三章2
「アイレス」
むっつりと前を歩くアイレスに、俺は声をかけた。
この先に続く台詞が見つからない。
「いいのよ」
アイレスは言葉を探す俺に、気丈にも笑顔を向け言った。
「こんな十六歳の小娘が探偵の仕事をやっていれば、誰だって訊くわよ。ごっこ遊びに見られる時だってあるわ」
「アイレス……」
俺が慰めの言葉をかけようとしたのを、片手を突き出して制する。
「慰めは不要よ」
アイレスはニヤリと微笑む。
「だって父さんが行方不明じゃなくても探偵やってたと思うもの、それが早くなってるだけよ」
「エモン叔父さんが行方不明になるほど、危険な仕事なのにか?」
「ええ、お父さんには猛反対されるでしょうけど」
くすっと小さく笑った。だがすぐに顔を引き締める。
「今はお父さんのことより、事件について考えましょう」
そう言うアイレスにしばしついて歩くと、彼女はふと足を止めて正面を指さす。
「見えてきたわ」
指の先を追うと、近代的なシルエットにガラス窓が建物いっぱいに整然はめ込まれた瀟洒なホテルが、異彩を放ちながらも街並みに溶け込んでいた。
七年前この街に来た時、一泊だけ利用した記憶がおぼろげにある。たしかその日は疲れてホテルに着くなり部屋ですぐに眠ってしまって、ホテルの施設を存分に堪能できなくて家族で悲涙に暮れた。
「あのホテルにクリスが働いてて、いろいろと聞きたいことがあるの」
アイレスは決然と一人で頷き、今となっては笑い話の思い出にひたっていた俺を置いてすたすた歩き出し、ホテルに入っていった。
俺も慌てて着いていく。
俺達が豪奢なロビーに入ると、ロビーの隅でホテルスタッフと談笑していた何者かがこちらに気付き駆け寄ってきた。
隆々たる体躯をよれよれの警官服で包んだ無精髭の男性、フャーガ警部だ。
警部は明るくにこやかに片手を挙げる。
「よう、アイレスの嬢ちゃん。ゆっくり眠れたか?」
アイレスは肩をすくめる。
「もともと寝つきが良い方じゃないわ」
「それは良くねーな。早寝早起き美の秘訣だぜ」
「余計なお世話よ。あたしは生活リズムを崩してストレスを溜めたくないの」
「そんなの言っていられるのも若いうちだけだぜ、アイレス嬢ちゃん」
意地の悪い笑みを警部は浮かべる。
面倒そうに肩を落として、アイレスは嘆息する。
「はいはい、ご助言ありがと。それであんたも聞き込みでここに来たわけ?」
警部はフンと自慢げに鼻を鳴らす。
「当たり前だ。クリス・アルベロアに用があったんだ。フロントに客が来てるから、話終わるのを待ってたんだ」
「目的は一緒ね。あたしもクリスにいろいろ訊きたいことがあるのよ」
「現在、恋人がいないかどうかか?」
「ちがう!」
アイレスの目がきっと剣呑に細まる。
得心しているように二、三度警部は頷いている。
「坊主」
「え?」
脈絡なく俺の肩にたくましい腕を回して、アイレスの視線を避けるように背を向け声を潜めて耳打ちする。
「アイレス嬢ちゃんの付き添いか?」
「ああ、はい。仕事を手伝わせてもらってます」
俺が答えると警部はアイレスをちらりと見るとすぐに視線を戻し、さらに声を潜める。
「いいか、坊主」
真面目な顔で言う。
「アイレス嬢ちゃんからの要求は全部容認しろ。こんなことやそんなこと、ひいてはあんなことまでな」
代名詞を多用して具体的に何を指しているのか、皆目見当がつかない。でもこの野卑なにやつきは悪い予感を呼び起こさせる。俺はアイレスに何を要求されるんだろうか?
