼女にアリバイがないと言ったのは、あなたでしょう? 犯人の外見的特徴、被害者との関係性、それだけ証拠が揃っていながら何故そう断言できる?」
「動機がない」
「動機など、自白させればいくらでも吐くだろう」
警部は押し黙った。応接室のしきいにいる俺とアイレスを振り向く。正確にはアイレスを見ていた。
アイレスには警部の視線の意味がわかったらしく、敢然と前に進み出た。
何をしようと?
金壺眼の警官が怪訝そうにアイレスを見る。
「あなたは?」
「ジーナの友達よ」
アイレスは金壺眼の警官の正面に、仁王立ちする。
金壺眼の警官は、アイレスに憐れみを含んだ視線を送る。
「そうですか、罪深きご友人にさぞ傷心なされているでしょう」
「あんた、ここが誰の家なのか知ってるのかしら?」
アイレスは顎を突き上げて傲然と、頭一個分は背の高い警官に詰問した。
警官達は三人で顔を見合わせて一言二言論じ合い、再びアイレスに視線を戻す。すると金壺眼の警官は途端に片頬を上げて嘲笑った。
「名探偵と称されるエモン・フェルナンドの自宅だろう。そしてあなたはエモンの娘さんで間違いないだろう?」
「ええ、そうよ。だから……」
「だから、なんだというのですか?」
思わぬ切り返しにアイレスは、発しようとした言葉を飲み込まざるを得なかった。
警官は続ける。
「あなたはこの事件の捜査をしてるそうだね。しかし名探偵の血筋を持っていたとしてもだ、あなたは一人の少女には変わりない。探偵ごっこはやめた方がいい、エモンもあなたが探偵の真似事をして危険な目に遭うのを望んではいないでしょう」
俺の中でふつふつと、アイレスの探偵仕事に対する比類なき想いを嘲笑したあの警官に対する瞋恚が沸き上がった。
俺は警官達の前まで行き、アイレスの隣に立った。
「アイレスの熱意を踏みにじる気か」
「あなたは?」
「ガーゼル・シルバだ、アイレスの従兄にあたる。エモン叔父さんからすれば甥だ」
金壺眼の警官が眉を顰める。
「エモン探偵の甥、ですか。聞いたことありませんね」
「叔父さんとは七年会ってないからな、名前が出ることもなかったはずだ」
「それで、あなたは我々に反論があると?」
実直だがいけ好かない物腰に憤りを感じる。俺は言った。
「アイレスは父の帰りを今でも待っているんだ。そして、父親の居場所である探偵を代わりにやっているんだ。エモン叔父さんの代わりが務まるのはアイレスだけなんだよ」
「ほう?」
警官の俺を見る目が、試すようなものに変わる。
「エモンの代わりが務まるのはアイレスだけ、か。面白い」
次いでアイレスに視線を転じる。
「彼はこう言っていますが、どうですかアイレス・フェルナンド嬢?」
「どうですって、何が言いたいわけ?」
警官は挑発まがいに口の端を吊り上げて笑う。
「エモンはどんな難解で困難な依頼も優れた手腕で解決した。エモンの代わりを務めるられるのがあなただけなら、解決のために猶予をあげましょう」
「猶予?」
「そう猶予です、事件解決のために三日間あげましょう。その間はジーナ・クロースの容疑を取り消しますよ」
「三日経っても解決できない場合はジーナをどうするの?」
「言われるまでもなく、徹底的に署で取り調べを行わせていただきます」
メリットのない厳しい条件に、アイレスは顎に手を添え思慮する。
考えが決まったらしく顎から手を離すと、眼前の警官に頷いた。
アイレスが幼馴染で親友であるジーナさんが無実の罪で検挙されるリスクを、自分から選ぶはずがない。きっと他の方法で嫌疑を晴らすはずだ。
俺はアイレスがなんと言い出すのか待った。
アイレスの口が開く。
「わかったわ、三日で解決すればいいのね」
「アイちゃん!?」
背後でジーナさんが叫ぶ。
アイレス、何を考えてるんだ!
