一章6

 惨烈極まりない拷問料理を、満腹を理由におかわりなしで逃避に成功した俺は、胃の中でだぶつく赤紫の液体が今にも吐き出そうな状態で、部屋に戻るなり力尽きるようにベッドに身を投げ出した。

 手中に帰ってきた意識で俺は眠りから目覚める。明るい部屋だ。

 嘔気がもたらす気持ち悪さは、ベッドで安静にしていたからか少し引いていた。

 再度床に就く気は湧かず、のろのろ身体を起こし、ベッド脇の鞄から懐中時計を取り出す。

 深夜の一時を過ぎていた。

 またもランプの灯りの下での目覚めである。

 誰かが階段を昇ってくる足音が聞こえる。 

 懐中時計から顔を上げる。

 ドアがゆっくりと開かれた。わずかな隙間から何者かの頭が覗く。

 アイレスだ。俺を見つけてびくりと肩を震わせた。

「ガーゼルお、起きてたの?」

「うん、まあ」

 こんな深夜に何をしに来たのだろうか?

「何か用か?」

「え、灯りが漏れてたから様子を見に来たんだけど」

「それはいいが。もしかしてお前、こんな時間まで起きてたのか?」

「……うん」

 一瞬答えを渋ったが、アイレスは頷く。

「何をしてたんだ、こんな夜遅くまで?」

「え、仕事だけど」

 仕事、昼に引き受けてたあれか?

「もしかして警部から頼まれた探偵の仕事か?」

「まあ、そういうことよ」

「詰め過ぎじゃないか? 体に悪いぞ」

「仕方ないのよ」

 仕方ない? またどうして?

「仕方ないってどういうことだ? 急務の依頼なのか?」

 アイレスは腹を決めたような表情で、

「ガーゼルにはいつかばれるもの、今言っておいた方がいいわね」

「何を?」

 いきなり改まった態度で俺を見る。

「叔父さんについてなんだけど」

「一度、聞い……」 

一度聞いたな、それ。

 そう言いかけたがアイレスの真剣な瞳に、口にするのを逡巡した。。

「一年前から行方不明なの……」

 数秒の間、二の句が継げなかった。

 信じがたい。

「冗談にしてはやけに壮絶だな」

「冗談なんかじゃないわよ……」

 アイレスの口調に、静かな苛立ちが現れていた。

「そんな嘘を言ってふざけるわけないでしょ」

「……じゃあ本当なのか?」

 アイレスは間を置いて頷いた。

 予想だにしなかったアイレスの告白に、俺は呆然と口を利けなかった。

「だから代わりに私が探偵をしてるの」

「……なんで言ってくれなかったんだ!」

 堰き止めるものがなく、俺は出放題に言葉を吐き出していた。

「駅で俺が叔父さんのこと聞いた時、なんで嘘ついたんだ!」

「それは……」

 気まずそうに、アイレスが顔を伏せる。

「なんでだ!」

 叫んで問い詰めた。

 アイレスが顔を起こして、俺をひたと目で捉える。

「簡単に口にできるわけないでしょ」

「だからって……」

「お父さんが行方不明になったなんて、口にできるほど冷淡な娘じゃないのよ。たくさん愛情を受けて育ったんだからなおさらよ。今でも行方不明なんて信じてない、どこかで生きててひょっくり帰ってくるって思ってる」

 アイレスとは従妹という関係でしかない俺には、これ以上の反論はできなかった。実の娘であるアイレスと同じ愛情を受けていない、ただの親類なのだ。

 俺が押し黙っていると、アイレスが埒があかないわ、と呟き溜息を漏らした。

「あたし達が言い争ってもどうにもならないわ。そうでしょ?」

「……そうだな」

 アイレスを見据えて、俺は頷いた。全くその通りだ。

 嘘を吐かれて苛立っていた感情が徐々に落ち着き、俺は訊くべき質問を口にする。

「それで、どうしてエモン叔父さんは行方不明になったんだ?」

「仕事の依頼で出て行ったまま、消息を絶ったらしいわ……はい、暗い話はこれでおしまい。あたしは部屋に戻るから、灯りは消して寝なさいよ」

 一方的に会話を終わらせたアイレスは、踵を返して階段に足を踏み出す。

 何か、かけてやるべき言葉があるはずだ。

「ちょっと待て」

「まだ何か?」

 アイレスは振り返って、鬱陶しそうに俺をねめつける。

 俺は率直に尋ねた。

「なんで、アイレスが探偵の仕事をやってるんだ? 行方不明になっていることと関係あるのか?」

「そうよ……」

 続ける言葉を思案するような沈黙、

「あたしはお父さんみたいに、皆から称賛される名探偵じゃないの。なれるなら名探偵になりたいけど、あたしはそんな器じゃないから、お父さんのようにはなれないの。でもお父さんの代わりに、探偵の仕事を引き受けることならあたしにもできる。それに探偵としてのお父さんの居場所を残しておかないと、帰ってきたときにお父さん路頭に迷っちゃうわ」

 アイレスは切々と言った。

「だから、探偵の仕事をやってるのか?」

「そうよ、変かしら?」

 探偵の仕事を父が帰ってくるまで、娘のあたしが代わりに受け持つ。それと父の居場所を居るべき場所をなくしたくない。アイレスはそう答えた。

 でもアイレスはそれを一人で担おうとしているのかもしれない。経験豊富な名探偵の仕事を、俺と同い年の少女が一時的とはいえ、肩代わりするには荷が重すぎる気がする。

 そして俺は今、強く思った。アイレスの力になりたいと。

「アイレス」

「まだ何かあるの?」

 アイレスは煩わしそうに眉を寄せる。

「俺はお前のお父さんの甥っ子だ。その仕事手伝っちゃダメか?」

「確かに甥っ子だけど、ガーゼルに探偵の仕事が務まるわけ__」

「手伝わせてくれ」

 俺は懇願した。頼むよ。

「な、何を言い出すのよ、突然」 

 俺の行動が予期せぬものだったのか、アイレスは目に見えて困惑する。

「お願いだ」

「もしかして同情してる?」

 つっぱねるようなアイレスの鋭い瞳に、懲りずに俺は頭を下げた。

「エモン叔父さんの仕事は、甥である俺にも手伝う権利はあるだろ?」

「そう言われたら、あるけど」

「なんでもやるから」

「なんでもやる、ほんとに?」

「ああ、なんでもやる」

 するとアイレスの口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

「いいわよ、手伝わせてあげる」

 人差し指を先輩が後輩にするように、高慢に突きつけてくる。

「仕事の間、絶対にあたしに言うことには従いなさい。それが条件よ」

 何を要求されるか、それはアイレスの良心に委ねるしかない。

 アイレスの人差し指を立てている腕が、だらりと下ろされる。

「とは言っても、ガーゼルに何をさせればいいのかしら」

「なんでもいいぞ?」

 アイレスは右手で髪先を梳かしながら、首を傾げた。

「荷物運びくらいしか、思いつかないわ」

 荷物運びなら易しいもんだ。今日の買い物を超える重さでなければ。

「まあ、あんたの力が必要になったら貸してもらうわ」

 そう言ってアイレスは微笑むと、次には小さく欠伸をする。

「疲れたからあたし寝るわ。あんたも明日に備えて、もう寝なさい」

 俺にそう告げて、目をこすりながら眠そうに応接室に戻っていった。

「おう」

 俺も部屋に戻って寝るか。

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