「何を話してるのかしら?」
びくりと警部が振り返ると、アイレスが冷ややかな半目で俺と警部を睨み据えていた。
警部はへらへらして俺から離れる。
「何でもないぜアイレス嬢ちゃん。さ、クリス・アルベロアに聞き込みだ」
はははは、とお気楽に笑ってロビー奥の受付に向った。
アイレスは警部が去ってからも、俺を勘繰るような目で睨んでいる。
「ガーゼル」
「なんだよ……アイレス?」
妙な威圧を感じて俺は当惑する。
「あのひとでなし警部は何て言ってたの?」
ひとでなしって、酷い言い様だな。あの人、そんな風には見えないけど。俺は答える。
「こんなことやそんなことでもアイレスの要求は容認しろ、だとか言ってた」
「どういう意味?」
「俺にもさっぱり」
アイレスは沈思したが、ダメねわかんないわ、と考えあぐね首を横に振る。
「アレックスが変人なのは前からだから、気にするのはやめましょう」
さっきからアイレスのフャーガ警部に対する呼称が、見下すものばかりなのは何故だろう。
「じゃあクリスに聞き込みでもしましょうか」
俺とアイレスは警部の去った後を追う。
先にフロントに来ていた警部は、受付の男性に事情を話していた。
「クリス・アルベロアさんですね、ただいまお呼びします」
警部と話をしていた男性スタッフが、後ろのスタッフルームにアルベロアさん警察の方がお話を聞きたいそうです、と呼びかける。
しばらくして男性スタッフと同じ制服を着た青年が、スタッフルームから現れた。心なしか疲れた表情で警部と俺とアイレスを見る。色素の濃い黒髪で気弱そうな印象だ。
「なんでしょう警部さん?」
「すまないクリス君。仕事中だったかな?」
警部が被害者の息子に明るく振る舞う。そうするのは警部なりの遺族への配慮なのかもしれない。
クリスは警部の次に、アイレスを目に留向ける。
「フェルナンドさんも警部さんと同じ理由でここに?」
「ええ、そうよ」
アイレスは頷く。
クリス・アルベロアを呼び出した男性スタッフが、丁寧な手ぶりでロビー隅の待合スペースのローテーブルを指し示す。
「お話はあちらでしていただきたいのですが?」
「おー、ありがとな」
警部は男性スタッフの丁寧な物腰も意に介さず、くだけた口調で礼を言った。
この人が明るいのはもともとの性分だったようだ。
俺はアイレスと警部とクリスで、男性スタッフに勧められたテーブルを各々に座って囲んだ。
「クリス君、お母さんが亡くなったばかりだが具合は悪くないか?」
警部が身を乗り出して、真向かいのクリスの身に気を配る。
クリスは大丈夫です、と弱く頷いた。
「よし、強い子だ」
感心したように警部はクリスの肩に手を置いた。
「それで事件について訊きたいことがまだあるんだ」
「何ですか?」
「君のお母さんの知り合いに金髪の女性はいないか?」
クリスは眉を寄せる。
「僕の知る限りは……」
そこで言葉を切り、寄せていた眉が上がった。
「一人、金髪ではなく亜麻色ですが家を出入りしたことのある女性がいます」
「なんだとっ!」
警部はより身を前に乗り出す。腰が折れ切っている。
「名前は?」
「ジーナ・クロースです。アイレスさんと仲の良かった気がしますが……」
クリスははす向かいのアイレスに目を移す。
「そうなのか、アイレス嬢ちゃん?」
警部もアイレスを見る。
「ええ、とっても仲良しよ。幼馴染ですもの」
仲の良い、と言われてアイレスは喜色を顔に浮かばせる。
亜麻色の髪、アイレス嬢ちゃんのダチ、としばし記憶を探るような顔つきで警部は呟いた。ああ、と思い出して呻く。
「昨日、アイレス嬢ちゃんの家に居たあの子か。だからアイちゃんって呼んでたわけだ。中々のべっぴんさんだったな」
「そうそう、可愛いわよねジーナは」
「いかにもモテそうだな」