アイレスは俺の予想を簡単に裏切った。
「待て待て、アイレス!」
俺はすかさず抗議する。
「三日以内に解決できなかったら、ジーナさんが罪人扱いされるんだぞ? そうなったらお前が一番後悔するだろ。こんな不条理な条件を承諾するな」
「ごめん、ガーゼル」
俺の抗議をアイレスは、静かに謝って受け止める。
「三日の猶予をくれただけでも充分な譲歩よ」
「どういうこと、アイちゃん?」
冤罪の危機にさらされたジーナさんが、当惑しきってアイレスに尋ねる。
「犯人の特徴は金に似た色の髪、そしてアリシー・アルベロアと面識のあること。アレックスが言うにはジーナはアリバイを証明できない。むしろこれで疑われない方がおかしいわよ」
「疑われるのを仕方ないなんてお前が言ったら、誰がジーナさんの無実を証明するっていうんだ! 俺にはできないぞ!」
「ガーゼル、あんた間違ってるわ」
「間違ってる? どういうことだ?」
忠告の理解が出来ず、俺は訊き返す。
アイレスは人差し指を立て、俺に指先を向ける。
「今の私は探偵のフェルナンド・アイレスよ。探偵は私情を交えて物事を捉えてはいけないの。だから私のやることはジーナにかけられてる嫌疑を否定するのではなく、事実で覆すことなの」
アイレスは不敵に笑った。
呆気にとられて、言うべき台詞が見つからない。
「それでは三日後までに、証明してみせてください」
慇懃にそう言うと、金壺眼の警官は両隣の同僚を引き連れて去っていった。
「はあぁ」
アイレスが嘆息した。
「タイムリミットは三日後かぁ、どうしたもんかしらね」
「あんだけ自信たっぷりに受けて立ってよかったのか、解決の糸口も見つかってないんだろ」
「自信なんかいかほどもないわ。今まで出てきた情報だけじゃ犯人なんてわかるはずがないもの」
「アイちゃん、私どうなるの? 捕まっちゃうの?」
ジーナさんが泣き出しそうな顔でアイレスに尋ねる。
アイレスは毅然と首を横に振った。
「ジーナの無実は絶対私が証明してみせるわ。だからジーナは気にしなくていいのよいいのよ」
「アイちゃぁぁぁん」
ジーナさんはむせび泣き、アイレスに抱きついた。
アイレスもジーナを優しく抱擁する。
「大丈夫よ、あたしは名探偵だから信じてて」
「うん」
ジーナさんはアイレスの腕の中で頷く。
「アイレス嬢ちゃん」
俺の後ろで警部が拳を固めた。
「俺もできる限りの協力をする。なんでも言いつけてくれ」
「ありがと、アレックス」
警部に微笑むと、次にアイレスが俺を見る。
「ガーゼル?」
「なんだ?」
アイレスは小さく微笑む。
「頼りにしてるわ」
「……お、おう」
俺は数秒呆気にとられた。アイレスが俺に向って頼りにしてるわ、なんて言うとは思ってもみなかったからだ。
アイレスはジーナへの抱擁を解いて優しく声をかけて帰らせると、しばらくして俺と警部を交互に見る。
「ガーゼル、アレックス、今から出掛けるわよ」
「どこにだ、嬢ちゃん?」
警部が勢い込んで尋ねる。アイレスが答える。
「アリシー・アルベロアの知り合い二人よ」
「えっ、知り合い? それはもう一回訪ねたはずだよな。新しく知り合いが見つかったのか?」
「いいえ、この前訪ねた二人よ」
「でもなんでまたあの二人なんだ?」
「違うわ、ガーゼル。この前は被害者の友人として訪ねたの、でも今回はアレックスが居るもの、なんでも怪しまれず聞き出せるのよ、他に聞きたいことが増えたって言うのもあるし」
「あーそうか、警部だから質問の内容が事件関連でもおかしくないもんな」
俺は納得がいく。
「そういうことで、さっそく出掛けるわよ」
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