「実際、ジーナに言い寄る男は多いわ」
「やはりか、ごろつきに迫られたときはすぐに警察を通報しろよ、一足に駆けつけてやるぜ」
探偵の娘と警部、二人の会話がジーナさんを話題に花が咲いた。それをぽつねんとクリスが眺めている。
おいおい、クリスからはぶられオーラが出てるぞ。
仕方なく、俺は二人の会話に割り込む。
「二人とも目的忘れるなよ」
アイレスと警部はぴたりと話を止め、揃って俺を見る。
「そうだったそうだった」
「ごめんなさい、話が逸れてたわ」
警部が再びクリスに顔を向ける。アイレスもクリスを向く。
「ジーナ・クロースはいつ君の家に来たんだ?」
「つい先週くらい前です、彼女の落とし物を母が拾って届けたお礼にお菓子を持ってきただけでしたよ」
「ふーむ動機はなし、か」
悩ましそうに警部は短髪の頭を掻く。
「余計にわからなくなった」
「クリス、ほんとに知り合いに金に似た髪色の女性はいないの?」
アイレスが重ねて尋ねる。
クリスはなんとか思い出そうとするが、しばらくして首を左右に振った。
「ごめんなさい、僕にはジーナさんしか思い当たりません」
「そう」
残念そうにアイレスは呟いた。
犯人の外見的な証言を得たにもかかわらず、捜査は進展していない。それに唯一クリスの母のアリシーと面識のあるジーナさんは恨みを持ち殺害に至る動機がない。あの温和なジーナさんが殺人をするわけがない。
「はあぁ」
警部が大きなため息を漏らして言う。
「仕方ねぇ、関係ないだろうが念のためジーナ・クロースにも聞き込みをするか。それじではクリス君、戻っていいよ」
人を追い払う仕草で手をひらひらクリスに向けると、警部は腰を上げた。
「じゃあ、俺は帰るぜ」
心持ち不満足そうに言って、警部はお暇した。
クリスも立ち上がる。
「それではアイレスさんと……あなたは名前は?」
俺を見つめ、クリスが首をひねる。
そういや、まだ名乗ってなかった。
「俺はガーゼル・シルバ。アイレスの仕事の手伝い」
「ガーゼル・シルバさんですね。それでは僕は仕事に戻ります」
一礼してそう俺達に告げると、スタッフルームの方に歩き出した。
「ちょっといいかしら」
アイレスがクリスの背中に声をかけた。
「まだ聞きたいことがあるんだけど、いいかしらクリス?」
「はい、構いませんよ」
急に呼び止められ、きょとんとしてクリスは頷いた。
「知り合い以外に、金に似た髪色の女性は見なかったかしら?」
「それなら、見ましたよ。お客様におられました」
なんと、アイレスは出入りできるのは知り合いだけ、金色っぽい髪、女性という三つの犯人の特徴を一つ除いて訊き直したのだ。金色っぽい髪、女性という特徴だけでは稀ではあるが街中探せば当てはまる人はたくさんいる。さらにホテルの客となれば郊外しいては国外の人まで当てはまってしまうのではないか。
俺はアイレスの質問に理解し損ねる。アイレスは質問を続ける。
「その客が来たのはいつ?」
「確か四日前ぐらいだよ」
「なんですって、事件発生の前の日じゃない。時刻は?」
「宿泊したお客の一覧表を見れば、すぐにわかるよ」
「すぐに見せなさい!」
「受付台の引き出しの中です。来てください」
急かしてくるアイレスに、クリスも早口になって応じる。
受付まで急ぐ二人に俺も着いていく。
「これです」
クリスは受付テーブルの引き出しから一冊の帳簿を取り出し、テーブル上に置いた。
帳簿の表紙には『利用客一覧表』と書かれてある。
クリスはいろんな人の名前が記入されているページをめくっていく。俺とアイレスはそれを熱心に見つめる。
クリスのページをめくる手が止まり、見開き左ページの左上の振られている番号とをその横の名前を見ながら下っていく。この方です、と指を置く。
「ラビアン・ドレス……さんです。金に似た髪色をしていました」
「それでチェックインはいつ?」
「ええと、十九時三十四分です」
「チェックアウトは?」
「次の日の二十一時一分です。この方の入退館時刻が何か関係あるんですか?」
事件と結びつきのなさそうな質問をするアイレスにクリスが首を傾げると、アイレスは帳簿をひったくる。
「ああ、ダメです。職員以外が見ちゃ」
「訊いてあんたが答えるのと、あたしが直接見るのも大差ないわ」
身勝手な理屈を言い立てて、手に取った帳簿に目を走らせる。
「この女の前後に入退館した人が彼女を見ているかもしれな……」
アイレスは帳簿に走らせていた目を、一点に止めた。
「どうしたんだ?」
「ガーゼル、ベイルさんの名前があるわよ」
そう言ってラビアン・ドレスの下の枠の名前を指さす。
そこには筆致でピーター・ベイルと書かれていた。そういえばハートさんがピーターはクルチョワ中央ホテルに泊まった、と言っていたな。
「うーん、ダメね。ラビアン・ドレスっていう女のチェックアウトから一時間ぐらい後の二十二時二分にチェックインしてる。これじゃ、ベイルさんがこの女を見ている可能性はほぼないわね」
アイレスは溜息を吐く。クリスが言い添える。
「ベイルさんというと、それに記入のあるピーター・ベイルっていう男性ですよね。その人なら、かなり小さなトランクを持ってましたから印象的でした」
「ベイルさんのことはどうでもいいの。それよりクリスはこのラビアン・ドレスって女を見てるんでしょう。それならこの女がトランクを持ってたか、わかるわよね」
「トランクですか、すごく大きいトランクを提げてましたよ」
「でかした。それで他には、何か知ってる?」
「他には近眼っていうことしか」
「近眼、どういうことよ?」
「お客様が部屋を指定なさる時に、随分顔を館内図に近づけておられましたから、近眼なんだろうって思ったんです」
「あんまり犯人を絞り込むには強力な特徴じゃないわね。演技かもしれないわけだし。他にはないの?」
「えーと、黒いコートとか」
「それはもう別の人の証言で出てるの、個人を特定できちゃうような新しい証拠はないのかしら?」
執拗にアイレスはクリスに尋ねる。
クリスは懸命に当時の記憶を思い出しているようで、長く唸っている。
すると突如はっとした様子で、唸りを止めた。
「思い出したの?」
アイレスが尋ねると、クリスは何故か恥じるように俯いた。
「思い出したんですが……口にするには少々恥ずかしい特徴でして……」
「恥ずかしくても言いなさい、クリス!」
アイレスは剣幕で催促した。渋々クリスが囁くような声で言う。
「その、周りには聞こえないようにアイレスさんにだけ教えますから……その、耳を貸してください」
「仕方ないわね」
顔を顰めてアイレスが耳を寄せると、クリスは俺にさえも聞き取れない囁き声でアイレスに言った。
「なっ!」
途端にアイレスの顔が全面真っ赤に染まる。
聞いて顔面赤くするって、一体どんな特徴なんだ?
「それでなんなんだ、その特徴は?」
赤面のまま驚愕の表情で硬直してしまったアイレスに、俺は尋ねる。
「きょ……」
きょ? 巨躯とか、狂人とか? それとも身も震えるが凶悪犯とか?
「きょ、なんだ?」
「きょ、きょ」
「なんだ?」
「巨乳……」
「はあ? なんだって?」
聞き違いでないかどうか、俺は尋ね返す。巨乳って言ってるのか?
アイレスは一層顔を赤らめ小声で、
「だから巨乳よ……コートでも隠せないほどの……」
聞き違いではなかったらしい。
コートでも隠せないほどの巨乳、クリスが口にするのを異常に恥ずかしがった理由がよくわかった。
____巨乳って。
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